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トピックス -企業家倶楽部

2020年08月27日

素朴で大きな疑問がイノベーションを生む!~石坂産業とサイボクの二代目奮闘記から学ぶ~/感動経営コンサルタント 臥龍 こと 角田識之

企業家倶楽部2020年10月号

アフターコロナ時代にV字回復するための起点は「素朴で大きな疑問」

ウィズコロナ時代、一見営業活動は緩慢になったとしても、アフターコロナ時代にV字回復するための水面下活動を止めてはならない。成長のための戦略テーマを発見するコツは、「素朴で大きな疑問を抱くこと」だ。先日、視察のために訪問した石坂産業とサイボク、事業分野はまったく違うが、共に埼玉県に立地し、二代目、「カンブリア宮殿」出演という共通点がある。産業廃棄物処理工場に年間4万人が視察にくる、豚肉販売小売店に年間400万人が訪れる。この奇跡の物語は、二人の経営後継者の素朴で大きな疑問から始まった。

石坂産業二代目・石坂典子の疑問

「社会になくてはならない産廃業者が、なぜ地域から出て行けと言われるのだろう?」
石坂産業二代目・石坂典子の疑問

サイボク二代目・笹崎静雄の疑問

「何故、牛肉にブランドがあって、豚肉にはブランドがないのだろう?(良い肉も普通の肉も、何故、肉屋に同じ値段で買われるのだろう)」
サイボク二代目・笹崎静雄の疑問

石坂産業の第二創業物語



起業(第一創業):先代の想い


 「このままが続くはずはない」 創業者である石坂好男氏は戦後、鳶土工事業からスタートし、廃棄物を運搬する石坂組を創設。東京・夢の島に廃棄物運搬のダンプが並び、投棄の順番を待つ。その中で、まだまだ使えそうな物も、高度経済成長の論理、大量生産・大量消費によって廃棄、埋め立てされる光景を見て、資源を大切にする廃棄物の再生事業への夢を抱く。「このままが続くはずはない」



第二創業のきっかけ:ダイオキシン報道(誤報)

その後、創業者は埼玉県に廃棄物処理施設を開業する。当時、今ほど環境問題がうるさく言われていない中、ダイオキシンの発生を抑えた焼却炉建設に巨費を投じた。ところが1999年に「所沢周辺の野菜がダイオキシンに汚染されている」という報道が流れ、多くの農家が風評被害で大きな打撃を被る。後日、この報道は誤りであると分かり、いったん騒動は収束したかに見えたが、近くに産廃処理施設があるといつ危険な事態になるか分からないと考える住民も多数いた。中でも石坂産業は、環境に配慮したから故の一段と高い煙突、目立った。2001年、近隣住民が埼玉県に対して、石坂産業の産業廃棄物処理業の許可を取り消す訴訟を起こす。創業者が“もうだめか・・・”と思ったときに手を挙げたのが、長女の典子さんだった。「私に社長をやらせてください!」。先代は、荒くれ者だらけの産廃業の中で女性社長は無理だろうと、一年間の見習い社長期間を設け、実際に経営が回せたら社長だという条件付きで了承する。

第二創業から今日への歩み: 地域がいて欲しいという会社への変貌

典子さん(石坂社長)は語る。「産廃処理は、本当に手間のかかる作業の連続です。私は入社後、工場で働く者を見ることで、産廃処理は社会的意義のある仕事だと感じていて、施設で働く社員のことを尊敬していました。そもそも産業廃棄物は生活を営む結果生じたものであり、廃棄物にまつわる問題はすべての人々に責任があるはず。それなのに、私たちの仕事が悪者扱いされている。産廃処理がなぜ地域に理解されないのかを考えた結果、私たちの仕事が正しく伝わっていないからだと思うようになりました。父は職人気質で、『いい仕事をしていれば、周りから認められるようになる』と考えるタイプ。発信するという概念は全く持っていませんでした。それなら、私がその役割を担えばいいと考え、『私を社長にしてほしい』と、父に申し出たんです。しかし、その申し出の中、父の夢の島で見た衝撃、資源を大切にする廃棄物の再生事業への夢を聞けたことは、大きな財産となりました」

“いいところ”を可視化!


 先代が巨費を投じた焼却炉を廃止する。煙突から煙が出ていたら、その可視が人を不安にするからだ。そして石坂社長は、廃棄物の再資源化を主軸とするリサイクル業へと処理プロセスを大幅に変更するが、その処理施設をすっぽりと箱で覆ってしまった。これにより、施設の粉塵や騒音が外部に出なくなった。更にいえば、施設に入ったトラックが外に出る前には、雨水を利用したタイヤ洗浄装置も付けた。施設外に不快なものを持ち出さないという意思の可視化だ。

 中でも、処理施設内の見学コースの素晴らしさには驚嘆した。数多くの工場視察をしてきた筆者にして、世界トップレベルの印象を持った。廃棄物の再資源化の大切さと大変さが、脳裏に焼き付いてくる。見学コース造りに掛けた費用は二億円!これには先代もびっくりされたそうだ。この見学コースが評判を呼び、今では年間の視察者数が四万人を超えている。



「自然と美しく生きることのプレゼン業」

 筆者は、石坂産業の業態を「自然と美しく生きることのプレゼン業」と命名したが、そのプレゼンステージともいえるのが、工場に隣接する「くぬぎの森」だ。総敷地面積は17万8000平方メートル、東京ドーム四個分の広大な土地が、九つのエリアに分けられている。子ども心に還るミニSLから女神さまを祀った「しあわせ神社」まであるが、一番の特徴は、楽しみながらリアル体験型の自然教育・環境教育ができる点だ。

 元々、この里山はゴミの山だった。最初は施設周辺のゴミ拾いのボランティアからスタートし、雑木林に捨てられた不法投棄物まで集めるようになった。が、せっかくきれいにしても、数日するとゴミでいっぱいになってしまう。理由は明らかで、雑木林に人の手が入らず、荒れていたからだ。汚い場所は、汚い状態で維持されてしまう訳だ。そこで「手を入れてきれいに保てば、不法投棄もなくなるのではないか」と考え、地権者の皆さんの理解を得ながら整備を進めた。

 今では、1300種におよぶ生物多様性を維持しながら、人も集まる森に育てている。第三者による認証を受けつつ、子ども向けの環境体験プログラムや地域の皆さんの交流の場を提供する「三富今昔村」という活動に進化し、年間1万人以上もの方々に利用されている。


「自然と美しく生きることのプレゼン業」

「俺に聞いてどうする?」

 今では、廃棄物のリサイクル率は98%を超え、他社では手に負えないものまで持ち込まれてくる。この技術開発には、現場従業員の考えて働く「考動(こうどう)姿勢」が欠かせないが、これは簡単なことではない。先ずは、女性社長ということへの反発からスタートした。男性が多い業界で、ましてや世襲で継いでいるので、「お嬢さんに何ができるんだ」などと言われたそうだ。しかし石坂社長は、「トップの代替わりは、ドラスティックに方向性を変えるチャンス。この機会を逃すわけにはいかない」と、一気呵成に業務改革に取り組む。様子が分かってから自分の色を出そうという経営後継者も多いが、それでは変革のタイミングを逃しかねない。

 国際規格であるISOの取得をめざして業務プロセスを変えた2002年当時は、「やってられるか!」と半年で四割の社員が辞めていく。さすがにまずいと思って先代に相談したところ、「俺に聞いてどうする?経営スタイルに、正解はないのだから迷うな」と言われ、覚悟が定まったそうだ。石坂社長は、「従業員の顔色をうかがって中途半端なことをしていたら、絶対に信頼は得られなかった」と、当時を振り返る。



更なる進化に向けて:ミッション「産廃処理と製造が同じ土俵で語れる社会にすること」

 今、世界の環境問題は悪化の一途を辿っている。モノを生み出す動脈とモノを再資源化する静脈のバランスが著しく悪い。石坂産業のミッション「産廃処理と製造が同じ土俵で語れる社会にすること」が一歩進めば、未来の子ども達の笑顔がまた一つ増える。筆者は、心から応援したい企業と出会えた喜びを感じている。



サイボクの第二創業物語



起業(第一創業):先代の想い「日本は食糧で負けたのではないか」

 サイボクの創業者、笹崎龍雄の原体験は強烈だ。東京高等農林学校(現、東京農工大学農学部)の獣医学科へ進学した龍雄は、陸軍獣医部依託学生(士官候補生)に志願。卒業と同時に太平洋戦争がはじまり、軍馬の育成や調達のために、満州やフィリピンを転戦する。だが、戦火が熾烈を極め軍馬が全滅すると、任務は豚や鶏を飼育したり、水牛で乾燥肉をつくるなど、食料の調達がメインとなる。ある日、龍雄たちがジャングルの奥地で塹壕を掘り、アメリカ兵の様子をうかがっていると、そこには缶詰を開け、ハムやソーセージを食べ、優雅にコーヒーを飲んでいる姿があった。一方、自分たちはすっかり痩せこけ、持ち物は手榴弾と軍刀だけ。龍雄はこの時「日本は食糧で負けた」と悟った。

 1945年、終戦を迎えて帰国した龍雄は、「いまの日本には食糧自給と増産が必要だ。自分が生き残ったのは、この仕事をやるためだ」という使命感の元、翌年には埼玉県高萩村(現・日高市)で、豚の育種改良と増殖を目指した牧場を創業する。「日本人は豚をバカにするが、ご飯と良い豚肉こそが日本人を健康にする。頭脳をもよくする」と考え、世界各国の養豚業を調査しながら、品質の良い豚肉を生産する優良な原種豚を探し続けた。1950年頃までは、食うや食わずといった状況が続くが、元々が獣医学科卒、まとめた『養豚大成』が養豚業のバイブルとなり、全世界で300万部も売れる大ロングセラーとなる。龍雄はこの印税を元手に、日本で初めてイギリスからランドレース種豚を、ついでアメリカからハンプシャー種豚とデュロック種豚を原種豚として輸入、種畜の育種改良と増産技術の開発に全精力を注ぎ、生産した子豚を種豚として全国に頒布した。日本全国の養豚業者にとって、龍雄はまさに「神」であった。



第二創業のきっかけ:「牛肉にブランドがあって、豚肉にないのはおかしい」

 二代目となる笹崎静雄は、先代の創業から二年後の1948年、牧場の掘っ立て小屋で生まれた。だが、幼少期は苦労が多かった。ひどいいじめも受けた。そんな静雄を先代は、「悔しければ勉強で勝て」と一喝する。勉強することが趣味になった静雄は、やがて理不尽な世の中の現実に立ち向かうジャーナリストを夢に見て、親に黙って文科系の大学を受験する。ところが合格通知を見た先代はそれを破り捨て、「何を考えている!」と怒鳴り、静雄をひっぱたく。先代は、静雄が農学部へ行くことしか考えていなかったのだ。静雄は結局、日本大学の農獣医学部に進学することになる。

 卒業間近になると、先輩から商社や広告代理店への入社を勧められるが、静雄は、父の後を継ぐべく、それらの誘いを振り切って、サイボクへの入社を決意する。サイボク入社後の静雄は、二代目にもかかわらず、先輩たちから厳しく指導を受けた。文字通り、365日24時間、休みなしの勤務。「本ばかり読んでいたので、現場の先輩たちから『お前、豚が何を言っているのかわかっているのか』と怒鳴り散らされました。昔の人は現場主義だったので、現場から学ぶ大切さもカラダで覚えました」と静雄は言う。

 牧場での生活は過酷だったが、やがて慣れ、次第に経営にも目が向くようになった。そして、静雄は素朴な疑問を強く持つ。「養豚業界の中での名声の割に、けっして経営は楽ではない。本物創りに精魂を傾けても、食肉問屋には他の豚と同じ値段で買われる。しかし、小売りの店頭ではサイボク産は高く売られている。うまいと分かっているからだ。そもそも牛肉にブランドがあって、豚肉にないのはおかしい」。


第二創業のきっかけ:「牛肉にブランドがあって、豚肉にないのはおかしい」

第二創業から今日への歩み:「諦めない」ことが全ての起点

 そこで、「小売り直売事業の開発提案書」をまとめ、先代に提出したところ烈火の怒りを買い、提案書はビリビリに破り捨てられる。養豚業に日本一プライドがある先代にとって、余りにも本業を軽んじている、自分の苦労を軽く見ていると映ったのだ。「神」から一喝された静雄であるが、そこからが凄かった。同じ趣旨の提案書を提出すること8回、その都度、怒鳴られ破られる。そして、静雄は辞表を出し、一年間九州の食肉センターで働く。自ら包丁を手に豚をさばき、販売で歩き廻っては様々な売り方を研究する。そしてサイボクに戻った静雄に、先代はしぶしぶOKサインを出す。牧場の片隅に六坪の掘立小屋のような直売所。1975 年(昭和50年)、製造から小売りまで一貫する「六次産業化」のスタートだった。

 筆者は、この静雄氏のあり方こそが、「第二創業〜不易流行・代々初代〜」の本質だと見ている。自分に信じる道があるならば、一度や二度叩かれたくらいで諦めてはならない。その程度で諦める夢は単なる思い付きでしかないのだ。「代々初代」で、新しい理想業態を開発する。これなくしてアフターコロナでのV字回復はない。そして「不易流行」、先代譲りの本物追及の精神が、本場ドイツで1045個の「金メダル」獲得という、並いるマイスター達を驚愕させるサイボク品質を生み出した。



更なる進化に向けて:サイボクのお店は生産者と生活者の架け橋にして「命の砦」

筆者は、先代が終戦時に感じた「いまの日本には食糧自給と増産が必要だ」は、今日の課題でもあると感じている。静雄氏が、「カンブリア宮殿」で語った、「サイボクのお店は、生産者と生活者の架け橋にして『命の砦』なんです」は重い言葉だ。人口爆発と温暖化の地球環境、お金を出しても食料輸入ができない時代が来てもおかしくはない状況。「今の食糧自給率で、子どもや孫の世代が絶対餓死しないと政治家や財界人は言い切れるのか?」、こういう素朴で大きな疑問を解決するのも、今の時代を生きる企業家の使命であろう。

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