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【先端人】港屋創業者 KIKUCHI Art Gallery代表取締役 菊池剛志

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

世の中にないものを創りたい

世の中にないものを創りたい

(企業家倶楽部2020年4月号掲載)

メルセデス・ベンツ× 伝説のそば店

 東京港区六本木、外苑東通りのメルセデス・ベンツのショールームに面白い店がある。場所は「メルセデス ミー トーキョー ネクストドア(Mercedesme Tokyo NEXTDOOR)」の一角だ。
 看板にはシンプルに「Minatoya3」と書いてある。「港屋」と聞いて思い起こした人もいるであろう。虎ノ門で絶大な人気を誇った伝説のそば店「港屋」が新感覚の麺料理として登場したのだ。
 もちろん仕掛け人はあの菊地剛志氏である。
 一見わかりにくいが奥に進むと、ベンツが数台並ぶ先に、おしゃれなカフェのようなたたずまいが見えてくる。
 中に足を踏み入れると、モノトーンで統一された店内にはバルのようなハイテーブルが配置され、一人でも入りやすい。立ち食いスタイルだが、天井が高く開放感のある空間は居心地が良く、とてもそば屋とは思えない。あの虎ノ門の「港屋」とも全く違う。
 平日のランチタイムとあって、中には近隣のオフィスワーカーと思しき人たちが楽しそうに食べていた。
「温かい肉そば、1200円いただきます」
 メニューはMinatoya3 Vision“Mercedes-AMG GT Atatakai-N ikusoba”1200円(税込)1品だけだ。この長い名前からして菊地氏の強烈なこだわりが伝わってくる。
 奥のテラス席に案内されて待つこと10分。出てきた肉そばを見て驚く。「えっ、これがそば?」
 黄色いもちもちの太い麺はどう見ても中華麺にしか見えない。ボリュームたっぷりのパンチのきいた温かいつけ汁は、豚肉とねぎがこれでもかというぐらいふんだんに潜んでいる。「メルセデス」の世界観を肉そばで表現したという菊地氏、まさに世の中のどこにもない!ここでしか味わえない新感覚の麺料理といえる。 器いっぱいに盛られたボリュームたっぷりの麺と、胡椒と山椒の香りが効いたピリッと辛い肉汁と格闘していると、チャレンジングな菊地さんの声が聞こえてくるようだ。

なぜベンツと港屋が

誰もが抱くこの疑問に明快に答えてくれた。もともと若いころからメルセデス・ベンツの大ファンだったという菊地氏。港屋をオープンして自分で買ったクルマもちろんベンツという。
 そしてメルセデス・ベンツ日本の上野金太郎社長もあの虎ノ門「港屋」のファンでよく食べに行っていた。そこでこの六本木の場所を改装するに当たり「菊地さんにぜひ」というオファーがあったというのだ。
「メルセデス・ベンツにはクルマづくりにおける『最善か無か』という思想がありますが、業界は違えど“港屋”の妥協を許さないそば作りの姿勢に感銘を受けました。最高の体験をお客様へ提供させて頂きたい」と上野社長はコメントを寄せている。
 ベンツの世界観をどうメニューに表現するか。特に菊地氏が惚れ込んでいる「メルセデスAMG GT」のパフォーマンスや疾走感、美しさをどう表現するか。そして出来上がったのがこのオリジナルの温かい肉そばである。
 あの黄色のボディの色をそばの麺の色で表現したいと、そば粉に卵黄を入れているという。あの黄色のツルンとした食べ応えのある太い麺。そして骨太のエンジン音はあのパンチの効いた温かいつけ汁で表現したという。確かに食べても食べてもまだ潜む豚肉の量には驚く。これだけで元気が持続しそうだ。豚肉なのに脂っぽさがなく奥深い味わいは、メルセデス・ベンツの伝統とクルマ文化を創造してきた 力強さを表現したものであろう。それにしてもベンツとそばという意外な組み合わせに驚く。

突然の「港屋」閉店の真意

 ところであの人気店の「港屋」をなぜ閉めることになったのか。弘兼憲史氏が大ファンでご自身の漫画『島耕作』にも度々登場したあの港屋がなぜ終了したのか。
 港屋は2002年7月に虎ノ門に出現、それまで見たことのない斬新な「そば屋」として、世間をあっと言わせた。立ち食いスタイルのそば店とはいえ、クラッシック音楽に大理石のテーブル、ガツンとした太麺にパンチの効いたつけ汁、しかもそばにラー油という大胆な提案だったのだ。まさにそばというジャンルを超えて新しい食文化を創り上げたといえる。
 その後「食べるラー油」が大流行、スタイリッシュな立ち食いスタイルの店があちこちに増えた。そういう意味でも食の分野での「港屋」のインパクトは強かったのである。
 その港屋が19年2月に「どうやら寿命が来た様です」の張り紙と共に、突然その幕を閉じたのだから、ファンが驚いたのは当然だ。
 菊地氏はその後どうしていたのか。
「港屋については寿命と言うか、運命だと思ったんです。運命って書くのが変だなって思って、人の命と同じで、お店にも寿命ってあると。店を閉めるのは、店の人生を終わらせるような感じでした」
 静かに語る菊地氏だが、どれだけの葛藤があったことか。 その後さまざまなところからオファーがあったという。しかし虎ノ門という場所にこだわりたかったという菊地氏、その誘いにのることはなかった。
「あの店は虎ノ門という場所とお客様に育てていただきました。僕は寅年、寅月、寅日、生まれなんです。「港屋」は虎ノ門以外考えられない。寿命がきた訳ですから、自分が現場に立って『港屋』をやるという事はないです」 と言いながら、大手町の「星のや東京」の一階に「Minatoya2」を展開したのはなぜか。実はこれも星野リゾートの星野佳路社長がやはり虎ノ門の「港屋」の大ファンで「ぜひに」と頼まれたのだと打ち明ける。
 今後は協業で事業をしたいという菊地氏。
「Minatoya2」は50対50の出資で進めたという。

菊地剛志という男

 こんな面白いことを考えだす菊地剛志とはどんな人なのか。
 本当は美大に入りたかったという菊地氏、美大がそんなに簡単なものでないことを知り、文学部に学び、銀行マンの道に。しかし事業がしたいと退社、いろいろ考えた挙句「蕎麦屋もいいな」と。1年間スタジオにこもり、考えだしたのがあの「港屋」スタイルのそば屋なのだ。
「あの時僕はある意味『躁』の状態だったのかもしれません。だからあんな店ができたのでしょうね」
「既存の蕎麦屋さんで全く修行することなく、菊地氏の感性だけで店を出したからこそあんな斬新な店とそばが実現できたんでしょう」と弘兼氏は語っている。
 その菊地氏は虎ノ門の港屋を閉店、「KIKUCHI Art Gallery 」を創り、代表としてさまざまなことにチャレンジしている。菊地氏の感性で表現したい商品をディレクションする仕事がほとんどだが、全てパートナーシップを組んで実施しているという。
 実家のガス関連会社、北海道のそば畑、トマト農家、中国向けの洋服の着せ替えアプリ、化粧品など、多岐にわたる。その中で一番面白いものは?と問うと「全部」との答え。
 港屋閉店後、菊地氏が表に出てきたのは、19年9月に発売された「港屋」の味を再現したカップそばである。「島耕作も愛した幻の立ちそば 虎ノ門 港屋 辛香るラー油の鶏そば」はファンを喜ばせた。花山椒が効いた独特のつゆとしっかりした麺がマッチ、あっという間に完売した。
 そして3カ月、ベンツとコラボし、新感覚の麺料理を出したのだからファンにはたまらない。
 この店のコンセプトは「メルセデス・ベンツファンを広げること」と菊地氏。高級外車のイメージが強いブランドだが、もっと気軽に立ち寄って、お客さん同士も交流してほしいとの思いがある。
 実際、2月初旬の土曜の午後にのぞいてみると、平日とは全く違う客層が集まっていた。20歳前後の若い男性2人は、「カッコいい」と言いながら、肉そばと庭のベンツの写真をスマホで撮影、ハッシュタグ「ベンツ」「そば」などと、はしゃいでいた。まさにベンツのファン層を広げるという意味ではしっかりその役割を果たしているといえそうだ。

ご縁を大切に

 星野社長とのご縁でオープンした「Minatoya2」、そして上野社長とのご縁で展開する「Minatoya3」。「これからもご縁を大切に世の中にないものにチャレンジしたい」と語る菊地氏。さまざまなオファーが殺到しているというが、次はどんなものが出てくるか楽しみだ。
 今46歳という菊地氏、「僕は60歳までと思っているのであと14年です。やりたいことはたくさんある」と少年のような笑顔を向けた。 あの人なつっこい笑顔と純粋な人柄が、出会った人を魅了する。「菊地ファンはたくさんいるんですよ」とファンの一人。自らの世界観で新たな価値を創り出す菊地剛志氏はまさに次代を切り拓く先端人なのである。

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