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【ベンチャー三国志】Vol.3

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

二つの試練を乗り越えて

二つの試練を乗り越えて

(企業家倶楽部2010年10月号掲載)

(執筆陣 徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、藤田大輔、土橋克寿)

 一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶー。ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の「蒼き狼」たちの命懸けの戦いを追う。

新30年ビジョンで一世一代の大ボラ

 2010年6月25日午前10時、東京・丸の内の東京国際フォーラム・ホールAで、ソフトバンクの第30回定時株主総会が開かれた。2010年3月期連結決算は営業利益が4658億円に達するなど、かつてない好業績を達成、総会は和気藹々(あいあい)のうちに終了した。ひと呼吸置いて、孫正義は「ソフトバンクの新30年ビジョン」と銘打った一世一代の演説を行った。

 これからの300年間の情報革命を展望しつつ、直近の30年ビジョンを披露した。孫が言う。

「これから8年後の2018年に1個のコンピューターチップに入るトランジスタの数が、人間の脳細胞数約300億個を超えます。つまり、コンピューターが人間の脳を越えるのです。さらに、100年後には、トランジスタの数は1垓(がい)倍になります。1垓は1兆の1億倍という数字です。そうすると、自分で物を考えるコンピューターが出現、情報ビッグバンが起こります。ですからソフトバンクはこれから30年間も右肩上がりで成長していきます」。

「30年後のわが社の時価総額は現在の70ー80 倍の200兆円ぐらいになるでしょう。最後の大ボラですが、本気の大ボラでもあります。私は創業以来、大言壮語したことをほとんど実現してきましたが、多分これも実現するでしょう」と5000人の株主、報道関係者を前に大見得を切った。

 110分に渡る長広舌もそろそろ、終わりかと思った所で、中央の大スクリーンに一人の老婦人の写真が映し出された。

「私のおばあちゃんの写真です。最後に私がなぜ、事業家を目指したのかをお話したいと思います」と孫が語りかけ、聴衆は予期せぬクライマックスに引き込まれて行った。

 孫は1957年8月、在日韓国人の3世(90年代前半に日本に帰化)として佐賀県鳥栖市五軒道路無番地に生まれた。貧困と数々の迫害、孫は日本名を名乗って息を潜めて少年時代を送った。おかげで大好きだった祖母がキムチイコール韓国という連想から大嫌いになった。14歳で日本に来て、すぐ結婚、極貧の中で7人の子供たちを育てたスクリーンの祖母に向かって孫は突然、涙声になり「おばあちゃん、ゴメンね!」と謝った。

孫正義の祖母


孫の魂の叫び

 孫家にはその後も厳しい試練が訪れる。中学3年生の時、家族は崩壊の危機に瀕した。大黒柱の父、三憲が過労から吐血し病床に臥した。孫一家は極貧のドン底に突き落とされる。1歳年上の長兄が高校を中退して家計を支えた。貧困にあえぐ家族を見て孫は魂の叫び声を上げる。「俺が事業家になって絶対に家族を支えてみせる。そのため、アメリカに行って事業のタネを見つけて来る!」

 親戚一同、学校の先生たちが渡米を引きとめ、「お前はなんて冷たいやつなんだ」となじった。孫は吠えた。「そんなんじゃない。ついでに言っとくが、国籍だとか、人種だとか、つまらんことで悩んでいるが、孫正義の名前で人間は皆な同じであることを証明してみせる!」。

 孫の声は震え、目には一杯涙をためている。5000人の聴衆は始め黙って聞いていたが、やがて拍手が湧き起こり、会場は大きな感動に包まれた。

 孫は裕福な家庭に生まれ、九州の名門進学校である久留米大学付設高校を経て、カリフォルニア大学を卒業、IT革命の旗手として順風満帆の経営者航路を進んできたと思われていた。しかし、実際は迫害と貧困の少年時代を送って来たのだ。色白で品のいい孫の顔立ちからは想像も出来ない生い立ちを聞いて、聴衆は少なからず驚いた。

 会場中央には孫の両親が息子の晴れ舞台を一目見ようと駆けつけていた。そばには末弟の孫泰蔵が付き添っている。泰蔵は新30年ビジョンのシナリオ書きを手伝い、大体の筋書きは承知していた。ところが、土壇場で泰蔵も承知していない孫家のタブーになっている出自を大胆に暴露したのだ。しかも会場は深い感動に包まれている。泰蔵は呆然として立ちすくんだ。

「これからも頑張ります。よろしくお願いします」。孫は深々と頭を下げ、暗転した舞台のそでに下がった。再び場内から万雷の拍手が起こった。孫は場内の拍手を聞きながら、次の30年に向けて闘志を燃やすと同時に創業期の苦しかった日々を思い起こした。

コンピューターは8年後に人間の脳細胞を超えると予言する孫正義


創業間もなく病魔に倒れる

 創業期の試練は突然訪れた。創業して1年半経った82年夏。体が異常にだるい。「疲れか?」。孫は創業から1年半、脇目もふらずに走り続けて来た日々を振り返りながら、最初は軽く考えていた。

 しかし、定期健康診断の結果を聞いてがく然とした。慢性肝炎、しかも重度。絶対安静が必要と言う。しかし、日本ソフトバンクはまだ、出航したばかり。社長の孫正義の帆がなければ、走り続けることは出来ない。孫は入院しながら、社長業を続けた。

 何とか、経営は拡大を続けた。それに反比例するように病状は悪化していった。担当医師が冷酷に宣告した。

「慢性肝炎はやがて肝硬変となる。このままでは余命は5年位でしょう」

「えっ? 5年。先生、5年しか生きられないのですか」。孫の目の前に漆黒の闇が広がっていく。

 ーこのまま俺は死んでいくのか。中学時代、家族を必ず幸せにすると誓って事業家を目指し、家族の反対を押し切ってアメリカに留学、パソコンソフトの卸業を始めた。これからが本番。俺の実力の見せ所と思っていた矢先に慢性肝炎。しかも余命5年。

 「このままでは終わりたくない」ーさすがの気丈な孫も病院のベッドで何度も悔し涙を流した。

新療法で奇跡の生還

 1年過ぎたころ、父親の三憲が一つの新聞記事を見つけた。東京・虎の門病院の医師、熊田博光が新しい肝臓病の治療方法を学会で発表したという。孫は熊田を訪ね、新療法を詳しく聞いた。ステロイド離脱療法というもので、肝臓病の治療薬であるステロイド剤を投与して、いったんやめると、肝臓を犯しているe抗原(ウイルス)が消えるという。いわば、急性肝炎を起こして、一気に治すという逆療法で、当時はまだ、7割程度の成功率だった。失敗すれば、死ぬかも知れないのである。

 孫は迷った。新療法に一縷の望みを託しながらも、すぐには踏み切れなかった。まだ、27歳の若さ。会社の仲間もいれば、家族もある。孫はすでに結婚していた。考えれば、考えるほど、不安は増していく。孫は不安を消すために病院のベッドで闇雲に書物を読んだ。中学時代に孫を呪縛から救ってくれた「竜馬がゆく」を再び手に取った。33歳で維新の回転を成し遂げて、この世を去った坂本竜馬の生き様は27 歳の孫を救ってくれるかも知れない。

 読み進んでいくうちに、孫の目にある文章が飛び込んできた。孫の目が輝きを増す。

 明治維新を決定付けた薩長連合。徳川幕府を倒すためには、必須条件と言われながら、薩摩と長州は犬猿の仲。そこで竜馬は薩摩を代表する西郷隆盛と長州を代表する桂小五郎との秘密会談をお膳立てした。その夜、床に就く竜馬に付きの者が用心のため短筒か刀を枕元に置くよう勧める。竜馬は次のように言って意に介さない。

「生きるも死ぬも、物の一表現に過ぎぬ。いちいちかかわずらっておれるものか。人間、事を成すか成さぬかだけ考えておればよいと俺は思うようになった」

 自分の防衛(生死)に汲々(きゅうきゅう)としてるようなことでは大事が成るかというわけである。

 ー そうか、生死のことは天に任せ、事を成すことだけに集中すれば、いいのか。

 孫は再び、竜馬から教えられたような気がした。自分は生に執着しすぎていた。長生きすることが充実した人生とは限らない。竜馬のようにわずか33歳の命であっても、濃密な生を生きれば、100年後、否、1000年後の世界でも永遠に人々の心の中に生きることが出来る。そう思うと、漆黒の闇に一条の光が差し込み、見る間に明るさを増して行った。 「先生、そのステロイド離脱療法をお願いします」ー 孫の心に迷いは消えていた。熊谷医師が孫に提案した逆療法を受けることにした。
 84年3月、ステロイド離脱療法が施された。3カ月後の6月にe抗原が完全に消えた。賭けは成功した。孫は病魔に勝ったのだ。乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に勝ったことで、その後の幾多の勝負にも平常心で臨めるようになった。

新規事業で失敗10億円の借金つくる

 病が癒えた後の孫にもう一つの落とし穴が待ち構えていた。一難去ってまた一難である。新規事業の失敗だ。孫はあらゆる商品の価格情報を提供するビジネスを思いつき約10億円を投じた。今で言うカカクコムの原型である。

 アイデアは良かったのだが、全商品の価格を調べ、定期的に印刷物にして顧客に提供するためには、膨大な手間と資金が必要になる。当時はインターネットもまだ生まれていない。タイミングが早すぎて、全く売れなかった。約10億円の赤字を作った。

 昼間はパソコンソフトの卸業務と金策に奔走し、夜は価格情報のサービス構築に忙殺された。「このままでは早晩行き詰まる」。そう考えた孫はある企業家を訪ねて助けを乞うた。

企業家の魂は売らない!

 関西地区で活躍する企業家、若くしてベンチャーの雄と言われた人物である。日本ソフトバンクの窮状を黙って聞いていた企業家が口を開いた。「助けてあげましょう。日本ソフトバンクの株式を当社で買い取りましょう」と静かな口調で言って、じっと孫の目を見た。その目は孫の覚悟の程を探っているかのようだった。

 孫は一瞬考えたあと、キッと目を見開き、はっきりと答えた。「お断りします。企業家の魂を売るわけには行きません。失礼しました」と即座に席を立った。孫の目から悔し涙がこぼれた。

「いつか見ておれ、お前を凌ぐ会社を創って見せる」。孫は涙をこぶしでぬぐいながら、心に誓った。

 アイデアで作った赤字はアイデアで解消するしかない。孫の頭に一つのアイデアがひらめいた。

 ー 今、一番カネを持っている企業はどこか。それはNTTをはじめとした電話会社だ。その電話会社が一番欲しがっているものは何か。自社にお客を引き込むアダプターではないか。これを開発したら、10億円なんかすぐに稼げる。

 1985年4月1日、通信自由化が実施され、日本電信電話(NTT)以外に民間会社も電話などの通信事業を手掛けることが可能となった。そこで生まれたのが第二電電(現KDDI)や日本テレコム、日本高速通信(現KDDI)などである。

 利用者はどこの通信事業者を使うかは自由。その代わり、例えば第二電電を使う時は頭に4ケタの数字を回した後、相手の電話番号を回さなければならなかった。

 もし、電話機に特殊な装置を付けていて、利用者が相手の電話番号を回しただけで、自動的に最も安い通信会社の回線を使って通話が出来るようになれば、便利だ。

 当時、東京・大阪間は3分間420円の料金が掛かっており、通信事業者は従来より30%安い料金で競っていた。しかし、余計にダイアルを回したり、料金表を見て一番安い回線を探すなど、煩雑な作業が必要だ。

 通信会社は自社の回線を使ってもらおうと、特殊装置を欲しがるに違いない。その特殊装置、アダプターを孫が考案したのだ。

孫と大久保が共同開発したアダプター

盟友大久保秀夫とアダプター開発

 利用者(企業)も通信会社もアダプターを欲しがるに違いない。ただ、この新事業を成功させるためには、日本の270万企業のうち約40%に当たる100万社に一気に配る必要がある。それには開発費を含めて約33億円の費用がかかる。ソフトバンクには借金はあってもカネはない。誰かカネを出してくれる男はいないか。大手企業では意思決定までに時間がかかる。即断即決できるベンチャー企業家がいい。孫の頭に1人のベンチャー企業家の顔が浮かんだ。

 新日本工販(現フォーバル)社長の大久保秀夫。孫より2歳年上の男で、電話機などを販売している威勢のいいベンチャー企業家だ。早速、孫は大久保に電話を掛けた。

 「もしもし、大久保さんですか。今晩空いていますか。めしでも食べませんか。面白いビジネスがあります」。 「空いていない訳ではないが・・・」と大久保は答えて、少しの間思案した。

 ー2、3カ月前に会った男か。約束の時間に40分ほど遅れて来て、謝りもせずいきなり「私と組みましょう。儲けさせてあげますよ」と大言壮語した男だなぁ。生意気な男だったが、妙にオーラを発していた。ちょうど、時間が空いている。会ってみるか。

 大久保は受話器を握り直して愛想良く返事した。「僕も孫さんに会いたいと思っていました。今晩会いましょう」

 時間を調整した結果、午後11時に会うことになった。孫は大久保に会うや否や、食事もそこそこにアダプターの計画を説明した。勘のいい大久保は即座に「やりましょう!」と答えて、その後、孫の言葉を聞いて絶句した。事業資金が33億円要るというのだ。しかも全額を新日本工販にコミットメント(保証)してくれという。 当時、新日本工販は年商約50億円、利益が5億円のベンチャー企業。もし、アダプター事業が思惑通りに進まなかったら一巻の終わり。大久保の企業家人生は終止符を打つ。

 翌日、大久保は取締役たちにアダプター計画を話したが、全員が大反対。

「社長、そんな冒険は絶対に止めて下さい。会社をつぶす気ですか!」。特に、大久保よりも年長の常務が強硬に反対した。社内はちゃぶ台をひっくり返したような騒ぎになった。

役員たちを「監禁」して説得

 大久保はもう一度冷静に事業計画を反芻してみた。東京・大阪間の電話代は3分間420円かかる。ある証券会社は年間30億円の電話代を払う。アダプターをつけるとその約30%、9億円が節約できる。アダプターを使わないはずがない。アダプターを日本全国の企業に無料で配り、後で電話会社から、電話代の5ー10%を頂けば、開発費の33億円は1年で取り戻せる。

 「誰が何と言おうと、断固やる!」と大久保は決心した。東京・新宿の京王プラザホテルに2日間、全役員を「監禁」して懸命に説得した。大半の役員は賛成してくれたが、年長の常務だけは「あなたと心中するのは御免だ」と会社を去って行った。

 いろんな障害を乗り越えて、1年半後孫と大久保はアダプター「NCCBOX」の生産にこぎつけた。

 最初、孫と大久保は第二電電に売り込んだ。親会社の京都の京セラ本社に乗り込み、稲盛和夫らにアダプターの説明をした。稲盛はすぐに50万個の買取を約束した。ただ、条件が一つあった。アダプターは第二電電の独占とし、他の新電電には売らないで欲しいというものであった。

日本テレコムと契約

 しかし、それでは孫たちの儲けは少なくなってしまう。条件について、やりとりしているうちに第二電電との交渉は中断した形になった。1カ月後、孫たちが開発したアダプターとほぼ同じものが京セラ・第二電電から売り出された。

 京セラの開発担当の取締役から電話が掛かった。

「孫ちゃん、ありがとう」

「あちゃー」ー。

 孫は稲盛のしたたかさに脱帽した。

 孫と大久保は日本高速通信や日本テレコムなどのトップにも直談判した。日本テレコム社長の馬渡一真は「素晴らしいものを作りましたね。一つお願いがある。新電電3社の料金が同じ場合には当社の回線に繋がるようにしてもらえますか」と要請した。「もちろんそうさせて頂きます」。こうして日本テレコムとの契約が成立した。

セゾンの堤清二が応援

 ただ100万個のアダプターをどのような方法で配るか。2人は大きな壁にぶち当たったが、救世主が現れた。セゾングループ総帥の堤清二がグループをあげて応援することを約束してくれた。都内のホテルにグループ各社の全役員を集め、そこに新電電の社長や銀行の頭取らに出席してもらい、堤が一席ぶった。

「社会においてこんなに大事なことはない。セゾングループはこの若い2人の志に共感して、グループを挙げて応援しますので、皆さんもよろしくお願いします」。

 孫と大久保は賭けに勝った。1年間で40億円強のコミッションが入り、開発費33億円を差し引いて10億円強の儲けとなった。2人で山分けして、危機を脱出した。その後、数年間に渡ってコミッションを得て、フォーバルは88年11月、ソフトバンクは94年7月、それぞれ店頭市場に株式公開を果たした。

 100万個のアダプターを開発、製造し、全国の企業に配り終えて2人で祝杯を上げた時、孫は大久保にこう語った。

「大久保さん、今は新電電のインフラ会社を応援して日本国民のために一番料金の安い会社を選ぶアダプター設置に僕ら悪戦苦闘してますよね。でもね、必ず将来、僕自身が胴元となる。ソフトバンクがインフラを持つようになるから、見てて!」

 孫の予言通り、20年後の2006年3月、ソフトバンクはボーダフォンを2兆円で買収して通信インフラを手中に収めた。

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