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トピックス -企業家倶楽部

2020年01月28日

一騎当千の企業家

企業家倶楽部2020年1/2月合併号 ニチイ学館特集第5部 ニチイ学館の人的ネットワーク





誰に対しても臆することなく、堂々とした姿で多くの人々からの信頼を勝ち取ってきた寺田。医療、介護業界を切り拓き、ニチイ学館の礎を築くことができたのはまさに寺田の姿勢によるところが大きい。彼の遺思を受け継ぎ、「医療・介護・保育の明るい未来」という寺田が追い求めた夢の実現に向けてニチイ学館は邁進する。(文中敬称略)



機関車のように走り続けた経営者

衆議院議員 川崎二郎 Jiro Kawasaki


機関車のように走り続けた経営者


   現在は衆議院議員で2005年に厚生労働大臣を務めた川崎二郎は、15年ほど前の参院選で候補者を探していた。ちょうど同じ頃に寺田も在宅介護業界の意見をまとめ、世の中に認知させたいという思いがあり、川崎に話を聞いてもらったのが二人の最初の出会いであった。

   日本では2000年に介護保険制度が始まったが、この制度を導入する国はドイツと日本の二国のみであった。ドイツでは在宅介護が全体の3分の2を占めていた。一方の日本はまだ3分の1の普及率であった。

   寺田は財政的観点から在宅介護の推進をしてきたものの、思うような成果が出ずに苦労していた。そのような事態に警鐘を鳴らしてきた。

「誰の前でも大演説を始めてしまう。寺田会長ご本人が出馬した方がいいのではと思うほど、候補者よりも迫力があった」と川崎は当時の寺田の話しぶりについて笑顔で語る。

   ニチイ学館の事業は、医療関連事業、介護事業、そして保育や家事代行など多岐にわたる。中でも「在宅介護」分野への参入について、「経営者として非常に難しい決断だっただろう」と川崎は感心する。

   施設介護では、患者と従業員の様子を一同に見守ることが出来る。かたや各家庭を訪問する在宅介護では、従業員がどのような形でサービスを行っているのか見ることが出来ない。「難解な仕事だが、『在宅介護こそ介護事業の本丸である』と挑戦したからこそ、今のニチイ学館があるのだろう」と寺田の英断を評価している。

「経営者の姿を見社員が後ろから付いていく、いわゆるブルドーザー型のトップリーダーであった」と寺田の経営者としての姿勢について評する。

   寺田は自分の想いを社員に受け継がせ、引っ張っていく経営者である。齢80を超えても在宅介護を広めるため、精力的に海外出張へ飛び回っていた。実際に日本より超高齢化の進む中国への事業拡大や人材を求めて若者の多いフィリピンなどへ自ら赴いていた。

   そんな彼を「介護分野におけるオールラウンドプレイヤー」とも評する川崎。決断に躊躇するサラリーマン経営者の多い時代に、寺田は一味違った。在宅介護から施設介護まで幅広く扱い、課題に対して自ら判断を迅速に下す。資料を幾度も用意させ、最終的には役員会を開いて皆で相談しようとする、決断しない経営者との明確な違いがあり、企業家である魂を感じられるという。

   そう考える理由には、川崎が過去に松下電器産業(現パナソニック)で勤務していた経験が関係している。寺田には、その創業者であり、経営の神様との異名を持つ、松下幸之助の思想と通ずるところがあると説く。松下幸之助が製造から収益を出すまでの全ての過程に携わり、絶えず苦労を経験したように、寺田も自ら意思決定できる経営者として新しい分野を切り拓いた、極めて貴重な人材であったと敬意を表した。「機関車のように走り続け、病を患っている時でさえも健康的に見えた。働く人が減る一方で患者は増える現在の状況に寺田会長であれば、どんな処方箋を書いただろうか」と名残惜しく思いを馳せた。

   人口減少に超高齢社会。医療介護に世話になる人が必然に増える時代である。アジア全体で出生率が低く、人手不足の危機が目前に迫る。医療と介護の2大需要に注力するニチイ学館に期待を込めた。「今後も温かみのある会社であって欲しい。そしてこれまで先陣を切ってきた、ニチイさんらしく先進的な例をもっと打ち出して欲しい」と、最後に締めくくった。



確固たるリーダー

柳澤金融経済研究所 代表 柳澤伯夫 Hakuo Yanagisawa
確固たるリーダー


「政治家だったら大成功している」と笑顔で話すのは柳沢金融経済研究所代表の柳澤伯夫だ。

   寺田との出会いは2004年、参院選の候補者を探していた時である。2000年にスタートした介護保険は高齢化社会の進展の下で瞬く間に受給者が増加し、これに応じて介護サービスの供給機関及び従事者は拡大していった。

   そんな中、介護保険を更に発展させるため、業界の代表を国会へ送ろうとする動きが起こる。まず名乗りを上げたのは自民党清和会が率いる、介護サービス供給機関が支援する代表。それに対し、宏池会は在宅介護業界の代表を擁立したいと考えた。当時宏池会に所属し、選挙対策に携わっていた柳澤は業界トップの寺田に直談判することになった。

「これほど大きな医療事務の教育機関を設立し、医療を助けるとともに多くの女性に雇用の機会を創出している人物とはどのような人だろう」 以前から寺田に対して秘かに深い敬意を覚えていたが、実際に会うと改めて感服せざるを得なかった。

「我々の意見を聞き、やりましょうと仰ってくれたのはとても力強かった」と柳澤は語る。

   その後は柳澤が選挙の実務を離れたため、顔を合わせる機会は少なくなった。しかし06年、柳澤が厚生労働大臣に任命され、再び寺田との距離が近づくことになった。

   介護業界の規模がさらに拡大する中、成長スピードに組織が追い付かない企業もあり、行政処分が行われた。株式市場への影響も懸念されたが、厚労省として止むを得ず処分を実行した。この処分の対象事業の多くを引き継いだのがニチイ学館であった。対応次第では厚生行政そのものが疑問視され兼ねない状態であったため、しっかり引き受けてくれる企業にと熟考していた。柳澤は最終決定には携わらなかったが、ニチイ学館が引き受けたと聞き安堵した。「寺田会長のニチイと知って本当に良かったと思っています。救われた感じがしました」。

   また11年になると、寺田と深い関わりのある日本医療教育財団が、外国人患者受け入れ医療機関認証制度の具体化の検討を委嘱された。柳澤はその検討会の座長となり、13年3月、「JMIP」(外国人患者受入れ医療機関認証制度)という名称の制度として発足させ、その教育財団の顧問や理事を引き受けることとなった。

   更に城西国際大学学長の退任後である19年、柳澤はニチイ学館の社外取締役を一任される。ニチイの事業は厚生労働行政と密接に連携しており、柳澤が厚生労働大臣として培った豊富な経験や見識から助言をして欲しいという寺田からの提案であった。

   様々な出来事を通じて柳澤が感じる寺田の人柄は極めて誠実で、何事にも几真面目に取り組む姿だという。「どの企業でも最高責任者は物凄く責任が重いが寺田さんは殊の外」。事業経営者として、隅から隅まで緻密に仕事しないと気が済まない性格である。「彼の前では誤魔化しは許されませんね」と微笑みながら話す。

   自社のみならず、業界ひいては日本全体のことまで考え、その中から自分でなければできない仕事をしてきた寺田。ビジネスにおいてその視野の広さを持ち続けることは容易ではない。そんな寺田を「確固たるリーダー」だと称賛し「福祉領域において、寺田会長という中心人物がいたことは日本にとって大変幸運であったと思う」と結んだ。



介護保険と共に歩いてきた親分

日本在宅介護協会会長 アイケア会長 市川明壽 Akitoshi Ichikawa
介護保険と共に歩いてきた親分


   日本在宅介護協会の現会長を務めているのが市川明壽だ。介護保険制度が始まり、寺田が日本在宅介護協会の会長に就任した当時から、市川は専務理事という立場で寺田を支え続けてきた。寺田に対する印象は今も変わらず「豪傑」の一言に尽きるという。

   2000年4月に介護保険制度が始まった当初は、制度あれどもサービスなしという混乱した状況で、何度も行政と話し合いを重ね、介護保険制度のあり方を模索する日々だった。

   寺田は相手が誰であろうと、毅然とした態度で臨み、本質的なことにズバッと切り込んでいたという。「たとえ、話し合いに設けられた時間が短く限られていたとしても、相手に自分の信念を理解してもらえるまで放さず、まるで『逃げるな!』と言われているようでした」と当時の圧倒された出来事を振り返る。「あれだけ豪傑な人物に会ったことがありません」と力を込める市川。介護保険の開始より寺田と行動を共にしてきた経験の数々から市川は多くのことを学んだ。「公私ともに指導していただいた先生です」と語る。

   16年間に渡り、日本在宅介護協会の会長を務め上げた寺田の「在宅介護」への想いは並大抵のものではない。寺田が会長に就任してすぐ、前身団体から現在の社名に変更をした時、市川は「日本在宅介護協会」という社名に対し、「日本介護協会」では駄目なのかと提案した。すると寺田は「それでは範囲が広すぎる」と一蹴したという。

   施設介護よりも多くの人材を必要とする在宅介護だが、24時間体制の施設介護と比べて少ない予算でより多くの高齢者を介護することができるのが強みでもある。

   寺田は「在宅介護が将来的には主流になるだろうから、今から力を入れて取り組んでいかなければならない」と確信していた。「自分の信念で意思決定ができたからこそ民間事業者として介護業界で生き残ることができたのでしょう」と市川は振り返る。

   寺田の在宅への信念がはっきりと表れていたからこそ、市川自身も在宅が主流になる将来を具体的にイメージできた。「今の時代は病院で生まれて、病院で終末を迎えるのがほとんど。しかし、多くのお年寄りは自分の家で終末を迎えたいというのが正直なところです」と市川。

   介護保険制度が始まった当初は医療が介入してきたため、小さな民間の事業者は到底生き残ることはできなかった。誰もが医療に奪われてしまうと思っていた時に彗星の如く現れたのが寺田だった。介護保険と共に歩み、介護業界の親分として業界をまとめあげてきたのである。「寺田会長は在宅介護の第一人者です。会長がいたからこそ、多くの民間事業者がそれに従い、介護業界で生き残ることができたのです」と語る。

   現在の介護業界は依然として労働力が足りない。特に在宅介護の分野においては規制の関係上、外国人労働力を活用することができないため、地方の小さな民間事業者にとって人材不足は死活問題である。まさに寺田が長年訴えてきた、人材育成、規制緩和、効率化こそがこれからの介護事業の未来に必要なのである。

   最後に市川は「ニチイ学館は介護業界のリーディングカンパニーとして、これからの介護業界を背負って進んで欲しい」と背中を押した。



介護業界を成長産業にする先見の明

日本在宅介護協会副会長 デベロ社長 浅野芳生 Yoshio Asano


介護業界を成長産業にする先見の明


 日本在宅介護協会の前会長で、現在は副会長を務めているのが浅野芳生だ。彼自身、身体障がい者用の浴槽を搭載した入浴車を世界で初めて開発したデベロの社長として、介護業界に尽力している。

   31歳までホテル業界に携わっていた浅野を介護業界にいざなったのは、先代の義理の父だった。「共に介護の仕事をしよう」と強い要請を受けたことに加え、来たる超高齢化社会における、新たなマーケットとしての介護業界の可能性を何度も諭されたことが、介護業界に飛び込むきっかけとなった。

   1999年、前身団体における理事会で初めて寺田に会った浅野は、当時の印象を「まるで象と蟻のようでした」と振り返る。介護業界の礎を築いてきた寺田は、まさに雲の上の人である。

   2019年7月、寺田を訪ねる機会があったという浅野。そこで寺田は「介護の仕事をとにかくやりたいんだ」と話した。まさにこれからが第二の創業であるという言葉の通り、まだまだ介護業界のために走りたいという寺田のパワーに、浅野は畏敬の念を抱くばかりであった。

「寺田会長は先見性を持った人だ」と浅野。90年代後半に起こった金融危機で社会全体に不安が広がる中、超高齢化社会を見据えて介護保険制度がスタートし、介護が新たな仕事として注目され始めた。そんな新しい介護の時代の幕開けと共に、寺田は日本在宅介護協会の会長に就任した。

   サービスがきちんと整備されずに介護保険制度が始まってしまうことに危機感を覚え、ニチイ学館では制度開始の3年ほど前から、全国都道府県で研修会を開催し、10万人以上の介護人材を育成した。10万人というのは、89年に厚生労働省等が掲げたホームヘルパーやデイサービスの人材整備目標とまさに同じ数であった。そしてニチイ学館が筆頭となってサービスを整備し、人材育成を図り、無事に2000年4月から介護保険制度が始まった。

   また、日本在宅介護協会の会員各社を中心に介護サービスの拠点の整備を進めていくことになり、地域ごとに異なりが大きかったサービスのあり方が一新された。その結果ホームヘルプやデイサービス、訪問入浴といった現在では当たり前になっているサービスの定着に寄与した。

   浅野は介護保険制度が開始した当時を振り返り、「会長が今まで尽力してきたこと、特に介護事業の効率化、規制緩和等が、今本当に必要となっている状況です」と語る。

「会長自身も住み慣れた地域、自分の家で終末期、余生を送れることが本当の人の幸せだと思っていらっしゃったでしょう」と浅野は寺田に思いを馳せる。

   雇用環境が大きく変わり、地方に仕事がないという現状は、オリンピックが終わっても維持されていくだろう。そんな状況だからこそ、これからますます介護事業が雇用の中心として注目され、雇用の拡大と経済の発展につながることが、寺田の先見の明が示す未来である。

   最後に「これまで寺田会長が進めてこられたことを更に時代に合わせて発展させ、介護事業が経済成長できる分野になるように育てて欲しい」とニチイ学館に希望を託した。



まな板の上の鯉から信頼へ

みずほ証券エクイティ調査部長 シニアアナリスト 中央大学大学院 客員教授 渡辺英克 Hidekatsu Watanabe


まな板の上の鯉から信頼へ


 ヘルスケア分野のトップアナリストであるみずほ証券の渡辺英克。1995年6月に、取材をしたのが渡辺と寺田の出会いだ。

「私が休職明け直後の取材だったので、よく覚えてます。でも、最も思い出深いのは2000年11月の決算説明会ですね」と続ける渡辺。

   2000年4月に介護保険制度がスタートし、各社強気の通期計画を提示していた。ニチイ学館の上半期状況と通期計画には解離が見られた。「期待値が高かっただけに、投資家達は説明を求めた」と述べる渡辺。

   当時の渡辺は説明会や総会では後方に座り、全体の雰囲気を観察するのが常だった。ニチイ学館本社で開かれた決算説明会の会場は細長く、後方からは寺田の顔は見えなかった。それをいいことに、渡辺はマイクを1人で握りしめ、厳しい質疑をし、最後には「この通期計画に、ここにいる誰1人納得している者はいません」と言い切った。説明会終了後、会場前方に座っていた投資家が渡辺に寄って来て、「寺田さん、顔真っ赤にしていたけど、君は大丈夫なのか」と教えてくれた。

   その翌日、寺田の長男であり現副社長の寺田大輔とアポが入っていた。「社長(当時)は昨日のことを怒っていますか」と尋ねると「怒っているなんてもんじゃない、渡辺さんがここに来ることを知って、今から白黒つけるって言ってます」と伝えられた。渡辺も間違ったことは言っていない自負があったので、覚悟を決め、その日の予定を全てキャンセルし、飯田橋にある料亭で寺田と会うことにした。

「まな板の上の鯉のような気分でしたよ。テーブルをひっくり返されてもおかしくないなって思っていました」

   料亭では思いの外冷静に話されて、「ただ、誰1人として上半期の状況に納得していないと決めつけないでほしい」と気持ちの面を伝えられたという。「少し生意気かもしれませんが、面と向かってあそこまで自分に言った金融機関の人間は初めてだったのでしょうね」。堂々と理路整然に考えを伝える渡辺だからこそ、寺田から一目置かれたのだろう。

   そこからが本当の意味での付き合いであった。1カ月後、寺田から2人で会いたいと声がかかり、マネジメントについて意見を求められたという。「認めてもらえたんだなと思いましたね」と懐かしそうに語った。意見してきた者を拒まず受け入れ、認め、さらに意見を求める。大きな器を持った男気溢るる寺田の人柄が分かるエピソードであろう。

   ここ最近は年に1回会えればという感じであったが、寺田も渡辺のアナリストレポートをいつも気にしていたという。「悪いときも良いときも変わらず接するのが友だ」と元プロ野球選手落合の言葉を渡辺は引用し、こう続けた。

「会わなくても何となくお互いのことが分かる感じですね」

   証券会社と企業の立場は変わらないが、それを超えた絆が2人にはあったのであろう。

「創業されて50年。これからの50年は人口減少など日本全体で試練に向かっていきます。50年後、どのような企業でいるか。長寿会社になるためにどういうビジネスモデルなり、コーポレートカルチャーなりを受け継ぎ、発展させていくかです。それは、公的保険制度に依存はしきれないと寺田会長は思っていたはずですし、それが会長の遺思なのでしょうね」とこれからのニチイ学館にエールを送った。



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