会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2021年7月号掲載)
人の本質はなかなか見極められないものです。しかし組織は人の集合体であり、人無くしては成り立ちません。人物を正しく観ること、これは既に孔子の時代から大きなテーマのひとつでした。いつの世も人材と人事は組織の要ということでしょう。
『論語』の中にこんな場面があります。
仲弓という優秀な弟子が地方長官を任ぜられて現場に出るにあたって、心掛けるべきことを孔子に尋ねました。孔子は次のように答えました。
「有司(ゆうし)を先(さき)にし、小過(しょうか)を赦(ゆる)し、賢才(けんさい)を挙(あ)げよ。」と。
有司とは長官の部下のことです。仕事はそれぞれの担当者に任せ、小さいミスは大目に見る。そして知徳のある優れた人物を登用しなさい、ということです。簡潔に言い尽くしている名言です。この孔子の答えに対して仲弓はさらに質問します。
「私はまだ経験不足で自信がありません。どのようにしたらそのような人物を見つけられますか。」と。すると孔子は即座に答えます。
「爾(なんじ)の知(し)る所(ところ)を挙(あ)げよ。爾(なんじ)の知(し)らざる所ところ)、人(ひと)其(そ)れを諸(これ)を舍(す)てんや。」と。
まず自分の知るよき人物を登用せよ。お前が知らないよき人物は、世間が捨てておかないはずだ。必ず推薦されてくるはずだ、という意味です。
当時は戦乱の世になりかけていて、政治も腐敗し賄賂が横行していた時代です。正しい人事は行われず、不遇な賢人がたくさんいました。新しく赴任する若き仲弓には、民の期待がかかります。実践経験に乏しくても、よき人材を登用する姿勢を見せることが重要で、そこから信頼されることを孔子は伝えたかったのでしょう。
自分の知っている範囲だけで物事を解決しようとするのではなく、広い視野に立って物を観ることの大切さを説いています。そして私心のない姿勢が、いい機運を生むことまで孔子は伝えています。
『論語』には、孔子の理想とするトップの姿を表す言葉と共に、弟子や為政者から政治の要諦を尋ねられ、その答えとなる言葉も収められています。次の言葉もその中の一つです。他国の地方長官を務める人物に対して述べた言葉です。「近(ちか)き者(もの)説(よろこ)べば、遠(とお)き者(もの)来(きた)る。」
自分の領地の民が幸せであることが第一であることを忘れないように。よく治まれば、その噂を聞いて自ずからよき人材が集まってくる。まずは自分の足元をしっかり見つめることだ。こんなふうに孔子はアドバイスをしました。この地方長官は、どうも人口を増やし活気ある地方自治をしたかったようです。確かに民が増え、地域が豊かになることは皆が望むことですが、本質を見失ってはいけないということでしょう。民が物心両面で満たされ、この国のためなら、飢饉の時も、つらい労役も団結して乗り越えよう、そんな気概のある人々の集団になることが先決です。自分の想いを目の前の民に語らなければいけません。
さて人物を観る時、どのような点に注意をしたらいいのでしょう。孔子は次のような言葉も残しています。
「其(そ)の以(な)す所(ところ)を視(み)、其(そ)の由(よ)る所(ところ)を観(み)、其(そ)の安(やす)んずる所(ところ)を察(さっ)すれば、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや、人(ひと)焉(いずく)んぞ廋(かく)さんや。」と。
その人の行動をよく視て、どうしてそのような行動をとるのか、その原因や動機を観る。そしてその行動に満足しているかどうか、そこまで慎重に検討してみると、その人の本質は隠しようがない。どんな人でも隠し通すことはできない、という意味です。
みるという漢字を使い分けています。ここには出てきませんが、最も知られているのが、見るでしょう。これは見るものを選びません。目に入ってくるものをそのまま見る時に使います。視るは意識して見る時に使います。凝視する、注視するというように。観るは具に、詳しく見る時に使います。察は見えないものを見る時に使います。人の気持ちを察するというような使い方をします。観察は見える所も見えない所も全てを見尽くすという意味になります。理に適った素晴らしい熟語であることがわかります。
孔子の人物観察の極意がここに見られます。この言葉を、渋沢栄一氏も大変興味深く感じたようです。渋沢氏の解説も本質をついています。
「まず第一にその人の外部に顕われた行為の善悪正邪を相し、それによりその人の行為は何を動機にしているものなるやを篤と観、更に一歩進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしておるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるものでその人が隠そうとしても、隠し得られるものではないというにある。いかに外部に顕われる行為が正しく見えても、その行為の動機になる精神が正しくなければ、その人は決して正しい人とは言えぬ。時には悪をあえてすることなしとせずである。また外部に顕われた行為も正しく、これが動機となる精神もまた正しいからとて、もしその安んずるところが飽食暖衣逸居するに在りというようでは、時に誘惑に陥って意外の悪を為すようにもなるものである。ゆえに行為と動機と、満足する点の三拍子が揃って正しくなければ、その人の徹頭徹尾永遠まで正しい人であるとは言いかねるのである。」
まさにその通り、と納得の解説です。人物を見極めることも大切ですが、自分も常に見られているという意識も忘れてはいけませんね。