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【緑の地平vol.13】 三橋規宏 千葉商科大学名誉教授

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

中国の大気汚染「PM2.5」の来襲困りましたね

(企業家倶楽部2013年6月号掲載)

偏西風に乗って4、5月頃に直撃か
 中国の大気汚染が危機的状態にある。特に人の健康を損なう恐れがある微小粒子状物質PM2・5がこれから初夏にかけて黄砂とともに偏西風に乗って日本に押し寄せてくる。直接被害を受けやすい九州や中国地方では、3月に入ってから、すでにその兆候が見られる。
 熊本県では、3月5日早朝に北部の荒尾市で1立方メートル当たり91?101マイクログラムのPM2・5を観測した。同じ時刻、福岡市では84マイクログラム、大分県日田市では95マイクログラム、長崎市84マイクログラム、中国地方の山口県・宇部市などでも85マイクログラムを観測している。 
 日本のPM2・5の環境基準は、1日の平均値が35マイクログラム以下に定められている。九州地方などで観測された数値は、日本の環境基準の2倍以上になっている。もっとも、これらの地域の中には、毎年、年間20?30回は基準値を超える日があるそうなので、基準値を超えたからといっても、直ちに健康に影響を与えるわけではない。それにしても、基準値を大きく上回るPM2・5がこのところ頻繁に観測されるのは、明らかに中国から飛散してきたものと言えるだろう。 
 環境省ではこのような事態を想定し、2月27日、大気中のPM2・5の濃度が1日平均で環境基準値の2倍(70マイクログラム)を超えると予想される場合は、外出や屋内の換気を控えるよう呼び掛ける暫定基準値(表参照)をまとめ、全国の自治体に提示し、各都道府県が住民に注意を喚起するように要請した。 
 これを受けて、熊本県では、早速、県民に対し、①県及び熊本市が公表するPM2・5に関する速報値を注視する、②不要不急の外出を控える、③屋外での激しい運動はできるだけ減らす、④外出時にはマスクの適切な着用をする、⑤室内の換気は必要最小限にする、⑥洗濯物を室内で干す、などの具体的な対策を呼び掛けている。被害を受けやすい福岡県など九州の他の県も同様な呼び掛けをしている。

ツイッターで憂さを晴らす中国人

 中国の中でも、今年、大気汚染が最も深刻だった北京では、1月にスモッグが無かった日はわずか5日間、過去60年間で最悪の状態に追い込まれた。2月中旬の春節(旧正月)休暇の一週間こそ、北京の空には青空が戻った日があったが、春節が終わると旧(もと)の木阿弥、昼間でも太陽が見えず、スモッグに覆われた薄暗い街中を大きなマスクをして歩く北京市民の痛々しい姿が何度もテレビで放映された。

 この冬、北京市のPM2・5の濃度は、日本基準の10倍近くの300?400マイクログラムの日が多く、お手上げの状態だった。 
 やけ気味の北京市民などがツイッターで「我々は日本の10倍もの汚染の中で、元気だが日本はちょっと濃度が上がるだけで大騒ぎをする憶病者だ」などとジョークをささやき、憂さ晴らしするケースが目立った。たとえば、大気汚染問題と尖閣諸島をめぐる日中対立を絡めて「送風機を設置して尖閣諸島に(中国から)風を送り込めば、日本は戦わずに撤退するよ」、「PM2・5で日本人を室内に閉じ込め、わが軍が上陸すれば成就する」など思わず笑ってしまいたくなるような落書きも散見された。

昨年は北京など4大都市で約8500人が死亡 
 大気汚染の犯人は大気中に浮遊する粒子状物質だ。粒子状物質には大小様々あるが、このうち特に粒径の小さい物質(粒径2・5マイクロメートル以下の物質)をPM2・5と呼んでいる。1マイクロメートルは1ミリの千分の1に当たる。人の毛髪の直径は約70マイクロメートルなので、PM2・5はその約30分の1の小さな粒子だ。石炭火力や自動車の排ガス、工場の煤塵などに含まれる硫黄酸化物や窒素酸化物などの物質からできており、容易に呼吸器の奥深くや血管に入り込み、ぜんそくや気管支炎、心臓疾患などを発生させ、死亡リスクを高める、有害物質だ。 
 北京大学が国際的な環境NGO、グリーン・ピースの協力を得て4大都市(北京、上海、広州、西安)を対象に調査したところによると、昨年1年間に、PM2・5が原因と考えられる死者が8572人、また、それに伴う経済損失は、10・8億ドル(約970億円)にも達したそうだ。 
 中国の大気汚染を根本的に解決するためには、中長期的には石炭火力依存型の高度成長路線の転換や急速なガソリン車の普及を自粛するなどが求められる。だが、日本側からこのような問題を提起すれば、内政干渉と反発を招き、尖閣諸島で対立している日中関係をさらに悪化させかねない。

日本の技術移転が求められているのだが‥‥ 
 現実的な対応としては、日本の進んだ環境技術の移転である。たとえば石炭火力発電向け脱硫、脱硝装置、ガソリンの排ガスクリーン化技術、ディーゼル排ガス浄化装置、汚染物質の分析装置、汚染が起こるプロセスを解明するコンピューターによるシミュレーション技術、さらに空気清浄技術など日本には世界に誇れる最先端の汚染対策技術がたくさんある。 
 これらの技術を中国に移転させることができれば、中国の大気汚染は大幅に改善できる。しかしそのためには、いくつかの壁を乗り越えなくてはならない。 
 第一に、技術移転にはお金が必要なことだ。ビジネスとして中国側がお金を払って技術を導入することが望ましいが、「環境よりも経済優先」の中国政府の環境予算ではとても対応できない。さりとて、世界第二の経済大国に発展した中国にこれまでのように日本が無償で技術供与するわけにはいかない。

 第二は、尖閣諸島問題という政治の壁が大きく立ち塞がっていること。日本の環境、外務、経済産業省の課長クラスと中国環境保護省の課長クラスとの間では、これまで20年近くも大気汚染対策についての協力会議が続けられている。今こそ、この関係をさらに強化させることが必要だが、尖閣諸島をめぐる対立で、逆に萎んでしまっている。安倍内閣には、ぜひこの壁を乗り越えてほしい。 
 冬場はシベリア気団が強いため、北西の風が吹くため、中国から日本へ大気汚染はあまり流れてこない。だが、4月から5月、6月に向け、暖かくなると、偏西風に乗って中国から黄砂とともに大量のPM2・5が飛来する可能性が強まってくる。日本としては、差し当たり、影響を受けやすい九州や西日本地域で、観測体制の強化とか健康への自己防衛といった消極的な対策でしか対応できない。「危険な季節」の到来を前に積極的な対策が打ち出せない日本のいらだちだけが募る。


PM2.5 の暫定基準値と行動の目安(2 月27 日環境省作成)

 1日平均値が70マイグラ/立方クロムメートルを超える場合★ 病気のある人や高齢者、子供は体調の変化に注意する★ 必要でない限り外出自粛★ 屋外での激しい長時間の運動を避ける★ 肺や心臓に病気のある人や子供は特に慎重に行動する

 1日平均値が70/立方マイグラクロム/立法メートル以下の場合 ★ 特に行動の規制はない

プロフィール 

三橋規宏 (みつはし ただひろ)

 経済・環境ジャーナリスト 千葉商科大学名誉教授1964年慶応義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010年4月から同大学大学院客員教授。名誉教授。専門は環境経済学、環境経営論。主な著書に「ローカーボングロウス」(編著、海象社)、「ゼミナール日本経済入門24版」(日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「環境経済入門第3版」(日経文庫)など多数。中央環境審議会臨時委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など兼任。

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