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【編集長インタビュー】クリーク・アンド・リバー社代表取締役社長井川幸広

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

日本のプロフェッショナルを世界中で大活躍させたい

(企業家倶楽部2011年6月号掲載)

5万人のクリエイターと3000社の取引先という幅広いネットワークで、テレビ、映画、広告、出版、インターネットサイト、ゲームなどのコンテンツ制作支援を世界中で展開するクリーク・アンド・リバー社。井川幸広社長は「中国での電子書籍市場参入を皮切りに、日本の優れたコンテンツを世界中に届けたい」と壮大な夢を語った。(聞き手は本誌編集長 徳永卓三)

 
地震直後もイベントを開催

 問 3月11日の東日本大震災は戦後最大の地震でした。井川さんはその時どちらにいらっしゃったのですか。

 井川 私は病院で定期健診が終わり、近くの飲食店で食事をしていました。東京・代々木の蕎麦屋さんだったのですが、すぐに外に出て、安全を確保しました。ただ蕎麦の代金を払ってなかったので、また戻って支払いを済ませたんです。

 問 お金を払いに行くところが井川さんの人柄を表しているように思います。クリーク・アンド・リバー社(C&R社)は震災の被害や影響はありましたか。

 井川 グループ会社のメディカル・プリンシプル社では、仙台支社でひび割れなどの影響がありましたが、従業員は幸い無事でした。ある従業員の実家が津波などで全部流されたケースもありますが、人命を取り留めたようで、安心しました。

 問 C&R社は地震から3日後の3月14日、東京の飯田橋で「中国コンテンツビジネス・カンファレンス」を開催しています。その日は、電車が計画停電などで動かなくなったり、交通機関が混乱するなど、大変な状況でしたが、C&R社は大型イベントを滞りなく開催しましたね。その行動と決断に驚きました。

 井川 我々は絶対にイベントを開催しようと決めました。日本中のイベントが次々と中止になるなど国内全体に自粛ムードが起こりましたが、我々は講演者の方たちがこの状況下で中国などから駆けつけてくれましたので、ぜひやろうと思ったのです。
  
中国に進出

 問 そのイベントでは、電子書籍リーダーで中国ナンバーワンのメーカー「漢王科技」も参加しましたね。

 井川 漢王科技は、中国の電子書籍リーダー市場で70%以上の圧倒的なシェアを持つベンチャー企業です。同社の劉迎建董事長と初めてお会いしたのは、2010年の6月ごろです。同年3月に、我々は中国の上海に創河(上海)商務信息咨詢有限公司を設立し、書籍や雑誌のライセンス仲介を行なう出版エージェンシー事業を推進してきました。以前より日本のクリエイターが世界中で活躍できる土壌を整えたいと構想していたので、その大きな一歩として契約しようと思ったのです。話はすぐにまとまって、同年7月に漢王科技と日本のコンテンツの総合窓口として独占契約を締結しました。

 問 劉迎建董事長とは誰を通じて出会ったのですか。

 井川 ソフトブレーン創業者の宋文洲さんを通じてです。実は以前宋さんの秘書だった方が、漢王科技の経営企画にいたのです。またベンチャーキャピタルのご協力もあり、この2つのネットワークを通じて出会いました。実は契約に至るまでは、劉迎建董事長と2回しかお会いしていません。最初の1時間半、そして2回目の2時間のプレゼンテーションで独占契約が決まりました。

 問 漢王科技と提携した理由は何だったのでしょうか。

 井川 漢王科技は、中国の携帯電話の75%で採用されている手書き認識技術や電子書籍端末などを創りだしたメーカーで、技術力も高く、シェアも圧倒的でした。その上で電子書籍というコンテンツも取り揃えていたのです。日本のコンテンツは中国でも人気が高い。出版の世界では、村上春樹さんの小説「1Q84」が中国でベストセラーになっています。中国の電子書籍で日本のコンテンツを売りだせばヒットする。両社がそう考え、「ぜひ一緒にやりましょう」という話になりました。 
 中国の電子書籍では、漢王科技のシェアが70%と圧倒的で、課金の仕組みやセキュリティも万全です。中国の10億人市場に安心して参入できるとなれば、日本の出版業界にとっては大きなチャンスです。我々と漢王科技を通じて、日本の出版社にある素晴らしい書籍を中国で販売していきたいと考えています。
 
映像ディレクターから企業家へ

 問 過去に遡って、井川さんの生い立ちからお伺いしたいと思います。井川さんは九州の佐賀県のご出身ですよね。

 井川 佐賀県で生まれ育ちました。九州電力で働いていた父親の仕事の都合で、たくさんの引っ越しや転校を経験しています。私は人見知りしないタイプですので、すぐに友達をつくることができて、楽しい日々を過ごしました。学生時代は、サッカーにのめり込みましたね。ポジションはセンターフォワードで、ゴールを決めるのがミッションです。私は足が速くて瞬発力があったので、点取り屋でした。その後、サッカー推薦で大学に入る道もあったのですが、当時は今のようなJリーグがありませんから、将来サッカー選手で食べていくのは難しいと思って、他の道を進もうと考えたのです。

 問 その道が映像の分野だったのですか。

 井川 そうなんです。ジャーナリズムやドキュメンタリーに興味がありましたから、佐賀から上京し、東京で予備校と専門学校の両方に通う日々が始まりました。上京後、友人が風邪でアルバイトを休むことになって、撮影の現場に私が代わりに行ったのです。その場所が松竹の大船撮影所でした。これが私の運命を決めたのです。映画の撮影所は、罵声が飛び交いながらも真剣にものづくりに取り組む人間臭い世界で、非常に刺激的でした。それから映像の世界にのめり込んでいきました。

 問 若くしてメディアの世界に携わっていたのですね。

 井川 その後は、毎日映画社の撮影部に契約社員として入社しました。当時は優秀な人たちが次々と独立していましたから、私も1年後には独立しようと考えていました。そのためには実績をつくらなくてはいけません。そこで誰よりも早く出社して、掃除や机拭きを続け、先輩たちに可愛がられながら、映像制作を学びました。その過程で数多くの映像を制作し、ついにフリーランスになったのです。

 問 独立後は順調でしたか。

 井川 最初は苦労しました。フリーになる前、先輩たちに相談すると、「よし、お前がフリーになったら、絶対に仕事を渡してやるからな」と言ってくれていたのですが、実際にフリーになると、まったく仕事が来ません(笑)。先輩たちに電話しても、「今はフリーの人に頼める仕事がないんだよね」と言われてしまったのです。ガテン系のアルバイトをして、何とかその時期をしのぎました。それでも映像の仕事を諦めずに、いくつも企画書を出し続けて、ようやくひとつの企画が採用された後は、今度はどんどん仕事が舞い込んできて、20代で年収が4000万円まで上がったのです。

 問 苦労した後に、見事に成功への道を手にしたのですね。

 井川 ただ当時は、テレビの仕事に限界を感じていました。フリーなので、自分がやりたい企画が実現できるとは限らないからです。私のまわりにいるクリエイターも満足な仕事ができなかったり、報酬面で苦労していました。非常に優れたクリエイターが多いのに、業界の構造などで彼らの才能が活かしきれていない。私はその環境をより良く改善して、クリエイターを助けたいと思ったのが、C&R社の創業のきっかけになりました。
  
人を救う仕事がしたい

 問 「クリーク・アンド・リバー社」という社名は非常にユニークですね。由来は何だったのでしょうか。

 井川 私が創業前、テレビのドキュメンタリー番組の制作でディレクターをしていた時のことです。ある取材で、飢えと貧困に苦しむアフリカの村落を訪れたとき、悲惨な現実に直面しました。飢えに苦しむ人たちを目の当たりにしたのです。50キロも離れていない地域には、整備された水路や作物が生い茂る土地があったのですが、貧困の村までは届いていませんでした。なぜなら豊かな地域が利権の対象となっていたからです。私は衝撃的な映像を撮れば撮るほど、テレビ・メディアの限界に行き当たりました。それまでは、メディアを通して世界中の惨状を伝えることで、結果的に村落の人たちを救えると信じていました。しかし、それはあまりにも間接的でした。ジャーナリズムは非常に大事な仕事ですが、苦しんでいる人がいたら、直接自分の手を差し伸べたい。そう思ったのです。 
 取材期間は2週間ほどで短い時間の滞在でしたが、帰り際に現地の子供たちが泣きながら抱きついてきました。そのときほど自分の無力さを痛感したことはありません。この子供たちを救うには、そこに川を造り、水路をつくり、作物を育てるノウハウを提供することが最も大切なことではないか。それがクリーク・アンド・リバー社という社名に込めた思いなのです。

 問 創業後、どのような事業を展開されたのでしょうか。

 井川 映画監督のエージェンシー事業から始めました。映画監督は知識レベルが高くても食べていけない人達が本当に多かった。当時の映画監督の平均年収は300万円程度でした。なぜそんなに低いのか。それはきちんとしたライセンス・フィーが入ってこないからです。映画監督は個人事業主のケースが多いのですが、彼らを守る制度がありませんでした。アメリカでは、クリエイター・ユニオンがあり、最低のギャランティーの保障はあるのですが、日本の場合はまったくありません。だから民間の労働組合的な要素を映画監督の世界で作りたいと思ったのです。
 
クリエイターの活躍の場を増やしていく

 問 C&R社は「クリエイターの支援を通じて、人と社会の豊かさを創生すること」を理念に掲げていますね。

 井川 才能豊かなクリエイターを発掘し、育て、支援し、活躍できる環境を構築することで、新たな価値を生み出していきたいと思っています。現在の業務内容は、主に3つあります。1つ目はクリエイターを派遣するエージェンシー事業です。そのなかで一番の柱となる部門はテレビ部門で、現在日本でオンエアされている代表的な番組のほとんどは、我々の契約するディレクターが作っています。 
 2つ目はプロデュース事業です。テレビ番組やゲームアプリ開発、ウェブの制作、PRを絡めたECサイト構築などの請負を手掛けています。例えば台湾では、総工費100億円の都市開発プロジェクトへ日本の建築士をプロデュースしています。 
 3つ目は、クリエイターの保有する著作権などの権利を資産に変えるライツマネジメント事業です。漢王科技と提携した中国市場をはじめ、アジア圏で積極的にコンテンツの管理・流通を進めていきたいと考えています。日本や韓国では実績を積んでおりますので、今後はシンガポールや台湾へも展開していきたいです。

 問 メディアの世界は、書籍や雑誌、テレビなどの既存メディアだけではなく、インターネットも大きな存在になってきました。井川さんは今後のメディアをどのように見ていますか。

 井川 メディアがどのように変化しようとも、クリエイターの重要性は変わりません。コンテンツを作り出すのは、機械ではなく、人間だからです。そこに我々がどれだけ関われるかが勝負です。我々はクリエイターが生み出した権利を活用し、世界中で仕事ができるインフラを作っていきたいと考えています。すべてのコンテンツ制作にC&R社のフィルターが入ることで、コンテンツやクリエイターが潤っていく。それが我々の理想です。
 
あらゆる業界のプロを支援する

 問 グループ会社のメディカル・プリンシプル社は、医師の就職紹介や開業支援を手掛けていますね。

 井川 高い志を持った医師を紹介する人材採用支援や経営コンサルティングサービスを提供しています。日本の医療業界は今、大きな変革の時期にあります。医師が不足していたり、地域の医療が弱体化することで、日本の医療を支える医師や看護師も多忙を極めているのです。そこでメディカル・プリンシプル社は、医療機関などに優秀な人材を紹介し、病院経営を支援することで、より良い医療サービスを享受できる社会の実現を目指しています。

 問 C&R社は今後、どのような企業を目指していますか。

 井川 我々が目指すのは、あらゆる知的所有権を持ったエージェンシーの集合体です。主力の映像・ウェブ・出版・広告・ゲームなどのクリエイターをはじめ、ITエンジニア、医師、弁護士、会計士、科学技術者、一級建築士など、あらゆる知的所有者が集まったエージェンシー事業を業界別・業種別に形成したいと考えています。我々は創業以来、クリエイターという「人」の能力を最大化して社会へと貢献するビジネスモデルを構築し、成長してきました。これからは、プロフェッショナルの領域をさらに拡大し、彼らの持つ知的財産を世界中で最大化する環境作りを担っていきたいと思います。

■ p r o f i l e

井川幸広(いかわ・ゆきひろ)

1960 年1 月2日生まれ。佐賀県出身。高校卒業後に上京。学生時代、大船撮影所の見学をきっかけに映画の世界へ。毎日映画社撮影部に契約社員として1年勤め独立、フリーランスとなる。文化映画やテレビのドキュメンタリー番組などの演出、ディレクターとして活動。企業マーケティングのコンサルティングを経て、90年、クリエイター・エージェンシーであるクリーク・アンド・リバー社を設立。映像分野のクリエイターを対象にしたエージェンシー事業を皮切りに、デジタル、ゲーム、広告・出版分野へと事業を拡大している。2000年6月ナスダック・ジャパン(現・JASDAQ)に第1号銘柄として上場。現在、韓国、中国でのエージェンシー事業も展開している。

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