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トピックス -企業家倶楽部

2018年06月18日

杉原千畝に学ぶ“大義ある決断”/臥龍

企業家倶楽部2018年4月号 伸びる企業家は歴史や偉人に学ぶ vol.9


臥龍(がりゅう:wolong ウォロン)こと角田識之(すみだのりゆき Sumida Noriyuki)

APRA(エープラ)議長&一般社団法人「志授業」推進協議会・理事長「坂の上の雲」の故郷、愛媛県・松山市生まれ。23歳のときに「竜馬がゆく」を読み、「世界の海援隊」を創ることを志す。人の幸福を主軸とする「人本主義思想」の素晴らしさを経営の場で実証推進する和僑(日本)と華僑(台湾・上海)合同の勉強会「APRA(エープラ)」を設立し、日本全国そしてアジア太平洋各国を東奔西走中。最近では、一般社団法人「志授業」推進協議会の理事長として、小中学生の大志確立を支援する「志授業」の普及、民族肯定観を上げるための「歴史・偉人」の講話にも注力中。詳細は「志授業」でご検索ください。



●時を超えて伝承される物語

 北欧とロシアに挟まれたバルト三国、その一番南に位置するリトアニアの首都ヴィリニュスにある記念碑を2007年に天皇・皇后両陛下が訪問され、本年には安倍首相が第二の都市カウナスにある記念館を訪れました。それが杉原千畝(すぎはら・ちうね)さんです。

 千畝さんの故郷である岐阜県の八百津町には、ユダヤの方々が年間約2000人も訪ねて来られます。「杉原千畝さん、ありがとうございました」の一言を伝えるためです。なおカウナスの記念館には、昨年約1万5000人の日本人が訪れたのですが、これは15年に公開された映画「杉原千畝」の影響が大きかったようです。この70年の時を超えて、今なお多くの人の心に感動を与え続ける物語は、千畝さんの「大義ある決断」から生まれました。


 ●時を超えて伝承される物語

●「自治三訣」の教え

 千畝さんの故郷には、山中を開墾した棚田が広がります。お父さんは、困難な土地の中でも工夫して実りを生み出す棚田に託し、世の役に立つ人間に成れという想いで千畝という命名をします。野口英世博士を尊敬していた父は、医者になるならという条件で大学進学を許可しますが、本人は英語教師になりたいと勝手に進路変更をし、怒った父に勘当されてしまいます。仕送りもなく、不況でバイトの道も断たれ、窮した千畝は、新聞広告で目にした外務省留学試験を受験します。国費で学び、成績優秀であれば外務省に採用されるという門戸を開け、千畝の運命は一変していきます。1919年、19歳の千畝は早稲田大学を中退し、中華民国のハルピンに開設されたハルピン学院でロシア語を学びます。このハルピン学院の初代校長であった後藤新平の校訓「自治三訣」が、千畝の生涯の指針となります。「自治」とは、国家を治める基本は、一人ひとりの国民が自分を治めることであるというものでした。

「人のお世話にならぬように、

 人のお世話をするように、

 そして報いを求めぬように」

           (後藤新平)


 ●「自治三訣」の教え

●決断を迫られる時

 24歳で外務省に入省した千畝は、ソ連からのシベリア鉄道の買い付け交渉で頭角を現し、フィンランド赴任を経て、リトアニアの領事館に赴任します。運命の日は1940年(昭和15年)7月18日、領事館の朝はものものしい雰囲気に包まれていました。カーテンを開けた千畝の目に入ったのは、柵越しに必死に訴えかける約100人の眼差しでした。その数は増え続けます。領事館に5人の代表を迎え入れ事情を聞くと、ほとんどがポーランドから逃げてきたユダヤ人でした。彼らはドイツ・ヒットラー政権による虐殺から逃れるため、シベリア鉄道を経て第三国に脱出するための日本通過ビザを求めていたのです。数人への発行であれば自分の裁量で出来ますが、これほどの数となると本国の許可が要ります。しかし外務省の返信は、書類不備を理由に「発行はならない」というものでした。しかし、彼らにビザを発行しないということは、死の宣告を意味します。千畝はもう一度本国に打診しますが、返事は「許可はできない」でした。日独伊三国同盟に動いていた日本にとって、ユダヤ人に手を差し伸べる選択はないというのが裏の事情でした。


 ●決断を迫られる時

●我が決断に大義ありか?

 千畝は二日間苦悩します。彼らに通過ビザを発給するということは、二つのリスクを意味します。一つ目は、領事館を見張るゲシュタポにビザ発給を見られることによる、自分と家族の命のリスクです。二つ目は、命令違反による失職のリスクです。二日間悩み抜いた千畝は、ビザ発給を決断します。ここでユダヤの方々を見殺しにすること、人道に劣る行為をすることこそが、長い目でみれば国益を損なうことであるとの信念でした。千畝は、ビザを手渡す都度に「ニッポン、バンザイ」と言わせたそうです。「私のことは忘れてもいいから、日本のことは忘れないで欲しい」とも言ったそうです。ソ連によるリトアニア併合が決まり、領事館を退去した後も残務処理の名目でホテルに留まり、ビザを発給し続け、最後の一枚はカウナスの駅を発車する列車の窓から渡されました。「許してください。私はもう書くことは出来ません。皆さんのご無事を祈っています」という千畝に向かって、「ありがとう。私たちはあなたのことを決して忘れません」という声がこだましました。

 終戦後、ソ連の収容所から帰国していた千畝を待っていたのは、外務省職員の解雇に加え、「ユダヤから金をもらったから協力したんだろう」という汚名、そして収容所生活で体力の弱った三男の死という三重苦でした。しかし千畝は一切の弁明をせず、「報いを求めぬように」の教えの通り、ひっそりと暮らしていきます。そして、1968年(昭和43年)、ようやく千畝を見出したユダヤ人たちによって、千畝の名誉は回復されていきました。当時、千畝の「命のビザ」によって命を救われたユダヤ人約6000人、そしてその子孫の数は累計30万人とも言われています。

 事業家の決断根拠は、損か得かではなく、善か悪かです。問い掛けましょう。

「我が決断に大義ありか?」



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