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【ベンチャー三国志】Vol.12

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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ベンチャーの父 大川功

ベンチャーの父 大川功



(企業家倶楽部2012年4月号掲載)

大阪・船場で生まれ育った一代の快男児、大川功。コンピューターの黎明期にCSKを創業、セガ、ベルシステム24、アスキーなどを傘下に収め、情報企業王国を創り上げた。気前のよいカネ遣いから“ 平成の大旦那”と評された男は「日本のコンピューターはアメリカに負けてはいけない」との言葉を残して一陣の風のように去って行った。【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿


 日本の情報革命を語る際、忘れてはいけない人物がいる。大川功。1926年3月、大阪市浪速区に生まれた快男児はコンピューターサービス会社、CSKを創業、セガエンタープライゼスやベルシステム24、アスキーなどを傘下に収め、一大情報グループを創り上げた。1980年代から90年代にかけて、活躍した大川は日本の情報産業史に一閃の光芒を放った。

 大川を経営の師と仰ぐアスキー元社長の西和彦は2011年6月「ベンチャーの父大川功」を上梓した。同書の中で大川功が生き生きと描かれている。同書をひもときながら、大川功の足跡をたどってみよう。

 大川の創業は意外に遅く、しかも初めてつくった会社はタクシー会社だった。40歳の頃だった。それまではどんなことをしていたのか。大阪の船場の商家で生まれ育った大川は早稲田大学専門部工科を卒業後、しばらくの間、兄弟が経営する会計事務所を手伝った。ここで「経営者の言葉は日本語や英語じゃなくて数字や」という企業家にとって最も大切な計数管理を会得した。

 タクシー会社の経営を通して、大川は「会社の経営で一番大切なことは人の管理である」と悟った。いかに一人ひとりの運転手にしっかり仕事をしてもらうかがタクシー会社の業績を左右するのだ。この経験がコンピューターの人材派遣業であるCSKを経営する際大いに役立った。

 大川はある日、突然タクシー会社を売却し、親から相続した物も全部売り払い、500万円の創業資金でCSKを設立した。1968年10 月、大川功42歳の時である。

 CSKが事業を拡大するきっかけになったのは松下電気産業(現パナソニック)のコンピューターを保守する仕事を始めた時からである。昭和40年代の中頃、松下電産は大型コンピューターを導入、コンピューターを効率使用するため、2交代制で使うことになった。松下電産の労働組合は強く、社員の2交代制を受け入れない。そこで、外部の人材派遣会社に“深夜”の業務を委託することになった。その業務を大川が二つ返事で引き受けた。

 CSKにとっては、仕事を獲得した上、松下にコンピューターの知識を教えてもらえる。一石二鳥の仕事であった。大川は毎日のように松下に出入りし、パンチカードを自転車で運んでいた。当時、中央研究所の技術者だった水野博之(元副社長)は「元気で気さくなおじさんだった」と語る。

 松下電産の仕事を手がけたこともあって、大川は松下幸之助に興味を持ち、幸之助の本を読んだり、幸之助の経営を研究した。83年、大川が57歳の時、幸之助と対談する機会を得た。「あんたはおもろい人やな」と幸之助から言われて、大川は有頂天になった。

 偶然か意図したのかは今となってはわからないが、松下電産の中央研究所のコンピューターの保守業務を手がけたことで、信用を得た。「松下の研究所の仕事を請け負っている企業なら信用出来る」とCSKへ仕事の発注が殺到した。松下と出会ったことが大川のビジネス人生を大きく切り開いたことは間違いない。

 1980年9月店頭市場に株式公開した。創業から12年の快挙であった。急成長したソフトバンクも店頭市場への株式公開までには16年を要しているから、当時はスピード公開といえる。株価は1株2800円、一躍資産家となった。大川は株式公開の魅力を知り、有力ベンチャー企業を買収、株式公開させては公開益を手にして、CSKグループを拡大して行った。

 1984年4月にゲーム会社のセガを100億円で買収した。そして。わずか2年後の86年11月に店頭公開し、88年4月に東証2部、90年2月に東証1部に上場させた。セガには中山隼雄を社長に据え、セガは大きく羽ばたいて行った。

 転送電話サービスで一世を風靡したチェスコムを86年10月に手に入れた。87年9月、CSK社長室にいた園山征夫を社長として送り込み、社名もベルシステム24に変更、テレホンサービス全般を手がけた。94年12月に株式公開、97年6月に東証2部上場、9911月に東証1部に上場させた。

 少し横道に外れるとベルシステムは大川の死後、CSKの傘下から脱するため、約1000億円の増資を敢行、園山はCSKから独立を図った。しかし、その後、増資に応じた日興プリンシパルとの関係がうまく行かなくなり、ベルシステム社長を解任された。

 本筋に戻ろう。1997年11月24日夜、東京・赤坂の料理屋、伊真沁の2階で、大川はアスキー社長の西和彦と会った。西の顔からはいつもの快活な笑顔が消え、深刻な表情をしている。西は席に着くなりこう切り出した。「大川さんお願いです。アスキーを助けて下さい」

 大川と西は8年前から交流があり、西のパソコンに対する知識、見識を高く評価していた。CSKは大型コンピューター分野を得意にする情報サービス会社で、台頭してきたパソコンにはあ41・企業家倶楽部 2012年4月号まり詳しくなかった。そこで、パソコに詳しい西の話を聞くのは楽しみで、時々、西のレクチャーを聞いていた。

 その西がただならぬ表情で「助けて下さい」と懇願する。大川は新聞などの情報でアスキーの経営が思わしくないことは薄々知っていた。

 察しのいい大川はひと通り西から事情を聞いて、こう告げた。「しゃあないなあ」

 このひとことでアスキーへの約100億円の出資とアスキーのCSKグループ入りが決まった。12月24日、クリスマスイブの夜、大川の最終ゴーサインが出た。

 この時が大川功の絶頂期であった。ゲーム大手のセガと超優良企業ベルシステム24の2社を率い、今また情報出版会社のアスキーを傘下に収めた。特にマイクロソフトのビル・ゲイツとも親交のある西和彦をCSKグループに取り込んだことは大きかった。

 この頃ベンチャー企業の集まりであるニュービジネス協議会の会長にも就任した。副会長にはエイチ・アイ・エス社長の澤田秀雄、カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長の増田宗昭、ぴあ社長の矢内廣と3人の新進気鋭の企業家を従えた。押しも押されもせぬベンチャー企業の雄と言っても誰も異論を差しはさまなかった。

 気風(きっぷ)のいい点も大川人気を盛り上げた。松下電産からCSKに入社した村田允(元CSK副社長)は「平成の大旦那でしたね」と大川を評した。

 気が合うと、ポンと1億でも2億円でも寄付したりした。93年(平成5年)、高知県の県立美術館の開館に際し、大川は所蔵するシャガールのリトグラフ706点を貸し出したばかりか、全部高知県に寄贈した。当時の高知県知事、橋本大二郎と気が合ったのか、気前よく寄贈したのである。時価10数億円はしたであろう。
 
 98年12月、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)に「大川未来子供研究センター」をつくるため、約30億円を寄付したこともある。この時の寄付の手続きも大川らしい。

 ニューヨークからMITのあるボストンに向かう途中、空港の待ち合い室で東京の経理担当者に電話をかけ、「どっかの口座にお金があったやろう。明日、MITに27ミリオン、振り込むようにしてや」。夜中の電話でおこされた経理担当者はさぞ驚いただろう。

 契約書も合意書もなくて27ミリオンドルは振り込まれた。その夜、付き添いの西たちにこう言った。「お金も払ったし、もうええわ。終わりじゃ。証文なんてええから、みんなでご飯行こう。英語しゃべるのいややから、今日は内輪だけで和食にしよう。そうだカニを食いに行こう、カニ!」

 夜の遊びも派手だった。西をつかまえて女性との付き合い方も伝授した。「別れるときは金を渡してやらなきゃあかん。相手がもらうと期待している額の2倍くらいは渡さないかん。こんなにもらっていいんやろうかと思うくらい渡して、きれいに別れるんや。そうでもないと、あとでたたるで」

 苦い経験もある。2000年11月28日は、セガ社長の入交昭一郎の携帯電話が鳴った。入交は難しい顔で相手と話している。横にいた西は何か大川に異変が起きたのでは、と思った。

「西君、週刊誌の記事を出ないようにするには、どうしたらいいか知っている?」

「誰か何か週刊誌に載るようなことをしたんですか」

「大川さんの女性問題」

 大川には夫人のほかに大川の身の回りを世話する女性がいた。それが週刊誌に暴露されるというのだ。

 その年の夏、大川は食道ガンを患っていたが、免疫療法と放射線療法で13センチのガンが消えていた。静かに穏やかに回復へ向かおうとしていた矢先に記事が出た。身内の誰かがリークした。大川の体に大きなストレスを与えたと関係者は語る。

 CSK王国の崩壊は早かった。中核企業、セガの家庭用テレビゲーム機「ドリームキャスト(DC)」が不発に終わり、グループ全体の業績が悪化した。

 ソニーのゲーム機プレーステーション2に破れたのである。DCはDVD映画が見れなかった。西和彦はDC開発担当者にDVDチップ(1個3000円)を付けるように再三再四進言したが、開発担当者は「時間がない」とこれを拒否した。西は「エンジニアのエゴだ」と思った。

 このエゴを見破り、西の進言を強引に採用できる男は一人いた。セガ社長の入交昭一郎だ。しかし、入交は開発担当者に遠慮したのか、西案を採用しなかった。

 2001年1月31日、セガはハード部門からの撤退を発表した。大川は自分の財産850億円をセガに寄付、ドリームキャストで被った損失を補った。大川最後の大盤振舞である。

 2001年3月16日、大川は食道ガンが再発して亡くなった。享年74歳。湯川、宮野、西澤の“大川三兄弟” は号泣した。

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