トピックス -企業家倶楽部

2019年10月18日

「人に真似される商品をつくれ」早川徳次の不屈と感恩の精神に学ぶ!/臥龍

企業家倶楽部2019年10月号 伸びる企業家は歴史や偉人に学ぶ vol.16


臥龍(がりゅう:wolong ウォロン)こと角田識之(すみだのりゆき Sumida Noriyuki)

APRA(エープラ)議長&一般社団法人「志授業」推進協議会・理事長「坂の上の雲」の故郷、愛媛県・松山市生まれ。23歳のときに「竜馬がゆく」を読み、「世界の海援隊」を創ることを志す。人の幸福を主軸とする「人本主義思想」の素晴らしさを経営の場で実証推進する和僑(日本)と華僑(台湾・上海)合同の勉強会「APRA(エープラ)」を設立し、日本全国そしてアジア太平洋各国を東奔西走中。最近では、一般社団法人「志授業」推進協議会の理事長として、小中学生の大志確立を支援する「志授業」の普及、民族肯定観を上げるための「歴史・偉人」の講話にも注力中。詳細は「志授業」でご検索ください。



人生で初めて知ったブランド

 子どもの頃、強烈に心に刻まれたブランドに「シャーペン」があります。子供心に、“このような便利なものを発明した人は凄い!”と思ったものです。後年、発明した人を早川徳次と知りましたが、その不屈の精神には驚嘆しました。子ども時代に苦労したことをバネに成功した方はたくさんいますが、早川徳次の恩を忘れない「感恩」にも深く感銘を受けたものです。

※写真はすべてシャープ株式会社提供


 人生で初めて知ったブランド

三度のどん底を超える!

 人生に、大きな苦難が三度はやってくると言われていますが、早川徳次のものはまた特別です。一つ目は、まま母からのいじめです。元々早川家に生まれた徳次ですが、一歳で出野家に養子に出ます。その2年後に養母が急逝、その後妻から強烈ないじめを受けます。小学校を2年で辞めさせられ、朝から深夜までマッチ箱張りの内職をさせられます。このどん底は、徳次を不憫に思った近所の盲目の女性・井上せいが、金属細工業の店に丁稚奉公を繋いでくれたことで抜け出します。


三度のどん底を超える!

天災による不運から新規事業の道を拓く!

 二つ目は、天災により全てを奪われたときです。金属細工業の店の丁稚奉公を勤め上げ、結婚し、実の兄弟と再会し、そのプロセスで、ベルトに穴を空けずに使えるバックル「徳尾錠」、更には後年に「シャープペンシル」と名付ける「早川式繰出鉛筆」を開発し、従業員も2000名を超え、実に順風満帆でした。そこに関東大震災が襲い、妻と子ども二人の命が奪われ、事業も行き詰っていきます。大阪の企業に従業員を引き受けてもらい、徳次自身も大阪に移住します。

 
 31歳で再起を誓い、まだ日本でラジオ放送が始まっていないにも関わらず、アメリカ製のラジオを買って分解、構造を研究、国産第一号の開発に成功します。翌年のラジオ放送開始と同時に発売されたラジオは、外国産の半額ということで爆発的に売れます。このラジオから「シャープ」というブランド名を冠します。後に徳次は天災時のことを振り返り、「事業が順調に進んでいったとすると、おそらく私はシャープペンシル製造に生涯をかけて金属文具界で終始し、いまのように電気器具メーカーとして大阪に住むこともなかったと思われる。運命というものは全く予想を許さない」と語っています。


天災による不運から新規事業の道を拓く!

日本のエジソンの「人に真似される商品をつくれ」の精神

 三つ目の苦難は、太平洋戦争終結後にやってきます。物不足とGHQによるドッジライン(単一為替レートの設定、各種補給金制度の撤廃等)により景気が悪化、早川電機も倒産の危機に追い込まれ、追加融資の条件として銀行から人員整理を迫られます。徳次は「人員を解雇するくらいなら会社を解散するほうがいい」と全従業員に伝えます。意気に感じた従業員の方から「会社を倒すな!」の声が上がり、労働組合が動いて自主退職を募り、結果、銀行からの融資が実現し、倒産の危機を脱します。徳次は「これを教訓として、二度と人員整理しない」と誓い、テレビの国産第一号の開発、国産第一号電子レンジの発売、世界初のオールトランジスタ方式の電卓など、「人に真似される商品をつくれ」の精神で開発に邁進し、事業を発展させていきます。日本のエジソンと言われた徳次は、77歳のときに社名をシャープに変更、会長に退きます。


 日本のエジソンの「人に真似される商品をつくれ」の精神

終生忘れなかった 「手のひらのぬくもり」

 幼少時から苦労を重ねたためか、事業の目的は社会への奉仕と考え、昭和19年、51歳のときに失明軍人が働く「早川電機分工場」を開設、終戦時に一時解散しますが、昭和21年に再開、昭和25年には「合資会社特選金属工場(現在のシャープ特選工業株式会社)」を設立します。視覚障がい者自らが独立採算制で事業を経営する特選金属工場は広く世間に知られ、皇室や世界的富豪で慈善活動家のロックフェラーなどが訪問しています。

 8歳のとき、まま母からのいじめから救い出してくれた盲目の女性・井上せいのことを後年、「出発の日は、盲人のおせいさんが手を引いて奉公先まで連れて行ってくれました。おせいさんの手のひらのぬくもりは、今なお、この私の手の中に残っています」 と語っています。私たちも、親や恩人から受けた「ぬくもりの温かさ」を終生忘れたくないものです。自分のことで恐縮ですが、臥龍も母親から受けた感恩を、日本や世界の子ども達に恩送りしています。



「恩を返すのが奉仕」

 昭和24年、56歳のときに、大阪府身体障がい者雇用促進協議会の会長に就任し、「欠陥能力より、残存能力を生かそう」、「恩を返すのが奉仕」と語っています。昭和29年、61歳のときには、共働き従業員の子どもや近隣住民の身体障がい者の子どもを預かるための「育徳園保育所」を私財を投じて設立。昭和37年、69歳のときには、徳次の寄付金をもとに大阪市立早川福祉会館(東住吉区)が設立され、昭和44年、76歳のときには、徳次が建設資金を寄贈した大阪市立阿倍野青年センター(阿倍野区)が設立されています。企業としてのシャープはその後、様々な状況を迎えていますが、早川徳次のフロンティア精神や社会への恩送り精神は、永遠に語り継ぎたいものです。



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