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2019年08月01日

人生百年時代、伊能忠敬に学ぶ「天命成就の生き方」/臥龍

企業家倶楽部2019年8月号 伸びる企業家は歴史や偉人に学ぶ vol.15


臥龍(がりゅう:wolong ウォロン)こと角田識之(すみだのりゆき Sumida Noriyuki)

APRA(エープラ)議長&一般社団法人「志授業」推進協議会・理事長「坂の上の雲」の故郷、愛媛県・松山市生まれ。23歳のときに「竜馬がゆく」を読み、「世界の海援隊」を創ることを志す。人の幸福を主軸とする「人本主義思想」の素晴らしさを経営の場で実証推進する和僑(日本)と華僑(台湾・上海)合同の勉強会「APRA(エープラ)」を設立し、日本全国そしてアジア太平洋各国を東奔西走中。最近では、一般社団法人「志授業」推進協議会の理事長として、小中学生の大志確立を支援する「志授業」の普及、民族肯定観を上げるための「歴史・偉人」の講話にも注力中。詳細は「志授業」でご検索ください。



「心の青春寿命」は延びているのか?

 老人福祉法が制定された昭和38年、百歳以上の方は153人、百歳というと「凄い!」と言われたものですが、平成10年には1万人超え、平成24年には5万人超え、今現在は7万人に迫っています。サミュエル・ウルマンの「青春の詩」の一節に、「青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである」とあります。長寿自体は喜ばしいことですが、日本人の「心の青春寿命」は果たして延びているのでしょうか?



「士魂商才」の商い人生

 今よりも平均寿命が短かった江戸時代ですが、伊能忠敬(いのうただたか)の生き様には、人生百年時代における「心の青春寿命延伸」のヒントが満ちています。伊能忠敬の一番の業績は、測量によって正確な日本地図(正式名:大日本沿海輿地全図)を完成させたことですが、測量人生に至るまでの前半生を見てみましょう。

 忠敬は延享2年(1745年)、上総国山辺郡(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれます。17歳で下総国香取郡(現・千葉県香取市佐原)の酒造家の伊能家に婿養子に入り、商才を発揮し、伊能家を再興。36歳で名主となります。

 リーダーの力量は、危機の中でこそ発揮されます。天明5年(1785年)浅間山の噴火以降、天命の大飢饉で毎年不作が続きます。忠敬は米の値上がりを見越して、関西方面から大量の米を仕入れますが、米相場が翌年の春から夏にかけて下がり続け、多額の差額損を抱え始めます。周囲からは、早く売り払ってこれ以上の損を防げとの声が出ますが、忠敬は、あえて米を全く売らない決断をします。忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損を出したら、10年間かけて借金を返そうという覚悟です。

 そしてその年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになります。損得だけで言えば、高値で売り出し、大儲けするチャンスです。しかし忠敬は、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組みます。

 他の村から逃げ込んできた者たちにも、一人につき一日一文を与えたり、質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにします。翌年にも同様の取り組みを続け、佐原村からは奇跡的に一人の餓死者も出なかったそうです。

 また天明7年(1787年)、江戸で裕福な商家を襲う打ちこわしが起こり、この騒動が佐原に及ぶことを恐れた商人たちが、お金を出し合い、役人に守ってもらおうと考えたとき、忠敬だけは「役人は当てにならない、どうせなら農民に与え、農民に守ってもらおう」と主張します。結果、役人の力を借りずに、佐原は打ちこわしの危機を逃れます。

 佐原が全ての危機を脱したところで、忠敬は持っていた残りの米を江戸で売り払い、これによって多額の利益を得ます。忠敬は50歳で引退、息子に家督を引き継ぎます。築いた財産は3万両、今なら30億円相当といわれています。まさに「士魂商才」「論語と算盤」の見本です。



測量人としての「天命成就の旅」

 当時50歳といえば高齢者ですが、心が青春の忠敬は、江戸に出て趣味だった暦学・天文学の勉強を始めます。天文学の第一人者・高橋至時(よしとき)の元で5年ほど修行し、天体観測に自信も持ち始めたころ、「誰もきちんと観測していない天体を研究したい。そうだ、地球を調べよう!」と思い立ちます。地球といっても現実的には日本の測量ですが、時代は江戸、事は簡単ではありません。各地の大名の領地を通ることと予算確保の上からも、幕府の許可を取らないといけません。正確な地図の概念も必要性も感じていない幕府は、当初否定的でした。

 しかしここで、天の時と地の利が働きます。帝政ロシアが蝦夷(今の北海道)に圧力を掛けてきました。至時は、蝦夷防御のためには正確な地図の作成が必要で、その任には忠敬が最適と推薦しますが、忠敬には知名度や信用がありません。が、時を同じくして、佐原の住民たちが、忠敬の徳行を称え、苗字帯刀を許可して欲しいと幕府に願い出ます。苗字帯刀を許された忠敬は、同時に幕府からの信用も獲得します。そして、寛政12年(1800年)、55歳の忠敬は、幕府の命により江戸から蝦夷に向けて出発します。商人時代の徳行が、引退後の事業の追い風となるというのは、現代でも同様です。

 以降、文化13年(1816年)まで、17年間かけて日本全土を測量します。55歳から始めて72歳まで、実に35000キロメートル、4000万歩の旅でした。地球一周40000キロメートルと比べても、その偉大さは一目瞭然です。何故なら、自然条件がはるかに厳しい江戸時代ですから、生命の危機が何度もあったのです。測量を終えた翌年の73歳で病に倒れ、日本全図(通称:伊能図)の完成は弟子の手に委ねられます。

 作家・井上ひさし氏は、昭和52年(1977年)、忠敬を主人公にした小説「四千万歩の男」を発表しました。隠居後に新たな挑戦を始める「一身にして二生を得る」生き方は、平均寿命が伸び、定年後の人生が長い現代社会のお手本です。成功した企業家が、第二の人生でどういう「社会志産」を遺していくのか?それが問われる時代です。

「天文暦学の勉強や国々を測量することで後世に名誉を残すつもりは一切ありません。いずれも自然天命であります。幼き頃より高名出世を好んだが、親の命にて伊能家へ入り以後は好きな学文も止め、産業を第一としてきた。古今にない日本国中の測量という御用を仰付けられ、これぞ実に、天命といわんか」(伊能忠敬の言葉)



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