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【ベンチャー三国志】Vol.7

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

SBIホールディングス独立

(企業家倶楽部2011年6月号掲載)

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿

一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶ。

ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。

時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。

大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の“蒼き狼”たちの命懸けの戦いを追う。

ナスダック・ジャパンですきま風
 相思相愛の仲だった孫正義と北尾吉孝が別々の道を歩むことになったのは2005年7月のことだった。ソフトバンクの金融部門であるソフトバンク・インベストメントがSBIホールディングスに社名を変更するとともに増資し、ソフトバンクグループから独立したのだ。 
 2人の間にすきま風が吹き始めたのは、いつ頃からだったのだろうか。最初のすきま風は孫が米国の証券市場、ナスダックを日本に誘致、ナスダック・ジャパン設立構想を打ち上げた時である。1999年初頭の頃だ。 
ナスダック・ジャパン構想はこんな会話から始まった。

 「われわれはナスダックをぜひアジアで展開したい、と考えている。候補地は香港もしくは日本。日本は閉鎖的で難しそうだが、ミスター孫、あなたはどう思うか」

 「おっしゃる通り。日本の株式市場システムは未だ旧態依然としている。しかし、不可能ではありません。日本で成功するただ一つの方法があります」

 「どんな方法ですか」

 「それは私と組むことです」 
 1999年2月、ソフトバンクの社長室では3人の男が秘かにこんな会話を交わした。3人はナスダックの運営母体である全米証券業協会(NASD)副社長のジョン・ヒリー、国際担当のジョン・オール、そして孫正義。 
 孫は自らの創業、株式上場の経験に照らし、日本に米国のナスダックのような市場があれば、ベンチャー企業は創業間もなく上場し、市場から資金を調達して急成長出来る。ソフトバンクは創業から上場まで13年かかったが、「ナスダックのような市場があれば、創業5年で上場出来る」と思っていた。 
 そこへ、米国のナスダック関係者が日本進出の構想を持って来日した。孫はすばやく動いた。ナスダックと提携してナスダック・ジャパン設立を決断した。当時日本ではインターネットブームが巻き起こり、ネットベンチャーが続々と生まれていた。ソフトバンクはバブル経済の破錠で倒産した日本債券信用銀行をオリックスなどと買収、あおぞら銀行に社名変更、経営していた。 
 ソフトバンク・インベストメントのベンチャーキャピタルがITベンチャーに投資、少し育った所で、あおぞら銀行が融資し、最後にナスダック・ジャパンに上場させる。孫が唱えるインターネット財閥構想が完成するという訳だ。 
 孫の雄大な構想に対し、北尾は慎重姿勢を見せた。 
 「孫さん、市場を一つ創るということは並大抵のことではないですよ。ここは慎重に行きましょう」と、はやる孫を制した。 
 北尾には、既存勢力の抵抗が生半可のものでないことが予想出来た。いきなりナスダック・ジャパン構想を打ち上げたら、証券会社、東京証券取引所、大蔵省などの反発が予想される。ここは慎重な根回しが必要だ。証券業界で修羅場をくぐって来た北尾が慎重姿勢を見せるのは当然のことと言えた。 
 しかし、孫がこうと決めて走り出したら、もう止めようがない。数カ月も経たないうちに、ナスダック・ジャパン構想を新聞発表、NASD、ソフトバンクの2社によるナスダック・ジャパン・プランニング(企画会社)を設立した。電光石火の早技というか、孫のスピード経営がいかんなく発揮された。 
 こうなると、北尾もついて行くしかない。99年7月には、ITベンチャー向けのVCを設立、123億円の投資資金を用意した。ベンチャー業界も浮かれたように動き出した。99年10月12日、東京の赤坂プリンスホテル五色の間で約2300名のベンチャー企業家(ナスダック・ジャパン・クラブ会員)を集めて新しいVCの説明会が開かれた。 
 会場は熱気に包まれている。孫が登壇しナスダック・ジャパンとITベンチャー向けのVCを説明する。

 「皆さん、これから日本に本格的なITベンチャーブームが訪れます。そのため、ソフトバンクは新しいVCとナスダック・ジャパンというベンチャーのための市場をつくります。米国と同じように年間数百社のベンチャー企業が新規上場する時代が来るでしょう!」と快気炎を上げた。 
 2000年頃のナスダックは年間500社近くのベンチャー企業が新規上場するなど、活況を呈していた。その中には、まだ営業もせず、ビジネスモデルだけで上場する企業もあった。ナスダック・ジャパンが誕生すれば、米国のような市場環境が出現し、創業5年程度で年商100億円に達するスーパーベンチャーの登場も期待された。 
 ナスダック・ジャパンは若干の紆余曲折はあったものの、2000年6月19日にスタートした。初代CEOには元日本IBM副社長の佐伯達之が就任、華々しいデビューであった。 
 しかし、直後にネットバブルが弾けて、ナスダック・ジャパンは推進力を失った。後楯となるはずのソフトバンクの時価総額はピーク時の20兆円から2800億円に急降下、経営の屋台骨が揺らいだ。 
 取引所を大阪証券取引所と提携した関係で大阪に置いたことも不利に働いた。東京のベンチャー企業がいちいち大阪まで出向かなければならず、上場意欲をそいだ。社長の佐伯も敏腕経営者として鳴らしたが、証券業はずぶの素人、古い体質の業界で腕を振るうことがままならなかった。 
 幾つかの不運が重なって、まず、本家の米国NASDが日本からの撤退を表明した。ソフトバンクも本業に専念しなければならず、2002年8月撤退を余儀なくされた。あとは大証が経営を引き継ぎ、「ナスダック」から「ヘラクレス」と改名して新興市場を細々と維持した。 
 北尾が当初懸念した通りの事態になった。 
 「孫さんの暴走を本気で止めておけば良かった」と悔やんだが、あとの祭りだった。

ADSL事業進出で決別 
 2人の決別を決定的にしたのは、ソフトバンクのADSL(非対称デジタル加入者線)事業である。2001年8月、ソフトバンクはADSL事業に進出、インターネットの高速大容量(ブロードバンド)化に取り組むことになった。 
 それまでのインターネット回線は、電話回線を利用するもので、ユーザーはダイアルアップして、まず回線を繋ぎ、それからやおら文字情報や静止画像を送っていた。静止画像1枚送るのに数10分もかかる有様で、しかも料金は従量制。現在のように定額課金制度ではなかった。 
 孫正義は米国の高速ネットワークを目の当たりにして、NTTに高速ネットワークをめぐらすように再三要請したが、馬耳東風、NTTは一向に動かなかった。NTTにも事情があった。電話回線より少しだけ高速化したISDN事業を進めていた。その事業費の回収が済まないうちに、ADSL事業を始める訳には行かない、という事情である。NTT幹部には、日本を世界一のIT先進国にしようという志も命感もなかった。

 「そんな悠長なことをしていては日本は米国や韓国などに後れを取ってしまう」。孫はNTTの国家的戦略のなさに、切歯扼腕した。

 「NTTがやらないのなら、俺がやる」―孫は危険な賭けに出た。自ら通信回線のインフラ提供者になることを決心した。つまりADSL事業への進出である。 
 そして、どうせやるならと、これまでのADSL事業者の半額の値段で勝負に出た。月額2280円でインターネットのブロードバンドを提供、一挙に500万ユーザーを獲得する作戦に出た。 
 それまでも先進的ベンチャー、例えば千本倖夫率るイーアクセス、石田宏樹のフリービットなどがADSL事業に進出、少しずつユーザーを増やしていた。そこへ、ソフトバンクが従来の半額でなぐり込みをかけた。その日のうちに、ADSLの新価格が決まり、先発企業はソフトバンクの価格に合わせざるを得なくなった。それは赤字経営を意味し、凄絶な生き残り競争に巻き込まれて行った。 
 もちろんソフトバンクも無傷ではいられない。01、02、03、04年度と4年間に渡って合計2600億円の経常損失を計上した。それは正に乗るか反るかの大勝負であった。 
 このADSL事業進出に北尾吉孝は真っ向うから反対した。

 「孫さん、1年だけの赤字経営なら投資家、金融機関は許してくれるかもしれないが、4年間の赤字経営は許されません。しかも、2600億円の赤字は無茶です」 
 北尾は体を張って大反対したが、孫の決意は揺がない。

 「日本を世界一のブロードバンド先進国にするのはソフトバンクの使命だ。誰れが何と言おうと、この事業はやり遂げなければならない」。それでソフトバンクがつぶれようとも構わない、というほどの固い決意を示した。 
 孫の大勝負が功を奏して、ADSLのユーザーは当初計画どおり400から450万人を獲得した。NTTもISDN事業を早々に引き揚げ、ADSL事業に乗り出した。日本は世界一早いブロードバンド、世界一安いブロードバンドを獲得、世界一のネット先進国に躍り出た。 
 お陰でヤフー、楽天などのネットサービス会社はユーザーが急増、急成長した。ソフトバンクの十字軍的な献身のお陰でネットサービスが花開いた。ヤフー社長の井上雅博、楽天社長の三木谷浩史は孫の大勝負の恩恵に沿した。 
 逆に、被害を受けたのはNTT、イーアクセス、フリービットなどだが、もう1人いた。それが北尾であった。北尾はソフトバンクグループの金融部門、ソフトバンク・インベストメントのCEOを務めていた。 
 北尾は「親会社が赤字では資金調達がままならない」と訴えた。自由に資金調達し、自由に事業展開するにはソフトバンクから離脱する必要がある。元々北尾は一番志向が強い。ナンバーツーに収まる性格ではなかった。 
 実際、ソフトバンクの資金繰りは厳しくなってきた。そこへ、04年2月27日、ヤフーBBの利用者450万人の個人情報が漏洩するという不祥事が発生した。犯人はソフトバンク子会社の元社員で、ソフトバンクの情報管理の甘さが指弾された。まかり間違えば、ソフトバンクの信用を大きく損いかねない。
 ソフトバンクは利用者の情報管理やサービスを強化するため、コールセンター(利用者サービスセンター)を拡充しなければならなかった。そこへ、ある外資系投資銀行からベルシステム24との提携話が舞い込んできた。ベルシステム24がソフトバンクのコールセンターを運営するBBコールを500億円で買収する代わりに、向こう5年コールセンター業務をソフトバンクから受注するというもの。 
 ベルシステム24はこのスキームを実行するために、1038億円の第三者割り当て増資をNPIホールディングス(日興プリンシパル・インベストメンツの100%子会社)に対して実施、当時ベルシステム24の株式39・87%を保有していたCSKの経営支配から逃れた。 
 ソフトバンクはコールセンター売却などにより1280億円の資金を得、ベルシステム24は大型増資によって、CSKから独立した。このスキームをソフトバンク側に立って遂行したのが富士銀行副頭取から2000年6月にソフトバンクに入社した笠井和彦(現ソフトバンク取締役)である。 
 笠井は1280億円を調達したことで、ソフトバンクの危機を救った。孫の笠井に寄せる信頼は急速に高まった。笠井は銀行家らしくソフトな人柄。孫の主張を柔かく受け止める。片や北尾は証券業界で育ち、少々野武士的な側面があり、孫との衝突も辞さない。こうして、孫と北尾の関係は疎遠になって行った。

2500億円の手切れ金 
 2005年6月、北尾は孫に独立を申し出た。孫は独立の理由を黙って聞いた。ベンチャー企業にとっては、社員の独立や離反はつきものである。ソフトバンクも創業期、社員が集団で辞めたり、孫の立場が危うくなったことがある。 
 最も大きな事件は野村證券出身の大森康彦を社長から会長に棚上げして、孫が闘病生活を終えて、社長に復帰した時である。86年2月のことである。 
 大森は83年、肝臓病で入退院を繰り返す孫に代わって、社長に就任、3年ほど経営の指揮を執った。その結果、大森の権力が強くなり、孫は大森にやめてもらうのにひと苦労した。手切れ金を10億円近く払ったとも言われる。 
 それに比べると、北尾の独立は一応、筋が通っている。しかも、退職金は一円ももらわない代わりに、独立の見返りに2500億円をソフトバンクに払うという。孫にとっても悪い話ではない。 
 北尾の話を黙って聞いていた孫はおもむろに口を開いた。

 「しゃあないな。しかし、北やん、一つだけお願いがある。月に1度、一緒に食事をしよう」

 「お安い御用ですよ」 
 こうして北尾の独立は認められた。同年7月、ソフトバンク・インベストメントはSBIホールディングスに社名変更するとともに、増資を行い、ソフトバンクから独立した。 
 ソフトバンクは翌年の06年8月、SBIホールディングスの全株式を売却、約1340億円を受け取った。このほか、1200億円分のファンドや株式をSBIに売却、計約2500億円を入手した。 
 ソフトバンクにとっては、金融部門を手放すことは大きな痛手であったが、その代わりボーダフォン買収(06年3月)で一番資金を必要としたときに、約2500億円という大金を手にした。 
 ベンチャー企業にとって、ナンバーツーの独立は、お家騒動に発展する可能性があるが、孫の度量の大きさと北尾の正攻法による説得のお陰で無事、独立を果たした。

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