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トピックス -企業家倶楽部

2018年02月05日

明治維新で教育を近代化/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2018年1/2月合併号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.11

新政府の教育方針

 明治維新の新政府は、幕藩体制下とは違った、近代的な国家としての教育制度の確立を目指しました。革命政府としては当然のことでしょう。その意気は壮大なものがありました。

 政策の大綱はまず、新政府が発足した慶応4年(1868)6月の「五箇条の誓文」の一つに取り上げられました。いわく「智識を世界に求め、大いに皇基を振興すべし」です。

 単なる知識の導入ではありません。自分の血肉にした「智識」です。そして「皇基」つまり国の基礎を振興しようというのです。ここには教育が国策の基本であるという考えがあります。

 そして廃藩置県が行われた明治4年(1871)、教育行政の中核として文部省が設置され、近代的学制の検討が始まります。翌明治5年(1872)、新しい「学制」が発布されますが、それに先立って「学事奨励に関する被仰出書(おうせいだされしょ)」が出されました。

 この書は学制発布の理念、つまりは教育の理念を述べたものです。なかなかの名文です。そのさわりと思われる部分を抜き出して紹介しましょう。

●「身を修め智を開き才芸を長ずるは学にあらざれば能(あた)はず」。よって「学問は身を立るの財本」であり「人たるもの誰か学ばざるして可ならんや」である。

● これからは「一般の人民華士族農工商及婦女子」は必ず学ぶべきであり「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す」。幼児は「男女の別なく小学に従事」させるべきであり、そうしなければ「父兄の越度」とする。



壮大な学制図

新政府は教育の理想を謳うと同時に、壮大な学制図を打ち出しました。その意気やまさに壮とすべきです。新学制図はこうなっていました。

 まず全国を8の大学区に分けます。1区に1大学を置きます。次に1大学区を32の中学区に分けます。1中学区に1中学校を設けます。さらに1中学区を210の小学区に分けます。1小学区に1小学校を設けます。

 この結果、全国に8大学、256の中学校、5万3700の小学校が設置されることになりました。当時の人口で見ますと、600人に対して1小学校、13万人に対して1中学校が誕生することになります。

 今日の学校数と比較すると大学、中学校はきわめて少なくて、大不満が噴出しそうですが、小学校の方は今日の倍ほどもあります。これはすでに寺子屋や手習所が普及していたからでしょう。なにしろ「邑に不学の戸」を無くすというのが理想なのですから。

 しかし、理想と現実は違います。壮大な学制構想はたちまち壁にぶつかってしまいました。最大の理由は財政問題です。出来立ての新政府には金がありません。そこへきて、新しい学制、とりわけ力を入れようとしている小学校は、市町村が費用を負担しなければなりませんでした。

 それにいま一つ問題がありました。教育の理念は立派ですが、具体的にどんな教育を実践すればいいのか、つまり実践理論が十分に論議を尽くされていませんでした。これでは仏作って魂入れずということになります。教育投資にもいま一つ腰が入らないのです。



実践理論の混迷

 学制が敷かれてから7年後の明治12年(1879)、天皇から文部卿へ「教学聖旨」が下されました。その趣旨は、教育の実態が「知識才芸」に流れているから、もっと徳育を大事にすべきだというものでした。具体的には、頭脳が幼いうちに「仁義忠孝」を教え込めというわけです。

 この忠告の裏には、明治天皇の侍講である元田永孚(ながざね)が控えていました。彼は熊本藩出身で朱子学者です。明治時代の教育方針に大きな影響を与えた人で、後の教育勅語の作成にも係わりました。

 この「仁義忠孝」の徳育論に異論を唱えたのが伊藤博文でした。後の日本初代の総理大臣です。彼は倫理や道徳などの仕事は賢者、哲人に任せればいいのであって、政府が介入すべきではないという考えでした。

 同じ年、文部大輔の田中不二麿が中心になって、新しい教育令が出されました。自由教育令ともいわれたもので、米国の自由教育を参考にしたものでした。内容は授業時間の短縮、父兄の教育費負担の軽減などで、画一的、強制的な学制を弾力化し、子供が家業、家事を手伝いやすくするというものでした。

 しかし、自由教育令は結果として、理想に燃えた学制の構想に水をさすものとなりました。小学校開設の意欲が衰え、児童の就学率が低下したのです。元々、市町村や父兄たちは小学校開設の負担にあえいでいて、県によっては完成した小学校を焼き打ちする事件さえ起きていたのでした。

 結局、田中不二麿は左遷され、文部卿の河野敏鎌は公布間もない教育令を改正します。修身を最重要視することにし、選挙制だった学務委員も府県知事の任命制にしました。こうした教育統制化の動きの裏には、自由民権運動が激しくなってきたという事情が控えていました。


実践理論の混迷

理想と現実の狭間

 自由か統制か、これは教育に限らずあらゆる分野で、その後の日本の政策を左右する大きな課題となって行きます。自由教育令を歓迎していた自由民権派の植木枝盛は河野の改正令を見て、こう嘆きました。「国民に揃いの浴衣を着せ、同じ踊りをさせるのは、国民を操り人形にするようなものだ」。

 しかし、明治新政府の学制が、教育の近代化を推し進めたことも確かでした。市町村によっては、資金を出し合って、文明開化の象徴ともいえる立派な学校を建設するところもありました。大工たちも西洋式学校の建築に腕を振るいました。今日、明治の名建築として残っているものもあります。

 その好例が、明治9年(1876)4月に完成した長野県松本市の開智学校(設計石井清重)です。ユニークな建築もさることながら「開智」という学校名が、その後教育県として注目され続けた長野県の教育への高い志を物語っているように思います。

 有名な太政官の学事奨励の文書には、至る所に「智を開く」という言葉が書かれていました。校名はそれから取ったのでしょう。「開智」こそは教育の基本目的です。広く内外から智識を得て、創意工夫を発揮することが、その人個人も社会も発展の原動力となります。「開智」といえば今日、埼玉県にも開智学園があって、小中高の一貫教育を行っています。

 紆余曲折はあれ、明治新政府の教育の近代化は爆音勇ましく進展して行きます。革命政府ですから、若いエネルギーに満ちています。それに既に見たように、江戸時代が教育の普及に力を入れていました。加えて、文明開化の時代です。人々は欧米の新知識の吸収意欲に燃えていました。福沢諭吉の『学問のすすめ』がベストセラーにもなっていました。

 明治8年(1875)には全国の小学校数は2万4220校に達していました。もちろん、これでは学制で予定した小学校数の半数にも達していません。しかし、全国の市町村のほとんどに小学校が普及した形にはなっていました。

 新政府は師範学校を創って教師の育成に努めました。待遇にも意を払いました。小学校の先生は訓導と呼ばれ、地方を指導する知識人の代表格となりました。ちなみに中学校の先生は教諭、大学の先生は教授と呼ばれるようになりました。

Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」「鎌倉燃ゆ」など。



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