• トピックス
  • 企業家倶楽部
  • バックナンバー
  • 企業家チャンネル
  • 私の注目ニュース
  • 新商品コーナー

トピックス -企業家倶楽部

2018年07月24日

「やってみもせんで何がわかる!」本田宗一郎/臥龍

企業家倶楽部2018年8月号 伸びる企業家は歴史や偉人に学ぶ vol.10


臥龍(がりゅう:wolong ウォロン)こと角田識之(すみだのりゆき Sumida Noriyuki)

APRA(エープラ)議長&一般社団法人「志授業」推進協議会・理事長「坂の上の雲」の故郷、愛媛県・松山市生まれ。23歳のときに「竜馬がゆく」を読み、「世界の海援隊」を創ることを志す。人の幸福を主軸とする「人本主義思想」の素晴らしさを経営の場で実証推進する和僑(日本)と華僑(台湾・上海)合同の勉強会「APRA(エープラ)」を設立し、日本全国そしてアジア太平洋各国を東奔西走中。最近では、一般社団法人「志授業」推進協議会の理事長として、小中学生の大志確立を支援する「志授業」の普及、民族肯定観を上げるための「歴史・偉人」の講話にも注力中。詳細は「志授業」でご検索ください。




 かつて日本人が最も好きな経営者に挙げた本田宗一郎。いうまでもなくホンダの創業者ですが、宗一郎の企業家精神を象徴する言葉が「やってみもせんで何がわかる!」です。宗一郎が経営の節目に吐いた言葉には、今日にも通じる企業家精神があります。



1お客さんに迷惑をかけるようなものをつくるな!

「モノをつくる時には、それと1番長いこと付き合わなきゃならない人のことを考えろ、1番長いのはお客さんだろ。その次は売った店の修理工だろ。その次がウチの工場の人間だ。つくった本人のくせに、1番短いのは設計者だ。ずっと使う人の身になって考えたら、不親切なモノなぞ設計できねえはずだ!」(本田宗一郎)

 
 終戦後、いろんな物資が不足していた当時、大衆は、何時間もかけて遠くの街へ買い出しに行っていました。不便だと感じた宗一郎が開発したのが、原付のルーツともいえる「バタバタ」、旧陸軍の発電機を活用して作られ、燃料タンクはなんと湯たんぽでした。この「バタバタ」に、既に顧客志向の原点「親切設計」を見ることができます。

 
 例えば、エンジンのナットを外しても、どこからも部品が落っこちないのです。ネジがもし緩んでも、完全に脱落しないか、脱落してもすぐには壊れないような工夫がしてあったのです。“具合がおかしいぞ”と気が付く間ぐらいは保つようになっていたのです。

 
 メンテナンス性においても、専用特殊工具がない時代、修理する人が困らないように、特殊工具なしで分解・組立ができるような工夫がされていたのです。


1お客さんに迷惑をかけるようなものをつくるな!

2本田技研工業の使命は日本産業の啓蒙にある!

 1952年(昭和27年)、宗一郎45歳のとき、社運を賭けた4億5000万円の工作機械の導入を決断します。世界に挑戦するためとはいえ、当時、資本金600万円の無名企業の投資です。「これでは潰れます」という声に、宗一郎は「仮に本田が潰れても、この機械は日本に残る!」と答えます。

 
 1954年(昭和29年)、宗一郎47歳、世界に挑む企業家精神を、世界最高峰のオートバイレース、イギリスのマン島「T・Tレース」への出場宣言にぶつけます。宣言は、朝鮮特需が終わり、景気が低迷、多額の設備投資も裏目となり、戦後300社近い数の二輪車メーカーの7割が倒産に追い込まれる、冷え込んだ世相の中で行われました。

「今、まさに好機到る!明年こそはT・Tレースに出場せん!我が本田技研工業の使命は日本産業の啓蒙にある!T・Tレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君とともに誓う。昭和二十九年三月二十日 本田宗一郎( 47歳)」

 
 欧米メーカーとの技術力の差は、象にアリが挑むくらいの格差がありました。「無謀」という声に、宗一郎は「やってみもせんで何がわかる!」と言い放ちます。この声に奮起した若手技術者の情熱が、奇跡を巻き起こします。 

 
 1959年(昭和34年)初出場 125 cc 6位 250 cc 4位 入賞1961年(昭和36年)参戦3年目 125 cc、250 ccとも1位から5位までを独占 完全優勝!

「あのころは『やりたいやつ手を上げろ!』『はい!』で決まっちゃう時代で、辞令なんてあったかどうか忘れちゃった(笑い)。ですから、エンジン屋から何から、どっか一本線の切れてるような常識外れのやつばっかり(笑い)。マトモな技術者ならマン島TT挑戦なんて無鉄砲なこと考えませんよ。うちは、トップのおやじさんからして、マトモじゃないから(笑い) 40代、30代の技術屋さんが、そのころ、いっぱいいたんだが、あえて若者にやらせてくれた。その時、僕も30歳になっていなかったな。みんな20代。責任は重いけれど、若いから怖いもの知らずだった」(後のホンダ社長・河島喜好)



3社長なんて偉くもなんともない!

「社長なんて偉くもなんともない!課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」(本田宗一郎)

 宗一郎が亡くなる一年前、ホンダの栃木工場を訪れたときのことです。工場に「選ばれしものが作ったNSX」という展示があり、このクルマを作るために選ばれた6人の技術者たちの写真を貼ってあったのです。それを見た宗一郎は激怒します。

「全従業員の写真、いや、食堂のオジサン、トイレの掃除のオバサンの写真はどこにある!彼らオジサン、オバサンのおかげで、みんな気持ちよく仕事ができている。なのに一部の人だけを写真にして飾る。クラフトマンに選ばれなかった人たちも、やる気をなくし、不満をいうだろう。それが企業ではいちばん怖い。ホンダは今までこれほどにやって来れたのは、差別をしなかったからだ。エリートでなければこの車を作れないというなら、こんな車は作るべきではない!」「(工場長ら工場幹部に向かって)何のために君たちはいるんだ。こんな事をさせないためにいるんじゃないか!」

 
 引退後、宗一郎は、全国700ヶ所の事業所を回り「ありがとう」と感謝の想いを一人ひとりに伝えて回ります。ある製造工場を回った時、思わずオイルまみれの手を差し出してしまった工員が、慌てて引っ込めようとしたとき、「このオイルまみれの働き者の手がいいんだよ!」と、宗一郎はその手を包み込みます。Hondaフィロソフィー「人間尊重」、フィロソフィーはトップ自らが実践してこそ生きるもの、その後ろ姿は今も輝いています。



  • DEGITAL DATA SOLUTION
コメントをシェア

骨太対談
DEGITAL DATA SOLUTION
 
コンテンツメニュー
企業家賞
企業家倶楽部企業家大学
Page Top