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【編集長インタビュー】キタムラ代表取締役社長兼COO 武川 泉

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

デジタル時代も写真は心の豊かさを生んでいく

(企業家倶楽部2009年6月号掲載)

「デジタル時代はデジタルのわかる人に任せよう」と北村正志会長が後継者に選んだのが武川泉社長。03年6月の社長就任から6 年が経ったが、会長は社長に「100点満点」と絶対の信頼を寄せる。一気呵成に邁進し続ける北村会長を補佐し、現場を切り盛りする武川社長に、入社時の思い出やデジタル時代のキタムラの未来像について聞いた。
(聞き手は本誌編集長 徳永卓三)

強烈な野心に打たれ入社を決意

問 武川さんが入社を決意したきっかけをお聞かせ下さい。武川 私が入社した1979年頃から、北村は「決して四国で終わらない。1000店作り、3000億円企業を目指す」と力強く話していました。その言葉が強烈で、当時本部長だった北村は生まれ持った野心と論理的思考力で、人々を自らの思いに巻き込んでいきました。

 そこには考え抜かれた論理があり、大ホラ吹きとも感じなかったのです。ただ、その野望を実現させるとなると、人材が必要です。当時のキタムラはまだ50店を展開する売上80億円の企業でしたが、リクルートに頼んで77年から79年まで毎年50名も採用していたのです。私もその中の一人で、北村の情熱に心を打たれ、リクルート採用3期生として入社しました。

問 入社直後は、どのような仕事をされたのですか。

武川 まず店頭に立ち、接客しました。それから3年後に高松支店の店長となったのです。当時は、一式15万円もするミノルタのオートフォーカスカメラ「アルファ7000」を約100個予約頂き、さらに予約をさばいても商品が足りないという状況でした。当然売上も順調に伸びていたため、非常に面白かったです。

 そんなある日、北村から富山への転属を頼まれました。私は北陸へ行ったこともなく、当時のキタムラも店舗は大阪までしかありません。しかし、これがキタムラの大きな賭けだったのです。100店舗突破も目前となり、新たな収益構造を模索していたのです。写真屋は現像する時の利益が大半を占めており、カメラやフィルムを販売してもあまり儲かりません。だからビジネスの基盤は、フィルムをいかに多く集めて、集中処理を行い、納品するかにありました。処理が多くてもコストはそれほど変わらないので、現像すればするほど利益が出る構造です。キタムラも現像処理を行うため、フィルムを抱える取引先やカメラ屋に毎日集配していました。そこで数十本フィルムを預かり、現像処理をして、カメラ屋に納品するのです。

 しかし「キタムラより、もっと安く作ります」というライバルの現像所が現れれば、取引先を変えられてしまいます。このような競争が始まると、処理が安定しません。そこで、必ず集配できる直営店を作ることにより、安定した収益体制を築こうとしました。

 そして、新たな地域に店舗拡大を始めたのです。当時、配達地域が大阪までしかなく、北陸では中2日ぐらいかかるため、翌日仕上げが無理な状況でした。しかし、運送スピードを上げれば今度は1本当たりのコストが高くなります。そこで、「カメラのキタムラ」は一店で利益を出せる構造を新たに作ろうとしました。そのスタートが富山や金沢の新店で、富山には私が先陣を切って配属されました。ライバルである町の写真店は30〜40坪の規模が多いので、我々は100〜150坪の店舗を作り積極的にシェアを取っていきました。ここでのお客様の支持を引き金に、キタムラは全国へ拡大していったのです。

問 富山で思い出深かったことは何ですか。

武川 北村に「大阪の本部に毎週来て、いい話をしてくれ」と言われたため、店長をやりながら、大阪―富山間を往復しました。毎週月曜日の朝4時半に起きて、特急列車に乗り込み、9時までに大阪へ行くのです。雪の日は、長靴を富山駅に置いておき、それから革靴に履き替えて電車に乗りました。 

 そんな事をしていると、「今度は本部でバイヤーしてくれ」という話になり、今日に至っています。具体的な業務は、バイヤーというよりマーチャンダイザーで、今でも手掛けています。ライバルに対して、どういう企画やイベントをもって売り勝つかということを日々考えました。

変化に対応し追い風とする

問 写真店が店内で現像、焼付けを行う自家処理の時代に入った頃、キタムラはどう対応したのですか。

武川 自家処理を可能にしたラボは利益率を劇的に変えたため、ラボを導入することが世の中の写真店の主流になりました。それまでは、どの店もカメラやフィルムも販売していましたが、現像処理が儲かるので皆カメラを売らなくなったのです。「写真はOO時に仕上がります」と伝え、預かったフィルムを機械で処理して、店頭で渡せばいいのです。良い場所に作れば儲かる商売でした。

 ところが、キタムラはすぐに導入しませんでした。店内処理をする体制や人件費が上がるという諸問題を試行錯誤していたのです。しかし必要な投資だと感じ、94年に導入しました。ただ、自家処理すると決めた後が大変でした。今まで一店舗当たり3〜4名で回せていましたが、今後は処理を店内で持つため、アルバイトなどを倍増する必要があり、マネジメントが大変でした。しかし、それを克服した後は、収益率も上がり競争力も付きました。98年には、自家処理に必要なフォーマットも出来上がったため、勢いに乗って一気に走りだしました。リクルート採用を100名から200名まで増やし、99年から2001年まで毎年100店ずつ出店しました。

 無事、3年間で300店立ち上げた時はこれで順風満帆だと思いましたが、それも束の間でした。98年頃から登場したデジタルカメラが一気に普及し始め、フィルムカメラが売れなくなったのです。

問 実感として顕著に表れたのは、いつ頃ですか。

武川 01年頃からです。出店などに毎年何十億円も投資していましたが、フィルムが売れなくなり、一番の稼ぎ頭だった写真の現像が影を潜めました。ここから、新たな戦いが始まったのです。「デジタル化は間違いない。それならば、この流れに徹底的に乗ろうじゃないか」という北村の大号令のもと、デジタルカメラ100万台販売という新たな目標に向かって、邁進し始めました。

写真を通じてイメージ・コミュニケーションの文化を変える

問 03年6月、社長に就任して6年間が経ちました。

武川 一言でいうと、すっきりしないジレンマの6年間でした。答えが見えないのです。私の使命は、デジタル時代の写真店の収益構造を新たに作ることです。しかし、デジタルというのは投資ばかり必要で儲けが出ません。デジタル化してから、誰が写真ビジネスで成功したのだろうかと考えた時、今の所ほぼ見当たりません。

 写真ビジネスは、今までの稼ぎ頭がなくなったので、これからどう転身するかが一番難しい問題です。我々も試行錯誤して、どんどん深堀りしなければなりません。ただ、やはり今後はフォトブックを中心とするアウトプットの文化を作らなければならないと思います。ですから店舗を増やし、生産体制を作ることが必要なのです。

問 誰もが未知の領域ですから、そこにいち早く新しいビジネスプランを作り上げた人が勝利者になるような気がします。

武川 その可能性にかけた、この2年間が勝負になります。ようやく、デジタル時代のイメージングビジネスとしてのインフラは整えました。人には、誰しも大切な思い出があり、その思い出をリアルとして残す写真は、心の豊かさを持つという意味で絶対に必要です。だから、我々が今ここでビジネスを諦めると、世の中の思い出作りを大きく損なうことになります。「バーチャルとしてパソコンやテレビで見る」だけで本当にいいのだろうかと考えてしまいます。

 時には、1枚の写真が支えとなるのです。例えば、阪神大震災でも「たくさんの思い出、写真が焼けてしまった」と悲しまれた方々が非常に多かった。これは写真が家族の輪を作る、非常に大事なコミュニケーションの道具であるからでしょう。そこで、我々は何としても、存亡をかけて新しい価値を創造しなければなりません。これから新しい写真の楽しみ方や思い出の残し方を提案することで、写真を通じたコミュニケーションをもっとワクワクするものに変えていきます。

P r o f i l e
武川 泉(たけかわ いずみ)
1956年6月24日、岡山県生まれ。79年、京都産業大学経済学部卒業。同年、キタムラに入社。99年 6月、取締役に。2001年に商品部長、02年に営業部長を歴任後、03年に社長就任。

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