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はせがわ 相談役 長谷川裕一

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

企業家の肖像 ブレない信念を持ち相手をリスペクトする

企業家の肖像 ブレない信念を持ち相手をリスペクトする

はせがわは1929年に創業者の長谷川才蔵が設立し、創業90年になる長寿企業だ。現在、同社の相談役である長谷川裕一は父才蔵から事業を継承し、中興の祖として全国展開し、仏壇業界で初の株式上場を果たす。名実ともに「日本一の仏壇屋」に成長させた。地方の小さな仏具店から国内最大手の企業へと成長させた企業家の世界観を聞いた。

正義感の強い子

問 どんな青少年時代を過ごしたのですか。

長谷川 子供の頃は身体が小さかったのですが、弱い者いじめをする奴がいるとかばってよく喧嘩していました。学校の通信簿には「正義感が強い」とコメントが添えられていましたね。曲がったことが嫌いな母の影響を強く受けていると思います。

 小学4年生の頃、えこひいきする先生がおり生徒は困っていました。そこで、職員室で話すと先生に恥をかかせることになると考え、自宅に訪ねて抗議をしました。10歳にもなれば理性があります。物事の善し悪しは見分けられる訳です。見た目は子供ですが、頭の中は大人と同じでした。

 まだ当時は小さな仏具屋でしたが、母は役所や税務署や警察官らが来ると七輪の上でやかんの酒を温めて振る舞います。すると昔の男たちは天下国家を論じ始める。子供たちは行く場所がないのでその脇で遊んでいました。自然と大人が話していることが耳に入ってきますね。そのような環境で育ちましたから、教えられなくても自分で善悪は区別できるようになりました。


問 「三つ子の魂百まで」といいますが、幼いころの原体験があって少年時代から精神的に大人びていたのですね。日本中が戦中戦後の貧しい時代ですが、逞しく生きる姿が想像できます。学生時代で何か印象に残っている出来事はありますか。

長谷川 ここに高校三年生のときの日記があります。

「変化の多い年だった。生徒会長を務めたのは私にとって非常なプラスとなった」と書いてあります。昭和33年(1958年)12月31日の日記です。

 毎年退学者が10名以上出るような福岡県下で最も荒れた筑豊高校という実業高校に進学しました。学生が悪さばかりするのですぐ出身校が分かるようにと長髪は許されず、筑豊高校だけ丸坊主でした。先生方は就職学校なので、新聞沙汰になると就職率が下がってしまうことを心配していました。長髪禁止はトラブルを未然に防ぐためという理由でした。

 高校二年生になると「長髪禁止の校則を変えてほしい」と学友から生徒会長に推薦されました。その頃、校舎が古くなりシロアリ被害もあるから数年で取り壊すことが決まっていた。どうせ壊すならと土足で上がり汚れたままになっていました。

 ふとこの校舎で何千人という先輩が学んでいき社会で活躍していると思ったら、「長い間ありがとうございました。自分たちでピカピカに磨いて感謝しよう。それが人の道だ」と思い、校舎を掃除することを条件に生徒会長を引き受けました。


問 古い校舎の掃除となると一大プロジェクトですね。生徒会長として、まず何から取り掛かりましたか。

長谷川 朝7時に登校し一人でほうきで掃いていると、生徒会長だけに掃除させるわけにいかないと風紀委員の人たちが手伝ってくれました。徐々に協力する人が増えていきましたが、悪びれている連中は手伝いません。

 ある時、友人が土足で上がろうとするので「靴、脱がんかい」と注意したら、「俺だけじゃなくシンちゃんにも言えよ」と言い返してきました。シンちゃんというのは筑豊一の番長で皆が逆らえない存在でした。「強い者には言えないだろう」という意味が込められているのが分かり、悔しくて涙が出ました。

 その横を本人が通ったものだから、「おいシン、脱げ」と言ったら「貴様、誰に言ってるのか。出ろ!」と怒鳴り返してきて、二人で近くの堤防に歩いていくのを皆が見ています。彼は私を殴ろうか迷っている。私もここで引くわけにはいかなかった。その気迫が伝わるのでしょうね。彼が振り返り睨めつけるから、「シンちゃん、なんばい」と牽制すると、「俺のメンツもある。立場も考えてくれ」と言うものだから、何となく二人とも緊張感が解けてしまってね。互いにお尻をポンポンと叩いて終わり。

 二人して笑いながら校舎に戻り、彼も率先して雑巾を持って掃除を始めたから、悪ぶっている連中まで掃除するようになりました。

 その後は誰が教えた訳でもないのに、「おはよう。さよなら」と挨拶するようになり、校門で一礼するようになりました。掃除のおかげで礼儀が分かるようになるのです。自然に身を整えるようになります。

 結局、その年退学者は出ませんでした。掃除の活動が話題になり、近くの進学校や県立高校の指導主任の先生がモデル校として見学に来るようになり、長髪も許されました。

日本一の仏壇屋を目指す

問 若い頃から仲間内で指導者としての経験を積んできたのですね。長谷川相談役のリーダーシップの源泉を見たような気がします。

長谷川 筑豊高校の卒業生は優秀で大学卒と同等に評価されました。上場企業の役員やグループ会社の社長になった人もいます。同窓会で会うと古い校舎を掃除した話になりますが、皆口を揃えたように「自分がやった」と言うのです。それでいいのです。

 当時から「自分たちで考えて主体的に行動しよう」と促していたのですから、自分事として受け止めている証です。頭の善し悪しではなく、やる気があるかどうかの問題です。

 もともと父の後を継ごうと考えていました。地方の小さな仏具店でしたが「世の中で最も尊い仕事」という父の教えを幼心に聞いていましたから。

 夏目漱石の「こころ」を読んで、自我について深く考えるようになりました。自分を自覚し、コントロールできなければ、人間として生きる意味がありません。人生観、世界観を学びたいと思い、仏教系で一番歴史のある龍谷大学に進学しました。

 さらに身体を鍛えたいと考え、空手部に入部しました。しかし、いくら稽古しても上達しない。早朝から人の三倍稽古しました。

 ある時、力を入れなくても強い突きが打てることに気付きました。コツを掴んでからは余計な力が抜けていき上達も早く有段者になれました。

問 家業を継ぎ、「日本一の仏壇屋」になろうと考えたのはいつからでしたか。

長谷川 大学で学生自治会の会長になり、文化祭を企画しました。

 仏教は素晴らしいのですが、一般の人が理解するには難し過ぎます。「ありがとう。頂きます。もったいない。おかげさま。持ちつ持たれつ。無常」など大切な言葉は仏教用語から来ていることを皆さんは知っていますか。お坊さんは本質的な勉強をしなければなりません。しかし、日常的に使っている言葉で仏教を理解するだけでも生活は豊かに変わります。そんなことを文化祭のテーマにしていました。

 パンフレットを作るのですが費用を捻出するために広告を貰います。そこで当時は日本を代表する京都の仏壇屋がスポンサーで挨拶に伺うと、「うちは無理して商売しなくていいので今年はしないことにしました」と断られてしまいました。

 トップ企業としての自覚が感じられず驚きました。この時です。仏壇屋は尊い仕事だと悟り、父の後を継ぎ自分が日本一の仏壇屋にしてみせると決意を固めました。

三井三池炭鉱の爆発事故

問 大学を卒業し、家業の仏具店に入社した長谷川さんは現場で営業をされたのですか。どんな社会人のスタートだったのでしょうか。

長谷川 63 年、家業の長谷川仏具店(現はせがわ)に入社した一年目の11月に福岡県大牟田市にある三井三池炭鉱で大爆発事故が起こりました。その事故で458人が亡くなり、800名超の負傷者が出る炭鉱史に残る大惨事でした。

 なんとしてもお亡くなりになられた方を大切にしたい、そして残されたご家族のためにお仏壇を収めたいと3日目には大牟田に入りました。まず、葬儀が行われていたお寺を訊ね責任者を紹介してもらいましたが、会ってもらう暇がありません。何とか労務課長に会ってもらえたのですが、「人の不幸を金にするのか」と叱られました。

 しかし、私には信念がありましたのでひるまずに、「一番大切なことは亡くなられた方を敬い弔うことです。仏さまを大切にすることではないですか」と訴えました。補償金よりも大切なものがあります。仏壇は形として残り家族を見守ることができます。

 すると労務課長は聞き入れてくださり労働組合の委員長を紹介してくれて、遺族名簿を渡してくれました。

問 長谷川さんの「仏さまを大切にする」という想いの強さが伝わったのですね。名簿を受け取った後、どうしたのですか。

長谷川 数珠と線香を持って一軒一軒遺族の家を訪ねました。当時の三池炭鉱は賑わい若い労働者も多く働いていました。突然の事故で一家の主を失った家族は将来に対して不安しかない。これから女手一つで子供たちを育てていかなければなりません。

「ご主人がずっと側にいて見守ってくれるので、まずご仏壇のお父さんに子供たちの成長を報告しましょう」と話をしました。お仏壇は家族の心の支えとなるのです。

 それから何年も十数年も経って、「子供が立派に育ちました」と感謝を伝えに会いに来てくれる人もいます。私たちの仕事は何年もかかって評価してもらえる商売なのです。

相手を尊敬する

問 長谷川さんは長く社長として経営に携わってきました。企業経営する上での心構えや信条について教えてください。

長谷川 先日、アメリカから最高裁総検事総長と上場企業の経営者がいらっしゃいました。日本式にお茶でおもてなしをしたら、ちゃんと脇の人に「お先に」と言って、お茶碗を手の上にのせて一礼して、最後は上手にお茶をすすって飲み干しました。私は驚いて、「この意味は分かっているのですか」と聞くと「知らないから、教えて欲しい」という。

 私のところに来るとお茶が出るというのを知っていて、事前に作法を練習して来てくれたのです。相手の国に敬意を払い、自分の国はまだ若いと言ってね。その謙虚さに感動しました。相手をリスペクトすることが大切です。

 人に会いに行くときにはそれだけの心構えをして行く訳です。準備ができているから受け止め方も違います。最近は日本人の方が理解していないのではないかと心配です。

 相手の国のことを勉強すると文化の高さが分かるのです。

 学生の時に新聞で見つけた好きな言葉があります。「苦難は妙薬なり」が座右の銘です。苦難が人を成長させます。困難があると工夫したり、知恵が湧いてくるものです。

P R O F I L E

長谷川裕一 (はせがわ・ひろかず)

1940年、福岡県直方市生まれ。龍谷大学卒業後、家業の長谷川仏具店(現・はせがわ)入社。仏壇の製造直販システムの確立、直営店によるチェーン展開など、業界に先駆けた経営で成長させた。1982年、社長に就任。1988年、業界で初めて株式上場。2003 年、東京藝術大学に「お仏壇のはせがわ賞」を創設。京都西本願寺御影堂内陣修復工事、銀閣寺内部漆修復工事など、数多くの世界文化遺産、国宝・重要文化財の修復も手掛ける。主な著書に『日本流』(ダイヤモンド社刊)、『お仏壇の本』(チクマ秀版社刊)、『商人道』(株式会社 はせがわ刊)がある。

(企業家倶楽部2020年1・2月合併号掲載)

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