MAGAZINE マガジン

【編集長インタビュー】ライフネット生命保険 代表取締役社長 出口治明

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

若い世代が安心して子供を産める社会に

若い世代が安心して子供を産める社会に

(企業家倶楽部2012年6月号掲載)

 

戦後の統制経済から自由経済への転換により、構造改革を余儀なくされた日本。その中で旧態依然とした保険業界を変革し、若者が安心して子供を産める社会を創造するため、ライフネット生命保険は誕生した。「安く、シンプルで、誰もが理解できる保険を提供したい」と語る出口治明社長は「100年後の世界一を目指す」と静かなる闘志を燃やす。 (聞き手は本誌編集長 徳永卓三)


1940年体制の終わりと95年法への抵抗

問 保険は身近なものでありながら、よく分からない部分も多いのが現状です。

出口 その原因は社会システムにあります。日本は敗戦で焼け野原になりましたので、統制経済によって産業資金を獲得することが重要でした。資本蓄積の早期達成が国の大きな政策だったのです。それは、野口悠紀雄先生の造語で「1940年体制」(以下40年体制)と言われています。

 その体制下で、金融業界は預金金利、為替、保険料に至るまで全て大蔵省(現財務省)によって内容と値段が決められました。各保険会社が全く同じ商品を売るので、極論を言えば国民は内容を理解していなくても良かったのです。

 戦後、資本を蓄積する上で、統制経済は正しい方法でした。高度成長で高い金利はつきますし、大蔵省の護送船団行政で保険会社は潰れませんので、市民は安心し、誰もが生命保険の約款を理解もせずに買いました。そうした状況が長く続いた結果、セールスマンの言う通りに買うのが社会常識となってしまったのです。

問 私たちの払う保険料は年間40兆円以上と聞きました。

出口 まさに、税収以上の額です。戦後、国としては資本の蓄積が急務でしたから、保険業界と40年体制は相性が良く、日本の生命保険は世界一になりました。もともと、40年体制は戦争を遂行するための仕組みです。それが戦争の時には役に立たず、戦後の経済復興に役立ちました。

 結局、国民は40年体制のままで保険料を支払ってきました。そのおかげで日本はどんどん経済成長を遂げたのです。1956年から90 年まで、GDPは平均7%成長しています。7%成長とは、約10年で所得が倍になる計算ですから、それが34年間続いた日本において所得は約8倍になったのです。40年体制下においては、黙って働けば所得が増え続けますから、幸運な時代だったと言えるでしょう。

 ところが、80年代に日本が一人当たりのGDPでアメリカを抜き去ると、アメリカは日本に自由化を要求してきました。日本は知らない間に、アメリカの主要産業であった繊維、鉄鋼、自動車の分野で飛躍的な発展を遂げてきたのです。戦後まもなくはアメリカも黙っていましたが、日本の経済発展を見て、統制経済から自由経済への転換を迫り、日本は80年代に為替の自由化を始めました。そして、保険業法もそれに歩調を合わせ、95年に改正されたのです。

問 95年法とはどういった内容ですか。

出口 統制経済から離れ、値段、商品、サービス内容の決定権を各保険会社に与えるものです。その代わり、経営責任は各社に問われることとなりました。

問 保険業界は大蔵省の思惑通りに進んだのでしょうか。

出口 世界の潮流から、日本は自由化するしかないと誰もが分かっていましたが、生命保険業界は保険業法改正後も40年体制にこだわり続けました。40年体制においては、商品が同じですから、セールスマンの数こそ力なのです。大手生保は構造改革を嫌がり、セールスマンの数で勝負する方がいいと考えました。

 商品やサービスの内容で勝負するということは、比較情報を作ることに他なりません。各保険会社の商品の中でどれがいいかを比べ、消費者が選べるような世界を作っていく必要があります。ところが、40年体制の下で巨大なセールスのネットワークを作っていた大手生保にとって、その強みを捨て去るのは至難だったのです。

 また、日本における保険セールスは基本1社専属です。例えば、日本生命のセールスは日本生命の商品しか売れません。このシステムは、比較され、商品内容で競争させられるのを嫌います。

 そこで、自由化に合わせ、大手生保は商品を複雑にしていきました。多くの特約を設けて複雑にすれば、簡単に比較できません。複雑にすれば当然保険料も上がりますから、一石二鳥です。「お客様のニーズが多様化しています」という大義名分もあるということで、商品の複雑化はますます進みました。

 普通の業界であれば、商品を複雑かつ高額にすればクレームが怖いので、売る人間のレベルを上げます。しかし、40年体制の下で育まれた業界の大原則は「数は力」ですから、セールスマンのレベルが上がりません。売る人が説明できないのですから、保険料の不払いが起こります。保険料の不払い問題は、業界が40年体制に固執した結果として必然的に起こった現象なのです。

 そもそも、分からないものを売るのは本来あるべき姿ではありません。保険会社は情報を徹底的に開示し、お客様が保険のことを理解しやすいよう心がけ、良い商品やサービスを作ることでお客様に選んでいただく。それが、95年法の目指すところです。

生命保険業界に一石を投じる

問 保険に対して、毎月払う掛け金が高いという不満を抱いている方は多いと思います。

出口 私たちのビジネスモデルは缶ビールと同じです。ビールを買うと、スーパーでは一缶約180円の商品が、居酒屋では銘柄と量が同じでも4?500円になります。無論、居酒屋では人件費、家賃、光熱水費が乗っているため、値段が倍になるのです。

 大手生保は、全国に巨大なセールス網を張り巡らせており、出張販売を行っています。従来の生命保険業界は、高くても仕方無かったのです。

 では、なぜ私たちは安い生命保険を売り出したのか。バブル崩壊後、経済がうまく行かなくなり、所得が下がっているからです。厚生労働省の統計によると、今の日本は10年前には世帯あたり600万円あった年間所得が549万円に減少しています。特に、現在の20?30代の一人あたりの年収は180万円以下です。そうした社会情勢に合わせれば、若年層に高い保険を売りつけるのはナンセンスだと分かります。若い世代は保険に入れず、赤ちゃんも産めないのです。そこで保険料を半分にし、20?30代に安心して赤ちゃんを産んでもらいたいというのが、この会社を興した動機です。

問 御社は純保険料(保険の原価)を公開したことで業界に衝撃を与えました。

出口 日本では他社から非難も受けましたが、グローバルに考えれば常識です。

 当社はインターネットを使って保険料を半分にしました。しかし、それならば保険金も半分だと勘違いされる方がおられます。お客様に納得していただくためには、純保険料と付加保険料から成る保険料の内訳を公開し、いかなる仕組みで保険料が半分になるかを説明しなければなりません。私たちが純保険料を公開したのは論理的な必然なのです。

一度は遺書を書くも再び生保業界へ

問 ライフネット生命保険の構想はいつ頃から考えられていましたか。

出口 2004年に遺書として『生命保険入門』という本を書いた時からです。その時はまだ日本生命の社員でした。

 私は、日本生命にいた頃はずっとMOF担(旧大蔵省担当)でした。日本が自由化の波にのまれる中で、金融制度改革を行って保険業法を改正しようと、業界で最初に言い出した人間なのです。法律を変えなければ、生命保険業界は世界の競争に遅れてしまうという危機感がありました。

 そして95年、ついに保険業法が改正されました。その当時は国際部長でしたので、海外に出て日本生命を大きい会社にしようと考えていました。しかし、社長が変わり、自由化も海外展開も止めて、セールスマンの数を重視する先祖帰りを始めたのです。そして55歳の時、不動産子会社に行くように言われました。言わば左遷です。もはや、保険会社に戻ることは無いと思いました。

 今までお話したような私の生命保険に関する考え方は、全て日本生命や生命保険業界の優れた大先輩に教えてもらったものです。しかし、私はもう生命保険業界に携わることは出来ない身となったと思いました。そこで、大先輩から教えてもらった保険のあるべき姿をどこかに残しておかなければ恩返しが出来ないと思い、遺書として『生命保険入門』を書いたのです。

 その時には、ライフネット生命保険のアイデアも全部頭の中に出来ていました。若い人に業界を改革してもらおうと思い、自分が知っている事を全て遺書に残したのです。当時は東大の総長室アドバイザーでしたので、第二の人生では大学改革を進めようと考えていた矢先、あすかアセットマネジメントの谷家さんと出会いました。そこで、自分が書いたことを実行に移すしかないと思ったのです。

目指すは100年後の世界一

問 現在の加入件数はどのくらいになりましたか。

出口 11万件を超えています。保有契約高もプルデンシャル生命保険と同じ、創業から4年弱というペースで1兆円に到達しました。プルデンシャルは優秀なセールスマンを使って高額な保険を売っていますが、当社は安い保険をネットで売っていますから、今後はプルデンシャル以上に伸びていくことが期待できます。40兆円あるマーケットうち約10%は取れると考えています。

 ただ、3年後や5年後にはあまり興味がありません。私が考えているのは、100年後の世界一だけです。ライフネットは言わば私の子供であり、親としては80年以上生きてほしいと思っています。キリがいいですので、100年と申し上げました。

 100年間というのはどういう時間か分析しますと、明治生命が日本で初めて保険会社を作ってから、日本生命が世界一になるまでにかかった時間です。つまり、そうした先例があるのですから、私たちに出来ないことは無いと考えています。100年後に世界一の生命保険会社になるという目標こそ、私たちに相応しい。

 変化の激しい世の中で、3年後や5年後のことを考えても仕方ありません。100年後世界一という目標があれば、あとは1年1年、しっかり経営していくのみです。

p r o f i l e 

出口治明 (でぐち・はるあき)

1948 年、三重県生まれ。京都大学法学部卒業。日本生命相互会社に入社し、企画部、財務企画部などを歩んだ後、MOF担(旧大蔵省担当)として金融制度改革に尽力し、保険業法の改正に携わった。その後、ロンドン現地法人社長、国際業務部長などを歴任し、退社。東京大学総長室アドバイザーを務める。2006年、ハーバード経営大学院を卒業した岩瀬大輔(現副社長)と共にネットライフ企画株式会社を設立。生命保険業免許を取得すると、ライフネット生命保険株式会社代表取締役社長に就任。

一覧を見る