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トピックス -企業家倶楽部

2018年03月26日

森有礼の「国民」の教育/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2018年4月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.12

密航した留学生

 森有礼(ありのり)は薩摩藩士で、密航してロンドンに留学した、いわゆる「サツマ・スチュウデント」の一人でした。彼の郷中の先輩に五代友厚がいました。五代はいち早く日本の国家戦略として「富国強兵」を主唱した男でした。

 五代友厚は大阪商工会議所の会頭などをして「富国」のために尽力しました。森有礼は内閣制度が発足した時の初代文部大臣となり「強兵」のために尽くしました。正確には「強兵」というより「国民」の育成に努めたのでした。

 森有礼は海外留学当時から、教育問題に関心を持ちました。日本が近代化するには、日本人が自立した立派な国民にならなければならないと考えたのです。彼は外交官になってからも、教科書を収集したり、外人お雇い教師の斡旋をしたり、津田梅子らの少女留学生の面倒を見たりしました。

 森有礼が英国公使の時、伊藤博文が欧州へやって来ました。憲法を制定して内閣制度を発足させるため、自ら勉強のため再度留学したのです。この時、森は伊藤と親交を結び、日本の教育制度について意見を交しました。

 こうした縁があって、明治18年(1885)新しい内閣制度の下、第一次伊藤博文内閣が誕生すると、森有礼は弱冠39歳で初代の文部大臣に任命されたのでした。

 これに先立ち、森は明六社を起こして、文明開化の啓蒙運動を行いました。同時に一橋大学の前身になる商法講習所を開きました。彼は「富国」を担う商人も欧米の商法を学んで、国際的に活躍しなければならないと考えたのです。

 このような経歴を持つ森有礼は、いわば満を持して初代の文部大臣に就任したのでした。学制‐教育令‐改正教育令と揺れ動いていた明治初期の日本の教育制度は、伊藤博文総理が後押しする森文政の出現によって、初めて一貫した体制を持つことになりました。


密航した留学生

学校令の制定

 森有礼は従来の教育令に代わって、新しく「学校令」を制定しました。それは小、中、大学校、師範その他各種専門学校、障害児学校などに及ぶ一貫かつ広範なものでした。

 まず大学は帝国大学と呼ぶことにしました。日本帝国の指導者を教育する学校だと規定したのです。森にいわせれば、帝国大学は「国家の必要に応じた学芸・技術の教授と研究をする所であり、特に法科は国家の最高官吏を養成する所である」というわけです。

 
 学校教育のスタート台である小学校は、尋常と高等の2科に分かれていましたが、尋常過程についてはこれを義務制にしました。同時に教科書は文部大臣が検定したものに限ることにしました。国民皆兵に対応して国民を養成するためです。

 中学校も尋常と高等の2課程としました。尋常の5年を卒業する者は、日本帝国の国民の中核となるべき人達でした。尋常を終えてさらに高等に進むものは、いわば帝国大学の予科生というべき存在でした。

 
 帝国大学は普通高校生の全てを収容できるようになっていましたから、高校生は受験競争に明け暮れることなく、書を読み、哲学を論じ、いわゆるリベラル・アーツを学んで、人物の陶冶に努めることができました。

 一方、森有礼は師範学校を重視しました。教師はいわば教育に従事する聖職者たちでした。彼らの学識、人格、体力が学生に感化を及ぼすのです。そこで授業料を無償にし、全寮制で訓練を行い、規律正しい生活を送らせることにしました。

 森は高等師範学校の校長に陸軍省軍務局長の山川浩少将をスカウトしました。山川は元会津藩家老で、弟の健次郎は後に帝大総長を歴任した物理学博士でした。妹の捨松は森有礼が米国で世話した少女留学生の一人で、大山巌陸軍大臣の夫人になっていました。

 師範学校に軍隊式訓練を持ち込んだことは、後に学校教育に軍の配属将校を受け入れる素地となりました。森有礼は軍人的規律を求めたのでしたが、結果として後年、学校に軍事教練を導入する糸口を作ったことにもなったのです。

 森有礼は文明開化の啓蒙者であり、果断な実行者でもありました。いきおい誤解を受けることが少なくありませんでした。彼はいち早く廃刀令を提唱したり、欧米式の結婚を奨励して、自ら実行したりしました。妻妾同居などは女性蔑視の野蛮な行為だと非難しました。

 そうしたことから、彼はキリスト教徒だとの誤解を受けました。彼はキリスト教が欧米人の精神的より所だと理解していましたが、彼自身はキリスト教徒ではありませんでした。しかし、神道や国学の人たちは、森はキリスト教徒で、それを教育の場に持ち込もうとしていると誤解しました。 そうした誤解が極まって、森有礼はこともあろうに、伊勢神宮で不敬を働いたとの噂が流れました。それは事実無根でした。彼は教育の普及に努め、全国に出張して現場を視察し、同時に講演して回りました。地方視察の場合、彼は必ず地元の神仏に敬意を表して参拝しました。

 ところが、伊勢神宮の神官から、不敬を働いたとの噂が流れ、それを信じた者がいました。明治22年(1889)2月、大日本帝国憲法が発布される日の朝、その暴漢が式典に出掛けようとする森有礼を襲ったのです。無防備の森はその場で凶刃に倒れました。まだ43歳の若さでした。

 森有礼の文教政策は頓挫しました。彼の文教政策が続いていれば、彼の国民教育運動は誤解を免れ、軍国主義に走らず、健全な道を歩んだかも知れません。残念なことに、日本の教育制度は内外の政治的、軍事的要請から、軍国主義教育へと流されて行きました。



教育勅語の完成

 森有礼が凶刃に倒れた翌年、明治23年(1890)10月、天皇から「教育勅語」が下賜されました。明治初年以来、徳育を巡っていろいろな論争が起きましたが、これによって論争は終止符を打つことになりました。

 同年2月、地方長官会議が政情不安を懸念して、徳育の方針を明確にして、その徹底を図るべきだと建議しました。知事たちは学校の授業内容が欧米ものに偏しており、日本の歴史や文化が軽んじられていると指摘して、天皇の勅語をいただきたいと訴えたのです。これは森文政への批判でもありました。

 当時総理大臣は山県有朋に代わっていました。山県は5月、新しく内務次官の芳川顕正を文部大臣に据えました。芳川は山県派です。山県は内務大臣でしたから、地方長官会議には大きな影響力を持っていました。山県は徳育問題で地方長官会議を動かし、その実行を芳川に委ねたのです。

 実はそれ以前から、教育勅語の作成は始まっていました。最初は中村正直でしたが、どうもキリスト教的だというので、代わって法制局長官の井上毅が原案を書きました。協力したのは天皇の侍講の元田永孚でした。元田は森有礼に批判的で、森の文相就任にも異を唱えた人です。

 こうして出来上がった教育勅語は日本の教育の基本は「皇祖皇宗の遺訓」にあるとしました。勅語は全国の小学校に配られ、ことあるごとに奉読されるようになります。天皇の写真も配られ、それらを奉納する奉安殿が作られて行きます。私たちは戦時中毎朝、奉安殿に最敬礼させられたものです。

 教育は自由を奪われ、厳しく統制されたものと変わって行きました。内村鑑三や久米邦武が異を唱えたというので、教職から追われたりしました。




Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」「鎌倉燃ゆ」など。



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