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【ベンチャー三国志】Vol.9

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

衛星放送で熾烈な空中戦 ルパード・マードックも登場

衛星放送で熾烈な空中戦 ルパード・マードックも登場

テレビ事業に乗り出した頃の増田宗昭CCC社長


(企業家倶楽部2011年10月号掲載)

 【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿

 一国は一人(いちにん)を以って興り、一人を以って亡ぶ。ひとりの英傑の出現によって、企業は生まれ、産業が興り、国が栄える。時は今、第三次産業革命といわれる情報革命を迎えた。大義とロマンを掲げて、世界を疾駆する現代の“蒼き狼”たちの命懸けの戦いを追う。

 これはテレビ業界に革命を起こす 
 1995年から96年にかけて、ITベンチャー企業家の動きは活発だった。孫正義は94年7月に株式公開してからは水を得た魚のように生き生きと動き回った。米ジフ・デイビス社を2100億円で買収したあと、ヤフージャパンを立ち上げた。孫が次ぎのターゲットに選んだのはテレビだった。衛星デジタル放送である。内外の企業家を巻き込んで、凄まじい空中戦を展開した。

 孫が衛星放送に遭遇したのは、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)社長の増田宗昭と昼食を伴にした時である。 
 95年5月のある日のこと。増田が孫に提携話を持ち出した。「孫さん、米国で面白いビジネスがありますよ」「どんなビジネスですか」「衛星デジタル放送です。空から200チャンネルものテレビ放送を流すんです。これはテレビ業界に革命をもたらしますよ」

 新規ビジネスは大体、孫が他社に提案、提携話をまとめるのが普通だったが、今回は孫が増田の提案に乗ることになった。勘のいい孫は即座に「面白い。一緒にやりましょう」と答えた。

 増田が衛星放送に出会ったのは、それより3カ月前の2月。提携先の米国企業の重役の別荘で初めて米ヒューズ社系列のテレビ会社、ディレクTVの番組を見た。

 増田はしばしテレビ画面に釘付けとなった。初め目に飛び込んで来たのは、メジャーリーグの試合風景。緑の芝生に白球が弾丸のように飛ぶ。大画面上で走者と捕手のクロスプレーが映しだされ、思わず見とれる。

 重役がリモートコントローラーのスウィチを押すと、画面は映画「アポロ13号の帰還」の緊迫のシーンに切り替わる。トム・ハンクスの迫真の演技を楽しんだあとは、CNNのニュース放送にチャンネルを移す。そして次は音楽番組。ラップから60年代のオールディーズまで30チャンネルもある。どれを聴くかは視聴者のお好み次第だ。(これはテレビ業界に革命を起こす)と増田は思わず心の中で叫んだ。さっそく、ディレクTVインターナショナル社長のケビン・マグラスと連絡を取り、日本での衛星放送実現に向けての交渉を始めた。

 しかし、実際に衛星を飛ばして200チャンネルの番組を流すとなると、事業費だけでも500億円を要する。いかにCCCが伸び盛りのベンチャー企業とはいえ、単独でヒューズ社と組むのは無理。そこで、日本側のパートナーの1人として孫に声を掛けたのである。

 増田はジーンズの似合う数少ないベンチャー企業家の1人だ。大阪府枚方の生まれで、英国ヴァージングループの創業者、リチャード・ブランソンに似た冒険野郎で、“ 浪速のブランソン”というニックネームを頂戴したこともある。

 高校時代は体を鍛えるためレスリングに熱中し、同志社大学に進んでからはフォークソングに興じ、一時はプロの歌手を目指したこともあった。卒業近くになってファッションに興味を持ち、デザイナーを夢見て父親に怒られながら服装学院に通った。

 既存の価値観にとらわれず、自由に生きるボヘミアンの風情があり、既成の秩序に反抗する革命児の顔を持つ。それでいて、母を語る時の増田は妙に少年のような素直さがあり、机の横の壁に神棚をかざる昔気質の側面も垣間見せる。そのアンバランスさがこの企業家の魅力の一つになっている。

 世界一の企画会社をめざす

 デザイナーを夢見たこともあって、大学卒業後はファッション専門店の鈴屋に入社した。10年間サラリーマン生活を続け、店舗開発、マーケティング部門などを経験した。83年、「蔦屋書店」を創業、ビデオレンタルチェーンの展開に乗り出した。「コンセプトの増田」と言われる増田はとにかく、企画を考えるのが好きだ。朝から晩まで企画のことを考えている。「いいか、ビデオレンタルという商売はだな。単なる貸しビデオ屋とは違うで。金融業なんだ」と白板にマジックペンを走らせながら、大阪弁でまくしたてる。その奇想天外なプレゼンテーションに顧客(フランチャイズ加盟店)も社員も度肝を抜かれる。

 増田は83 年の創業の時から、「俺は世界一の企画会社を目指す」と社員にうそぶいていた。企画会社を創るためには、多くの情報を処理しなければならない。それにはコンピューターが必要と考え、NECから1億円で大型コンピューターを買い込んだ。資本金100万円、従業員7名、創業1年目の時だった。

 増田は持ち前のプレゼン力で地方の中小企業の経営者を魅了し、次々に加盟店に加え、ディレクTVを設立する1995年9月の時点で、880店、会員数900万人という日本一のビデオ・CDレンタルチェーンを築き上げた。

 大阪城を見下す高層ビルの一室に大型コンピューターを据え、全国880店、900万人が何時、どの店で、どんなビデオやCDを借りたかを、リアルタイムで処理した。この膨大な情報を基に毎月新しく発売されるビデオ600本、CD2000種類の中から、ヒットする1割を抽出、各店舗に代わって本部が発注した。

 出店計画もコンピューターを駆使した。膨大なデータに基づいて、出店予定地の人口メッシュ、競合店マップ図、10分商圏マップ図を作り、徹底したエリアマーケティングを実施した。当時は当たるところ、敵なしの状態だった。

 店づくりにも増田流がいかんなく発揮されている。例えば、CCCの発祥の地である大阪の東香里店は増田が提唱するマルチパッケージストアのモデル店。店内はゆったりとした空間を設け、来客の心を和ませる。床は人気のフローリング、磨き抜かれた床を子供たちが走り回る。インターネットカフェでは親子連れがインターネットを楽しむ。遊び心があり、ファッショナブルで、それまでのビデオレンタル店のイメージを一変させた。

 新しいビデオ・CDレンタルビジネスを創り上げた増田だが、いつまでもビデオレンタルビジネスが続くとは思っていなかった。「必ず、次のビジネスによって取って変わられる」と思っていた。聡明な経営者であるなら、危機意識を持つのは当然のことであった。

 インターネットがビデオレンタルチェーンの敵になるかも知れない。今(1995年当時)はナローバンドで、静止画像1枚送るのにも約10分もかかるが、ブロードバンドの時代になれば、静止画どころか動画さえも瞬時に送れるようになる。ビデオレンタル店の主力商品である映画もブロードバンドで送れる時代が近い将来、来るかも知れないのである。

 インターネットに詳しい増田はうすうす感じていた。そこへ、米国で衛星放送を見た。「これだ!衛星放送を導入すれば、自分好みの番組がつくれ、テレビ業界に革命を起こす」と。衛星放送とビデオレンタルチェーンを組み合わせれば、強力な同盟関係を築くことが出来る。増田はそう読んで孫正義に話を持ち掛けた。

 孫と増田はただちに具体的な提携条件の話し合いに入った。「日本に設立するディレクTVジャパンの出資比率はヒューズ社、CCC、ソフトバンクがそれぞれ3分の1ずつ出資するのはどうですか」と孫が切り出した。イコールパートナーを主張したのである。

「うーん。ヒューズが何と言うかな」と増田は生返事した。この話は自分が持って来た案件、孫がイコールパートナーを主張するのは筋違いとの思いがある。

 増田がイコールパートナーに難色を示したことで、次回の交渉では孫が譲歩した。「出資比率は33%を下回ってもいい。その代わり、必要資金の半分をソフトバンクで持ちましょう」と孫は大幅に要求を引き下げた。

 ある時、2人はマグラスに会いに出掛けたことがある。この時、2人の間に決定的な溝が出来た。孫はカリフォルニア大学バークレー校に留学したこともあって英語が得意。増田を差し置いてマグラスに話し掛ける。

 おそらく孫は「ヒューズ社は33%出資を渋っているようだが、なぜですか」と問いただしていたのだろうが、英語があまり得意でない増田にしてみれば、孫とダグラスがなにやら秘密の交渉をしているように見える。「やはり孫さんを連れて来るべきではなかった」と増田は悔やんだ。

 結局、増田はソフトバンクと組むことをやめ、9月中旬、ヒューズ社、CCC、宇宙通信、大日本印刷、松下電器産業(現パナソニック)の5社による合弁会社、ディレクTVジャパンを設立した。

 今度は孫が置いてけぼりを喰った。増田から数ヶ月間、音沙汰がないと思っていたら、いきなりディレクTVジャパンの設立計画が新聞発表された。裏切られた思いが強かった。「向こうがその気なら、遠慮はしない」と次の行動に出た。世界のメディア王、ニューズ・コーポレーション総帥のルパード・マードックとの提携である。

 翌年の96年6月11日、孫は来日中のマードックを東京・銀座の料亭、吉兆に招ねいた。マードックとは96年2月に買収したジフ・デイビス・パブリッシング社長、エリック・ヒッポーの紹介で4月、ZDTVのスタジオで初対面した。吉兆での懇談は2回目の対面となる。

 席上、孫がマードックの来日の目的について尋ねる。大手商社と組んで日本で衛星デジタル放送を計画しているとの情報をつかんでいたからである。

「明日、関係者を集めて、衛星放送“JスカイB”構想を発表する」とメディア王は孫におもむろに伝えた。

「ちょっと待ってください」。孫の目が輝きはじめる。

「JスカイBはソフトバンクと共同でやりませんか」と切り出し、増田との交渉の際に温めていた衛星デジタル放送計画をマードックに披露した。

 衛星放送にはどのくらいの資金が必要か。どういう戦略で臨むかなど衛星放送に必要なポイントを的確に指摘して行った。今度はマードックが料理を口に運ぶのも忘れて、東洋の若きベンチャー企業家の弁舌に聴き入る。そして、孫は最後にとどめを刺す。

「マードックさん、僕はメディアの世界は素人です。しかし、衛星放送に賭ける揺るぎない情熱では誰にも負けません。貴方もゼロからスタートして、これまでの地位を築かれたからお分かりでしょう。大切なのは何を持っているかではなく、何を成さんと欲しているか、という志ではないでしょうか」

 こういう場面での孫はまさに千両役者である。相手の心をわしづかみにする術を心得ている。

 数々の修羅場をくぐり抜けてきた(現在も英国の子会社の盗聴問題で最大の危機にあるが)老練な企業家が大きくうなずく。

「孫さんの志はよくわかった。しかし、相手のあること、1週間だけ時間をいただきたい。ついては明日のパーティーに出席してくれませんか」

「喜んで出席させていただきます」

 翌日、マードックから電話がかかった。「パーティーの1時間前に来てほしい」

 孫はもしかすると、断りのためかと心配しながら、パーティー会場に出向いた。マードックは孫を出迎えるや否や、こう切り出した。

「マサヨシ」とファーストネームで呼びかけた。「昨日の話は本気か。1晩考えた。ソフトバンクと一緒にやろうじゃないか。ところで、ジャパニーズコンテンツ(番組)でスペシャルアイデアがあると言っていたが、あれは何だ」

 テレ朝株を買収

 実はマードックと会う2週間前に、あるテレビ局の株式21・4%を売りたい、との話がコンサルタント会社を通じて孫のところに舞い込んでいた。衛星放送ではコンテンツが勝負の決め手となる。その場合、テレビ局の株式を取得することはコンテンツ確保の上で有力な切り札となる。しかし、マードックと会う時点では、社名がはっきりしなかったため、ただ、スペシャルアイデアとだけ、マードックには伝えていた。「直接、確かめていませんが、旺文社がテレビ朝日(全国朝日放送)の株式を手放したいらしい」と孫が答えた。「それは面白い。ぜひ、買収を実現してほしい」

 世に言う「テレビ朝日株の買収事件」である。このM&A(企業の合併買収)案件が表沙汰になると、新聞・テレビ業界は大騒ぎとなった。日頃、新聞・テレビは日本経済のグローバル化を叫んでいたが、いざ、自社のことになると、途端に閉鎖的になり、「土足で座敷に上がるのはけしからん」とわめき立てた。

 その後、楽天がTBS(東京放送)の株式19・0%を取得したり、ライブドアがフジテレビの親会社であるニッポン放送の株式49・8%(議決権ベース)を買収、フジテレビを飲み込みそうになるなど、IT業界が既存メディアを吸収合併する動きが見られた。ソフトバンクのテレビ朝日株式取得はそのハシリであった。

 孫はマードックがJスカイBで提携することを決めた翌週の月曜日、旺文社社長の赤尾文夫と会い、その日のうちにテレビ朝日株式21・4%を、保有する旺文社メディアから417億5000万円で買収することを決めた。

 こうして、日本のメディア業界を震撼させたテレビ朝日株式買収はあっさり決まった。同時に、孫―マードック連合のJスカイBが誕生することになった。

 孫とマードックが吉兆で懇談した6ヵ月後の96年12月17日、東京・虎ノ門のホテルオークラ平安の間で、JスカイBの設立発表会が行われた。資本金は200億円、ソフトバンクとニューズ・コーポレーションとの折半出資とし、会長にマードック、社長に孫正義が就任した。

 午後9時50分、記者発表は予定時間より5分遅れて始まった。平安の間には、内外報道陣、アナリスト、テレビ局、映像プロダクション、金融関係者ら約1500人が詰めかけ、熱気があふれている。

 まず、衛星デジタル放送のプロモーションビデオが会場中央にしつらえられた大型スクリーンに映し出された。そして、10時12分、きょうの主役であるルパード・マードックと孫正義がひな壇に現れた。両サイドに陣取った20台近くのテレビカメラが一斉に回り始める。

 司会者に促されてまず、JスカイB会長のマードックが挨拶する。「昨日、合弁会社を設立した。世界で最もきわ立ったパートナーシップを組み、この事業を間違いなく成功させる。私はこうして孫さんと同席できることを光栄に思う」と日本の若きパートナーを持ち上げる。

 次いで社長に就任した孫正義がマイクに向かう。「JスカイBによって日本のメディアの世界を大きく一歩前進させたい。これまで情報はテレビや新聞から消費者に一方的に流されてきたが、これからは双方向になり、人々は世界のあらゆる情報を自由に選択できる」と高らかにデジタル情報革命の到来を宣言した。

 ライバルのディレクTVは翌年の97年12月1日に本放送を開始した。これより先き、伊藤忠商事など商社連合がパーフェクTVを96年9月30日にサービスを開始していた。

 こうして97 年12月、ベンチャー企業家2人が率いるディレクTVとJスカイB、さらに先行している商社連合のパーフェクTVが激突することになった。恐らく1社しか生き残ることが出来ない熾烈な空中戦。関係者は固唾を呑んで見守った。

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