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【緑の地平vol.26】 三橋規宏 千葉商科大学名誉教授

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

消滅の危機に立つアラル海を行く

(企業家倶楽部2015年10月号掲載)

NASAは「消滅状態にある」と発表

 アラル海は中央アジアのウズベキスタンとカザフスタンの国境をまたぐ地域にある湖。面積は北海道よりやや小さく、日本最大の琵琶湖の約100倍、1960年代初め頃までは世界第4位の規模を誇っていた。そのアラル海が今、消滅の危機に立たされている。米航空宇宙局(NASA)は昨年10月初め、2000年?14年の間に撮影したアラル海の衛星画像を公開し、ほぼ「消滅状態にある」と発表した。

 アラル海は砂漠の中にある。ウズベキスタン側を流れるアムダリア川とカザフスタン側を流れるシルダリヤ川の二つの川が流れ込んでいた。アムダリア川はパミール高原、シルダリヤ川は天山山脈の融雪水を源流として、2000km以上を流れてアラル海に到達する。塩分濃度1%(海水は3.5%)程度の塩水湖でアラル海サケ、チョウザメ、ナマズなど魚種にも恵まれ、周辺住民は漁業で生活を営んできた。

 ところが1940年代、この一帯を領土としていたソ連は、アラル海の周辺地域で大規模な綿花を栽培する計画を立てた。綿花栽培には大量の水が必要になる。このためアラル海に流れ込む二つの川を農業灌漑として利用するため本格的な運河をつくった。その結果、60年代に入るとアラル海に流れ込む水量が激減し、70年代には年平均60センチというペースで水面が低下した。塩分濃度も2000年代に入ると海水濃度の2倍以上に達し、魚介類が死滅した。

 「一度アラル海を見てみたい」と思っていた。たまたまタシケント(ウズベキスタンの首都)に赴任した友人が「よいガイドがいるから一緒に行こう」と声をかけてくれ、5月下旬に実現した。日本からアラル海に行くルートはいくつかあるが、今回は成田から韓国のインチョン空港経由で、タシケントへ直行した。日本からの飛行時間は7時間程度だ。タシケントで一泊し、翌日アラル海に向かった。タシケントはウズベキスタンの東端、アラル海は西端のためかなりの距離がある。そこでタシケントからアラル海に近いヌクス空港まで飛行機を利用。飛行時間は約1時間半。ヌクス空港には地元出身のガイドがジープ(トヨタのランドクルーザー)を用意して出迎えてくれた。

炎天下、干上がった湖底を走る

「これから湖岸に出て干上がったアラル海の湖底を走り、今晩はアラル海が見渡せる丘の上でテントを張り、一泊します。350km程度の距離です。翌日は船の墓場に案内します」と男が説明してくれた。空港からしばらくは道路沿いに綿花畑が広がっており、アムダリア川をまたぐ橋を渡った。水量はまずまずに見えたが、「アラル海まで届いていない」ということだった。

 1時間ほど走った後、車は道路を外れ、湖岸に出た。湖岸沿いの道は砂原でデコボコしており、所々に白い砂丘が見え、雑草や雑木が茂っていた。白い砂丘は塩が固まったものだった。雑木の一部は風で砂が舞い上がるのを防ぐために塩土に耐性のある特別の植物の種を空中散布したものだという。やがて湖岸から干上がった湖底に出た。35度を超える炎天下の中で6時間を超えるドライブは結構きつかった。

 アラル海が見渡せる丘の上でガイドが手際よくテントを張ってくれた。

 深夜、テントの小窓から外を見ると、満天の星空だった。早朝5時半頃にアラル海の向こう側(東側)から真っ赤な太陽が昇ってくるのをみることができた。衛星写真でみると消滅状態のアラル海だが、近くでみると、湖の向こう側から昇ってくる太陽が見られるほどの広さを保っていた。正確な比較は分からないが、まだ琵琶湖(670平方km)を上回る程度の面積は維持しているように感じられた。

 日の出を見た後、昨日同様、干上がったデコボコの砂丘の湖底を3時間程走りムイナック村に着いた。破壊される以前のアラル海の中心地のひとつだった。ガイドもこの村の出身という。

 漁業が盛んだった1940年代の最盛期には、ムイナック村を中心とする周辺地域には漁業従事者など約10万人が住んでいた。2000人を超える漁民が300?400艘の船を操り、年間4?5万トンの漁獲高があった。魚加工工場もあった。それが今では人口が1万人を割ってしまった。

湖底が干上がり放棄された漁船の残骸

船の墓場を見る

 村を通り抜け、20分ほど走ると湖岸に出た。1960年初め頃はこの辺りは満々たる水が波打っていたという。ところどころに雑草と雑木が生えている乾涸びた湖底の砂原をさらに少し進むと、アラル海の変貌を示す記念碑に到着した。

 記念碑には破壊される以前と破壊された後のアラル海の姿が立て看板に描かれていた。60年代初め頃までは世界第4位だったが、今では消滅寸前まで縮小している姿が展示されている。記念碑から20mほど下の砂原の湖底には、10数艘の廃船が集められていた。船の墓場である。かつてアラル海を縦横に動き回った漁船も水がなければ動くに動けない。漁船の成れの果てに心が痛む。

 アラル海の縮小は周辺住民から漁業という生活の糧を奪っただけではない。地域住民の健康にも大きな被害を与えている。80年代に入ると、体力の衰えた老人や赤ん坊の死亡率が急激に増えてきた。乾燥した湖底には砂嵐が頻繁に発生するようになり、それを吸い込んだ老人や赤ん坊が気管支炎や食道ガンになって死んでいった。さらに塩を大量に吸い込むことで結石や腎臓病が蔓延し、アラル海沿岸に暮らす全住民の8割近くが何らかの障害を抱えるまでに至った。

悲観的なアラル海の将来

 アラル海はどうなってしまうのだろうか。 
 91年のソ連崩壊後、アラル海はカザフスタンとウズベキスタンの2国に分断された。カザフスタンを流れるシルダリヤ川は現在でもアラル海に流れ込んでいる。このためカザフスタン領のアラル海(小アラル海)を残すため、ウズベキスタン領のアラル海(大アラル海)に水が流れないようにするため、同国は大小アラル海の間に堤防を築いた。この結果、小アラル海の水位は徐々に回復してきている。一方、今回訪問した大アラル海は有効な対策が打ち出されていない。回復のためにはアムダリア川の灌漑用運河の一部を取り壊し、アラル海まで流れを取り戻すことが必要だが、ウズベキスタン政府は、そこまで踏み切れないようだ。このため、近い将来、大アラル海は消滅せざるをえない、との見方が支配的である。

 アラル海に流れる二つの川の水量と砂漠気候の中で大量に蒸発する水量が均衡を保って、6千万年以上も維持されてきた古代湖が、ソ連・スターリン時代の無謀な「自然改造計画」によって、かくも短期間に徹底的に破壊されてしまった悲劇を私たちは次世代に語り継いでいかなくてはならない

 

プロフィール 

三橋規宏 (みつはし ただひろ)

千葉商科大学名誉教授

1964 年慶応義塾大学経済学部卒業、日本経済新聞社入社。ロンドン支局長、日経ビジネス編集長、論説副主幹などを経て、2000年4月千葉商科大学政策情報学部教授。2010 年4月から同大学大学院客員教授。名誉教授。専門は環境経済学、環境経営論。主な著書に「ローカーボングロウス」(編著、海象社)、「ゼミナール日本経済入門24版」(日本経済新聞出版社)、「グリーン・リカバリー」(同)、「サステナビリティ経営」(講談社)、「環境再生と日本経済」(岩波新書)、「環境経済入門第3版」(日経文庫)など多数。中央環境審議会臨時委員、環境を考える経済人の会21(B-LIFE21)事務局長など兼任。

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