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【ベンチャー三国志】Vol.6

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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北尾吉孝の獅子奮迅

北尾吉孝の獅子奮迅

(企業家倶楽部2011年4月号掲載)

執筆陣徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、藤田大輔、土橋克寿

一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶ。ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の“蒼き狼”たちの命懸けの戦いを追う。

2人の出会い

「へーえ、そんなことが出来るの!」

 孫正義は驚きとも感嘆ともつかぬ声を発した。

「出来ます。ちゃんと法律に書いてあります。法律に従ってやれば、実現可能です」

 その男は自信たっぷりにそう答えた。

 その男が居たことで、ソフトバンクは店頭市場に株式公開した直後に、5000億円の資金を調達、破天荒なM&A(企業の合併・買収)を実行出来たのだ。

 その男の名は北尾吉孝・現SBIホールディングスCEO。当時はソフトバンク常務として同社の財務部門を一手に引き受けていた。

 北尾はソフトバンクの生え抜きではない。野村證券の部長から孫正義の三顧の礼をもって転身した男である。

 2人の出会いは1994年7月。ソフトバンクが店頭市場に株式公開する直前のことである。野村證券のソフトバンク担当部長として、孫の前に現われた。威風堂々たる体格。自信たっぷりの物言い。顧客の孫正義の前でもおもねる態度は見せない。真正面から孫正義を見据えている。互いの目線がからみ合い、一瞬火花が散った。

(若い社長だな)と思いながら、「北尾と申します。これから私が御社を担当させていただきます」と一礼した。野村證券というより、私に任せてもらえば、株式に関することや資金調達は万事遺漏なく、やってのけます、と言わんばかりの自信たっぷりの態度である。それが時には傲岸不遜に見え、野村社内には敵も多かったが、世界企業を目指す孫にはむしろ頼しく思えた。(出来る!) 孫は初対面から北尾が気に入った。

 事実、北尾は証券市場のこと、M&Aのこと、欧米の金融事情も驚くほど詳しく、孫の質問に手際よく答えた。仕事も即断即決。孫の無理な注文も難なくこなして行く。初めは強面の男と思ったが、つき合って行くと、誠実な人柄であることもわかった。孫は北尾を同志としてソフトバンクに迎えたくなった。

1分だけ時間を下さい

 1年後のある日、商談を終えた北尾をエレベーターの前で呼び止めた。「北尾さん、ちょっと話があるので、1分間だけ時間をくれませんか」。そう言って孫の部屋に招じ入れた。

 孫はいきなり切り出した。「ソフトバンクに来てくれませんか。財務全般の責任者になってもらいたいのです」

 絶妙のタイミングだった。実は北尾は野村證券に対する愛着が薄れかけていたのである。

 北尾は慶応大学経済学部を優秀な成績で卒業、1974年に野村證券に入社した。入社後早々に英国ケンブリッジ大学経済学部に留学するなど、エリートコースを歩んで来た。

 ケンブリッジ大では貴重な体験をした。バカになり切ることを悟った。なにしろ、英語がチンプンカンプン。チューター(担任教授)が話す英語が当初、全く理解できない。こちらの英語も相手に通じない。

 「ヨシタカのリポートはそれなりの水準だが、スピーキングは幼稚園生並みだ」と笑われた。

 (ここはバカになり切るしかない)と開き直った。大賢は大愚に似たり、と言う諺を思い出した。
 
 78年にケンブリッジ大学を卒業したあと、海外投資顧問室に配属され、海外キャラバン隊員として、オイルダラーに潤う中東諸国に日本株を売り歩いた。そのあと、ニューヨークに5年間駐在、東海岸のほとんどの機関投資家を訪問した。当時、世界最大の投資機関、フィデリティとの間で800億円の商談をまとめ、大器の片鱗をのぞかせた。そのころ、のちに社長となる田淵義久とめぐり合い、「次の次の社長はお前だ。しっかり勉強しておけ」と酒の席で言い渡された。

 あるとき、ニューヨークの北尾のもとに田淵から1冊の本が送られた。開けてみると、鈴木その子のダイエット本で、「健康第一!」という田淵の添え書きがあった。北尾は田淵に目をかけられながら、出世街道をまっしぐらに走っていた。

 しかし、好事魔多し。91年、野村證券に不祥事が起こり、その責任を取って社長の田淵義久が辞任するに及んで、北尾の前に暗雲がたれ込めた。後を襲った酒巻英雄とソリが合わず、野村證券への愛社精神が急速になえていった。

 そこへ、孫の誘いである。北尾の心は大きく傾いた。「ありがたい話です。前向きに検討します。ただし、1週間時間を下さい」と言って、その場を辞した。

 北尾は持ち前の調査力を発揮して、IT産業の将来、ソフトバンクの成長力、経営課題などを徹底的に調べた。そして、1週間後、ソフトバンク入社を決意した。

 孫に返事する前夜、ある神社の前を通った。神仏に対して、あまり関心は無かったが、車を降りておみくじを引いてみた。大吉だった。翌日、北尾は孫に「御社にお世話になります」と返事した。


資金調達の妙手繰り出す

 北尾は入社すると同時に資金調達の妙手を繰り出した。財務代理人方式による社債発行もその一つ。冒頭に「へーえ、そんなことが出来るの!」と孫が驚嘆の声を発したのがこれである。

 それまでの慣例では銀行が社債発行業務を取り仕切っていた。従って、銀行の機嫌を損ねると、事業会社は社債も発行できない。当時、ソフトバンクには、パソコン関連出版会社、米ジフ・デイビス・パブリッシング社の買収案件が舞い込んでいた。しかし、日本興業銀行などの主要取引銀行は1400億円に及ぶ巨額のM&A案件に慎重で、買収のゴーサインを出さなかった。

 当時のソフトバンクの売り上げは600億円から700億円、その倍以上の大型買収は銀行から見れば危険極まりない。慎重になるのは当たり前であった。

 銀行が慎重になっている間に米国の投資会社、フォーストマンリトル社が1450億円でジフ・デイビス社を買収、ソフトバンクは1年後にフォーストマンリトル社から650億円を上乗せした金額、2100億円で買収する羽目になったことは前回に書いた通りである。

「銀行を説得するのは時間がかかりすぎる」と孫は切歯扼腕した。そこで北尾が提案したのが財務代理人方式による社債発行である。

 社債発行に至る過程をもう少し詳しく説明しよう。ソフトバンクはジフ・デイビスの買収に乗り出す前に米国のコンピューター見本市会社、コムデックスを買収するとき、銀行団から530億円を融資してもらった。

 ところが、この融資には財務制限条項というものが付いており、「融資残が280億円以上ある場合は、80億円以上の買収を行う時は融資団の了解をとること」という一項が入っており、事実上、買収が不可能になっていた。

 そこで、北尾は協調融資団を回って、何とか制限条項を緩和してくれないかと、要請した。しかし、答えは「ノー」。そこで、530億円を全額返済して、自由の身になることを決意した。そのためには500億円の社債を発行する必要があるが、これまでの慣例では銀行が社債管理会社になっていた。これまた、銀行の了解が要る。そこで考え付いたのが財務代理人方式だ。
 
 93年の商法改正で、ある一定の条件を満たせば、社債管理会社の代わりに財務代理人を置くだけで、社債を発行出来るようになっていた。銀行の世話にならなくていいのだ。しかも、500億円の社債発行では社債管理会社に2億7000万円の管理費を払わなければならないのに、財務代理人なら1200万円で済むのだ。銀行は暴利をむさぼっていた。

 野村信託銀行が財務代理人を引き受けてくれることになった。大蔵省も了解した。
 
 95年9月、孫の了解を取って、北尾は敢然と新方式による500億円の社債発行に踏み切った。店頭市場に株式公開したての企業が500億円の社債を発行するのも前代未聞であった。

北やんを500%信じる

 案の定、主要取引銀行の首脳陣は激怒した。「店頭企業の分際で我々を無視して社債を発行するのは許せない」と。しかし、孫と北尾はひるまなかった。それどころか、銀行団の神経を逆なでするかのように、同社の取引銀行を同社への貢献度に応じてランク付けし、マスコミの話題をさらった。

 北尾と銀行団の仲は険悪そのものだった。中には「北尾を切れ」と孫に圧力をかける大手銀行もあった。北尾は孫に「もし、この社債発行が不首尾に終わったら、遠慮なく私の首を切って、銀行に差し出してください」と申し出た。

 孫はこう答えた。「俺は500%北やん(北尾のこと)を信じているよ」北尾はこの時ほど感激したことはなかった。
 
 95年当時のソフトバンクの株価は1株3万円、時価総額は1兆円に達した。北尾は1697億円の増資も敢行、約3年間で合計4878億円を市場から調達した。孫はこの資金でコンピューター見本市運営会社のコムデックス(800億円で買収)のほか、ジフ・デイビス社などを買収、米ヤフーへの出資(100億円)など大型M&Aを実現して行った。

「北尾さんなかりせば、ソフトバンクの急成長はなかったのではないか」と現在、ソフトバンクの社外取締役を務めるファーストリテイリング会長兼社長の柳井正も北尾の手腕を高く評価する。

 なにしろ、孫正義の食欲(M&Aの意欲)はおう盛だ。北尾がソフトバンクに入社する時、相談を受けたセブン&アイ創業者の伊藤雅俊は「孫さんは『食欲』がおう盛なので、それだけが心配だ」と北尾に不安をもらした。

 伊藤の言葉の通り、孫は資金の手当てがついていなくても、M&A交渉を進めた。コムデックスを買収する時もそうだった。コムデックスの本社のあるボストンを訪れ、同社の雇われ社長、ジェイソン・チャドノフスキーに会った時である。

「ところで、ミスター孫、コムデックスを買収するには800億円必要だが、資金はあるのか」と問うた。

 孫がほほえみながら答える。「今はない。しかし、内諾をもらえたら、日本に帰って何とかする。だから売って欲しい」。チャドノフスキーは東洋から来た小柄なベンチャー企業家の途方もない度胸の良さと“食欲”に度肝を抜かれた。

 孫が米国で『買い物』をするたびに、北尾は日本で資金調達に奔走した。まるで、孫と北尾は牛若丸と弁慶のような関係であった。

金融部門立ち上げ

 北尾の活躍は資金調達だけにとどまらなかった。ソフトバンクの金融部門参入にも大きく貢献した。ソフトバンクの事業領域であるインターネットは金融部門と極めて親和性が高い。金融は情報のやり取りだけで事が済み、情報漏洩さえ注意すれば、全ての業務がネット上で処理できる。

 もし、完璧なネットの金融システムを作ることに成功すれば、店舗も営業マンも要らず、手数料などのサービス料金も格段に引き下げることが出来る。(もしかすると、金融革命を起こせるかもしれない)  北尾はインターネットの世界に触れて、そう直感した。
 
 時あたかも日本は金融ビッグバンを迎えていた。日本政府は1996年11月、日本版金融ビッグバンを敢行、株式の売買委託手数料の完全自由化に踏み切った。米国に遅れること20年、英国に遅れること10年であったが、金融界は新しいステージを迎えた。

 早速、証券会社のネット化に着手した。証券業務はお手のもの。ネットで口座を作り、ネットで株式を売買し、ネットで決済すれば、店舗も営業マンも要らず、手数料は格段に引き下げられる。顧客がネット証券の利便性さえ理解すれば、ほとんどの株式取引はネットで行われるはずだ、と北尾は思った。

 既にネット先進国のアメリカでは、ネット証券が多数出現しており、日本でも松井証券が日本初のネット証券をスタートさせていた。北尾はアメリカのイー・トレードと提携して、合弁会社イー・トレード証券を日本に設立した。1999年のことである。

 これと併行して、ベンチャーキャピタル事業にも着手。インターネットの普及に伴ってネット関連のベンチャー企業が相次いで誕生、これらの企業に投資をすれば、将来大きなキャピタルゲインが得られる。そう見越して、ソフトバンクインベストメントを99年に設立した。

 さらに、金融サービス会社、モーニングスターを設立、ソフトバンク・ファイナインスを持株会社としてわずか3年の間に44社の金融関連企業グループを創り上げた。北尾自慢の企業生態系構想の実現で、「全体は個の総和を上回る」という考えだ。

 たとえば、証券部門では、イー・トレードという持株会社を作り、その下にイー・トレード証券、ドリームサポート(広告代理業)、イー・コモディティ(商品先物取引)を置いた。イー・トレード証券は赤字を気にせず、思い切った手数料引き下げを実施、シェアを拡大する一方、イー・トレードは他の傘下企業の頑張りで黒字経営を維持した。

 当初、ネット証券では先発の松井証券がリードしていた。イー・トレード証券は口座数も伸びず、4番手に甘んじていた。シェアを拡大するには手数料を他社より引き下げる以外にない。

ネット証券でトップに立つ
 
 01年、1注文代金50万円の手数料を当時の2000円台から思い切って800円台に引き下げた。簡単には顧客は増えなかったが、2年半の苦しい時期を乗り越え、04年には待望のシェアトップに躍り出た。1部門の赤字を全体で補いシェアトップを奪う企業生態系構想が功を奏した。

 SBI証券(2007年10月、イー・トレード証券と合併)社長の井土太良は当時の模様を次のように振り返る。

 「手数料を下げたので、当初は経営も厳しい状況が続いた。それでも北尾は2年半もの間、見守ってくれた。それがなければ、今のSBI証券はない」という。
 
 10年12月末の口座数は216万口座、株式委託売買代金では、05年3月期の第3四半期以降、野村證券を上回り、日本証券業界のトップを維持している。

 ソフトバンクの金融部門はSBIホールディングスとして2000年12月15日に株式上場(ナスダック・ジャパンに。2002年東証1部へ)し、ネットの総合金融会社として表舞台に華々しくデビューした。05年8月末には連結子会社は38社、持分法適用関連会社5社となり、時価総額は4271億円に達した。

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