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【編集長インタビュー】ニチイ学館 副社長 寺田大輔

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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新しいことにチャレンジし続ける

新しいことにチャレンジし続ける

(企業家倶楽部2020年1・2月合併号掲載)


ニチイ学館を創業し50年間に渡りトップとして牽引してきた実父・寺田明彦の急死を受け、社長の森と共に経営のバトンを受け継ぐことになった副社長の寺田大輔。家族だからこそ知ることのできるカリスマ経営者の実像と第二創業に向けての決意を聞いた。

道半ばでバトンを渡す

問 7月の企業家賞授賞式ではとてもお元気な姿を拝見していたので、今回の訃報には驚きました。

寺田 健康診断も受けていたのですが、7月末に分かった時には末期がんで手の施しようがありませんでした。本人は「絶対に治って会社に復帰するから社内には知らせないでいい」と話していました。

 病室で2時間ほど話をしましたが、その内1時間50分は仕事の話でした。唯一手渡されたのは、A4の紙一枚でした。本人が何回も書いては直した跡があって、中期計画をどのように達成するのか数値が書いてある計画書でした。成し遂げるのだという強い想いでいたと思います。

 以前は65歳になったら引退すると話していましたが、実際に65歳になると70歳になったら、次は75歳になったらと伸びていきました。2018年から7年計画「ビジョン2025」という事業計画を策定しましたので、これを完結させたら引退すると言っていましたが、また30年までやると言っていたでしょうね。生涯現役を貫いたと思います。

問 社員の方には何かメッセージはありましたか。

寺田 亡くなる数日前に社員に向けて残した言葉があり、最後のメッセージとして、出社した朝に皆読んだと思います。

 まさにこれからが第二創業だと考えていましたが、この50年間がひとつの区切りであるならば、組織のリーダーとして立派に果たされたと思っています。

問 19年企業家賞授賞式での寺田会長のスピーチは今でも語り継がれています。迫力があり、受講者も聴き入っていました。

寺田 割とスピーチが上手だと思われていますが、実は私が子供の頃から見てきた父は、大事な会議の前日には自宅で何度も練習をしていました。それは生前まで続けていたと思います。例えば、パーティーなどで急にふられることがありますよね。そのために常に準備していました。豪快に見えても繊細なところがありました。

花と犬を愛する優しい父親

問 何か趣味はあったのでしょうか。

寺田 父の趣味は園芸で、特にバラとアイリスという西洋あやめが好きでした。遂にはローズとアイリスを合わせて「ローリス」という会社まで作りました。今はニチイグリーンファームになっています。幼少期は、休みの日に遊園地へ連れて行ってくれたのですが、必ず花と関係のあるところでした。

 それに犬も好きでした。グレートデンという大きい犬を飼っていました。好きが高じて海外からオーストラリアン・ラブラドゥードルという犬を輸入していました。この犬種は毛が抜けにくくて、アレルギーフレンドリーという特徴があります。この特性を活かして、介護の現場でセラピードッグとして、今も事業として継続しています。

問 ご自宅ではどんな父親でしたか。何か印象に残っているエピソードはありますか。

寺田 これをやりなさいとか厳しくは言いませんでした。どちらかと言うとお前のやりたいようにやれという感じでした。自分の考えを押し付けるということはしなかったです。私がまだ4歳頃のことです。当時は裏面が白いチラシがあり、色鉛筆で絵を描いていました。

「お父さん、これ何を書いているの」と聞いたら、嬉しそうに「これがお父さんの会社のマークなんだよ」と教えてくれました。ニチイの「N」に真ん中は羽のペンをデザインしています。

 現在も使っているロゴマークを家で書いていたのを覚えています。私に自慢気な顔で見せていたのが記憶にあります。

会長の反対を押し切って提言したこと

問 入社の経緯を教えてください。

寺田 アメリカの大学を卒業し、92年に6年過ごしたアメリカから帰国しました。広告代理店に就職したのですが、半年ほどで「戻ってこい」と会長から言われました。知らなかったのですが、私はニチイ学館から出向していることになっていたのです。代理店の社長さんにご迷惑をかける訳にもいかないと考え、戻ることにしました。

 最終的に決断された際には従いますが、会長とは意見が違うこともありました。結局は私が折れないと会社を辞める訳にもいきませんからね。

問 最後は会長の決定に従うということですが、中には会長が折れたこともあったのでしょうか。

寺田 中国事業では私の意見を通してくれました。何度相談しても、「まだ日本でやれることがある」となかなか首を縦に振ってくれなかったのですが、11年の東日本大震災が転機になりました。実際に弊社でも被害者が出ました。自分が被災地に行き、がれきを撤去すると言っても一人分の力しかありません。

 復興後にまた働く仕事があるようにするには、新しいことに挑戦していかなければならないと考えました。それはかねてから準備してきた中国事業だと直訴しました。その時、私はニチイ学館の社長と兼務では到底できないと考え、子会社に移ってでもやらせて欲しいと言うと、「本気でやるのか。それならば思うようにしなさい」と許可をもらいました。

問 日本はこれから超高齢社会を迎えます。ニチイ学館に対する期待は大きいと思いますが、今後の抱負を聞かせてください。

寺田 事業に対する強い思い入れを持って常に新しいことを考え、失敗を恐れずにチャレンジすることだと思います。

「まだこちらが終わっていないのに次にこれをやるのですか」、「はい、やるのですよ!」とこれがニチイ学館の文化です。常に新しい事業を始めるので、新しい部署が立ち上がり、新しい拠点を作るので管理職が慢性的に足りません。弊社では努力すると直ぐに管理職になれます。

 国内の介護事業でも医療事務でも全国津々浦々まで提供できているかというとそうではありません。現在は、介護保険も医療保険もあり、制度がある以上、皆が等しくサービスを受けられるようにしたいと考えています。

 高齢化のピークは25年に迎えますが40年までずっと続きます。病院のベッド数は足りません。在宅介護のヘルパーさんも必要です。多くの自治体で整備させていないのが現状です。ニチイ学館一社のみで解決することは到底できません。地域の医療機関と連携して進めていきます。

問 日本の介護業界を発展させていくための課題は何でしょうか。

寺田 若い学生さんは介護業界に進みたいという人は多いのです。ご両親が介護は大変だからやめておきなさいと反対する。皆様に介護の仕事は尊いと言っていただけるのですが、壁があります。さらなる介護の社会的地位向上が重要です。

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