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Vol.1【『論語』を実践に活かす】安岡正篤記念館理事長 安岡 定子

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

君子は本を務む。本立ちて道生ず。

 古来『論語』は、実践哲学書として読まれてきました。2500年前の中国の魯という国で生まれた大思想家であり教育者でもあった孔子の思想を知る上で、最も重要な書物です。孔子の死後、弟子たちによって編纂されたもので、孔子の言行、弟子たちとのやり取り、政治家たちとのやり取りが収められています。20編約500章句から成り立っています。

 温故知新という四字熟語でおなじみの「故きを温ねて新しきを知れば、以って師と為るべし」という慣用表現も『論語』由来です。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「可もなく不可もなし」「一を聞いて以って十を知る」あるいは「遠慮」「博学」「忠告」「敬遠」という熟語も『論語』から生まれました。有隣堂書店や三省堂書店の店名も『論語』由来です。私たちの身近にあった書物であることがわかります。

 『論語』には君子という言葉が出てきます。理想の人物、リーダーにふさわしい人という意味ですが、政治家や経営者という特定の人にだけ当てはまるわけではありません。人としてどうあるべきかが説かれているので、年齢も立場も経験も異なる人々に有効です。さらに人生のどの場面にも、歴史の一場面にも、もちろん経営のあらゆる場面にも当てはめられます。それが、『論語』が普遍的と言われる所以でしょう。原理原則で貫かれているからです。

 冒頭の「君子(くんし)は本(もと)を務(つと)む。本立(もとた)ちて道(みち)生(しょう)ず。」は『論語』の中の一文です。君子はまず根本に力を尽くす。土台がしっかりできれば、道は自ずから開けていく、という意味です。この一文につながる前段では土台のことを社会秩序と捉えています。まず家庭の中の家族関係が良好であることが大切で、それができていれば社会においてもよい人間関係が築ける。そのような人物は世の中を乱すようなことはしない。というように一番根本となる家庭から順を追って、視野を広げています。当時は戦乱の世になりかけていて、よき国造りをするためには、よき人材の育成が急務であり、孔子はそのために弟子の教育に尽力していました。国の根本はよき人材が揃っていることで、そこがしっかりできれば自ずから理想の国家に近づいていけるということでしょう。

 この根本に力を注ぐことの重要性は、どの組織にも当てはまります。そしてトップはそのことを充分に理解しています。しかし重要であることがわかっていても、根本に時間や手間をかけることができない場合もあります。成果を出す、結果を数字で表すことを求められる日々の中で、まず根本から見直すことは、かなりのエネルギーが必要です。

 根本とは樹木で例えれば、根っこに当たります。根っこは土の中なので見えません。見えないところよりも芽を出し、成長していくところにやり甲斐や楽しさがあります。それは目で見てすぐに認識できるからです。しかし大木は、地上の見えている部分の倍以上に地中に根を張っていると言われます。地上で立派な姿を保とうとすれば、根っこが大事だということです。

 人材の育成と同様に組織の構成、あるいは創業の精神を理解し共有することも根本を為すものだとすると、一方、日々の業務を成果につなげていくことは、樹木の地上に見えている部分が育っていく様子と言えます。

 成果が見えにくい所にも力を注げるかどうかが肝心です。将来、組織を拡大する、新しい企画を立ち上げる、他業種へ参入するなど、様々な場面が想像されるでしょう。その時にふさわしい人材がどれだけいるのか、同じ哲学を持った仲間はいるのか。結局それらが根本となり、強い企業になっていきます。
 
 『論語』には孔子と弟子とのやり取りがいくつも出てきます。次にご紹介するのは、子(し)貢(こう)という頭脳明晰で優秀な弟子と孔子のやり取りです。

  子貢が政治の要諦とは何かと質問します。

  孔子は「食(しょく)を足し(たし)、兵(へい)を足し(たし)、民之(たみこれ)を信(しん)にす。」と答えます。

  すると子貢は、その三つのうちどれか一つを捨てなければならないとしたら、どれを捨てるのか、とさらに質問します。

  孔子は「兵(へい)を去(さ)らん。」と答えます。

  さてここまで来て、子貢はさらに最後の選択を迫ります。二つのうち、どちらかを捨てなければならないとしたらどうするのか、と。

  孔子はきっぱりと「食(しょく)を去(さ)らん。」と言い切ります。そして続けて
  「古(いにしえ)より皆(みな)死(し)有(あ)り、民(たみ)信(しん)無(な)くんば立(た)たず。」と。

 最後の「信無くんば立たず」の一文は、とても有名ですので、ご存じの方も多いと思います。孔子は政治の要諦に、食と兵と民の三つを挙げました。つまり経済の充実、国防の強化、そしてよき人材ということになります。これは政治だけではなく、企業や様々な組織にも同じことが言えます。

 この三つのうち一つを手放すとしたら、まず兵を、そして次には食を手放す、と孔子は言いました。武力で制圧するのではなく、リーダーの徳によって国を治めていく徳治政治を理想としていた孔子が兵を最初に手放すことは想像できますが、次に食を捨てると言った時に、子貢は疑問を持ちます。経済を捨てたら民が困窮し国が衰退すると考えたからです。そんな子貢の思いを打ち消すように、孔子は人は皆死を迎えるものだ、しかし人から信がなくなってしまったら、国そのものが永久に成り立たなくなってしまう、と子貢に説きました。信とは偽りを言わないこと、誠があることを意味します。誠実であることです。上に立つ者はもちろんですが、誠を持った民がいれば、国は必ず復興・隆盛していくというのが孔子の信念です。

 一時の繁栄や成功に驕ることなく、よき人物を育てるという根本も忘れないようにする。好調の時は、やがて来るだろう不調・低調の時のために何ができるのかを考え、準備しておく。見えない所に力を注ぐのは、とても地味な作業ですが、いざという時に最も大きな力を発揮するでしょう。

 物質的発展は加速の一途です。働くことに対する価値観も大きく変化し多様化していくでしょう。しかしそれらを作り出し、動かし、決断し、責任を取るのは人間です。本質を見失わず、根本に力を注ぐことは、益々必要になってくるでしょう。


P r o f i l e 安岡定子 論語塾講師、公益財団法人郷学研修所・安岡正篤記念館理事長 1960 年東京都生まれ。二松学舎大学文学部中国文学科卒業。陽明学者・安岡正篤の孫。現在、「こども論語塾」の講師として全国各地で定例講座を行い、子どもや保護者に論語の魅力を伝えている。また大人向け講座や企業セミナー、講演にも力を注いでいる。『心を育てるこども論語塾』『仕事と人生に効く成果を出す人の実践・論語塾』(以上ポプラ社)、『子や孫に読み聞かせたい論語』(幻冬舎)、『新版 素顔の安岡正篤』『壁を乗り越える論語塾』(ともにPHP 研究所)『ドラえもんはじめての論語』(小学館)など著書多数。

(企業家倶楽部2021年3月号掲載)

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