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トピックス -企業家倶楽部

2018年05月22日

軍国主義下の統制教育/日本経済新聞社参与 吉村久夫

企業家倶楽部2018年6月号 教育への挑戦~新しい日本人を求めて~ vol.13

洗脳された小国民

 洗脳されることは恐ろしいことです。今日なお国民を洗脳している国があります。そこでは情報が厳しく統制されていますから、真実を見極めることができないのです。異を唱えると、たちまち非国民として、つるし上げを食います。

 私は太平洋戦争が始まった翌年、国民学校に入学しました。希望に燃えて入学したのですが、私たちは「小国民」なりに苦労することになりました。戦後になって、見事に軍国主義に洗脳されていたことを知ってショックでした。

 戦時中は毎日、軍歌を歌いながら集団登校します。途中、警察署の壁には大きく墨で「撃ちてし止まん」「欲しがりません。勝つまでは」と書いてあります。校門の所で歩調取れの号令がかかります。私たちはゲートルを巻いた足を高く上げて足音高く校門をくぐります。

 国民学校では若い男の先生はあまりいません。戦争に行ったのです。年寄りの男先生と代用教員の女先生が主です。それでも「鬼畜米英」を教わり、軍隊まがいの襟章をつけさせられたり、戦争ごっこみたいな運動競技をさせられます。私たちは「日本人に生まれてよかった」と思いました。

 私たちは子供ながらラジオの軍事ニュースにかじりつきます。最初に「軍艦マーチ」が演奏されると勝利のニュース、「海行かば」が演奏されると苦戦のニュースでした。私たちは特攻隊に入って、お国のために命を捧げようと思いました。

 今から思うと、信じられない話ばかりです。しかし、現実だったのです。敗戦になって、教科書の不都合な箇所に墨を塗らされた時、私たち小国民は悔しくてなりませんでした。そしてこう思いました。「大人なんかもう信用しないぞ」

 空襲が激しくなると、国民学校生徒は疎開させられ、中学校、女学校の生徒は学徒動員で働かされ、大学生は学徒出陣で出征させられ、やがて特攻隊員となり『きけわだつみの声』の遺書を残したのでした。



民主主義へ大転換

 今にして思えば、先生たちも大変だったのです。なにしろ教育の自由がないのです。文部省が配る教科書を指導要領に従って忠実に教えるしか方法がなかったのです。教えながら、内心で「軍国主義反対」と叫んだ先生もいたことでしょう。

 戦後、これらの先生は民主主義へ大転換しました。なにしろ家族を養うことが先決なのです。教科書がないので、社会科の時間に「新日本憲法」を教えた先生がいました。「世界に冠たる平和憲法である」と教えてくれました。

 教育は政治と密接不離の関係にあります。戦前、民主主義を教えたら、その先生は失業したでしょう。戦後、軍国主義を教えたら、その先生は日教組から締め出されたでしょう。

「一億総懺悔」とはよく言ったものです。戦後の日本人の民主主義への切り替えは見事なものでした。これまた全体主義的でした。占領軍も驚いたことでしょう。どうしてこんな大転換が可能だったのでしょうか。

 日本人は米作りの文化の中で育ってきました。だから、いわゆる「隣百姓」の思考の中で、付和雷同しがちでした。お上の指導に柔順でした。お上が右といえば、右に倣うのです。それに終戦でも国体は変わりませんでした。

 しかし、これでは日本人は根無し草だということになってしまいます。日本人は元来、楽天的で自由を愛する人たちでした。好奇心旺盛でした。新しい考えや技術の導入に熱心でした。元々、自由、民主を歓迎する素地を持っていたのです。昭和のファシズムが台頭する前には、大正のデモクラシーを経験していたのです。

 歴史的転換は得てして、行き過ぎを伴います。一億総懺悔です。明治維新が前時代の長所を切り捨てたように、敗戦は前時代の長所も切り捨ててしまいました。戦前の教育だって、いいことはたくさんあったのです。なにしろ、日本は昔から教育国だったのですから。



戦前の教育の長所

 戦前の日本の教育制度の長所を二つだけ挙げましょう。一つは規律があったことです。いま一つは選択肢が多かったことです。

「3尺下がって師の影を踏まず」は古いにしても、先生たちは一般に尊敬されていました。森有礼が重視した師範学校を出た先生たちは、教育の聖職者としての自覚を持って生徒や父兄に接していました。卒業式では皆で「仰げば尊しわが師の恩」と歌ったものです。

 例外はあったでしょうが、戦後のように労働者だと主張する先生はいなかったように思います。結果の平等を主張して、徒競走に等級をつけるなと先生に迫る父兄もいなかったと思います。

 教育内容は徳育、知育、体育のバランスに気を配ったものでした。戦後、修身が問題になりましたが、いつの世でもしつけは教育の基本でした。「修身斉家治国平天下」はこれからも世界平和実現の前提条件であり続けるでしょう。

 学校は地域社会に溶け込んでいました。運動会は町村の運動会でした。いい唱歌がありました。その歌詞を聞くと、日本語はこうも美しかったかと感嘆します。スケッチ大会も盛んでした。郷土史の時間もありました。

 教育コースは二本立てでした。普通科の中学、高校を出て大学に進むコースと専門の中学、高校を出て大学に進むコースがありました。小中高大とそれぞれの段階で職に就くことが出来ました。 学校の選択肢が多かったのです。それに学校の地域配分もうまく出来ていました。高校の分布図を見てみれば分かります。普通高校と、高等工業、高等商業、高等農業、医学専門学校などが巧みに分散配分されていたのです。

 戦前の方が「オンリーワン」のコース選択がし易かったのです。戦後の方が共通一次試験などもあって、画一的な人作りをしているように思えてなりません。



軍部独走を許したもの

 ここで日本がなぜ軍部の独走を許したのか、その結果、教育が軍事統制下に置かれたのか、その理由を考えて見たいと思います。理由はいろいろ考究されています。私は遠因は「王政復古」「文明開化」「富国強兵」にあったように思います。

 明治維新は欧米諸国の外圧をはね退けて、日本国の独立を守ることでした。そのために三つのスローガンが必要でした。「王政復古」「文明開花」「富国強兵」です。教育もまたこの三つのスローガンに沿ったものでなければなりませんでした。

 しかし、何事も行き過ぎは破滅の元になります。「王政復古」は天皇を絶対視しました。「文明開化」は技術偏重をもたらしました。「富国強兵」は軍部独走を引き起こしました。揚げ句、日独伊の3国同盟から第2次世界大戦へ突入して行ったのです。

 天皇は元来、日本社会のソフトウエアの頂点に位置する象徴的存在でした。君臨すれども統治せずでよかったのです。文明開化は必要でしたけど、人間教育をないがしろにすることは許されませんでした。富国強兵は軍部独裁を求めたものではありませんでした。

 何事もバランスが必要です。歯止めの利く平衡感覚が必要です。傲慢になってはいけません。日清、日露の戦争に勝って、軍部も国民も傲慢になっていました。そこへきて政党が機能しなくなり、昭和恐慌が襲って来ました。

 日韓併合、満州建国、軍事ファッショ、日中戦争と日本は坂道を転がり落ちて行きました。世論はあっという間に豹変します。ナチズムの台頭がいい例です。歴史からはもっと学ばなければなりません。




Profile

吉村久夫(よしむら・ひさお)

1935 年生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与。著書に「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「歴史は挑戦の記録」「鎌倉燃ゆ」など。



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