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【編集長インタビュー】 大研医器 代表取締役 山田満

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

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社長の仕事は右肩上がりで成長させること

社長の仕事は右肩上がりで成長させること

(企業家倶楽部2013年4月号掲載)

「生涯現役!今でも仕事が楽しくて仕方ない」と大研医器の山田満会長。経営者の仕事は、利益を出し、企業を成長させること以外にないと断言する。「有言実行」が山田会長の信条だ。若い社員には経営者の視点で考える習慣をつけて欲しいとエールを送る。「医療機器メーカーとして良い製品を開発し、患者の身体への負担を軽くすることで社会貢献したい」と熱い思いを語った。(聞き手は本誌編集長 徳永健一)

医療技術の進化

問 大検医器は、研究開発型医療機器メーカーとして、手術室や病室など医療現場で困っていることを解決する製品を作っているそうですね。具体的にはどんな製品があるのでしょうか。

山田 現在は、麻酔関連事業に注力しています。手術後の痛みを軽減するために局所麻酔や鎮痛剤を微量、持続的に投与する加圧式医薬品注入器を開発し、販売しています。痛みを軽減し手術しやすくすることが麻酔の主たる目的ですが、最近では麻酔の医療行為が変わってきました。これまではガス麻酔でしたが、今は静脈に麻酔薬を注射します。ガス吸入麻酔は肺から吸引され血液を介し脳へ作用するので時間がかかります。静脈麻酔は点滴で行え、麻酔状態になるのが早いというメリットがあります。すると手術時間が短縮されます。結果的に患者の負担は軽くなります。ガス麻酔から静脈麻酔に代わったお陰で、覚醒といって目覚めも早くなりました。

 また、手術自体も進化しています。例えば、摘出手術でも開口部分をなるべく小さくして行う手術に変わってきました。これを低侵襲治療と言いますが、この低侵襲治療は、傷口が小さくて済むので、患者の身体への負担が軽くなるのと治癒が早いというメリットがあります。

 それと病院内での感染防止を目的とした製品が売れています。フィットフィックスという商品ですが、手術中の血液などの排液を吸引し、凝固剤で固めてしまうものです。容器ごと焼却できるので、排液からの感染を防ぐことができる便利な製品であることが評価され、市場の80%近くを占めています。

問 御社の製品がシェア80%を占めているのですね。驚くべき数字ですが、その強さの秘訣は何でしょうか。

山田 やはり地道に医療現場を回り製品を説明して回ったのと同時にユニークな商品、どこにもないような独自性を追求してきたことだと思います。人マネして同じような商品を作ってもどこも高く買ってくれないでしょう。どこにでもある商品は海外メーカーが作った製品の方が市場が大きいので安く作れるに決まっています。第一、人の真似は面白くない。誰も作らないような独創性のある製品を作った方が楽しいに違いないでしょう。

 しかし、最初はどの医師もわが社の製品を知りませんから、使い勝手も含めて現物を持っていき説明をして回りました。そこで、少し関心を持っていただけたら、医局の先生方に日程を決めていただいて、そこでプレゼンテーションをして、さらに勉強会を開く。そういう地道な努力をしてきました。

 病院では試しに使って頂かないと商品の良さが分からないので、試用品がたくさん必要になります。麻酔関連ひとつを取っても、患者さんが退院されるまでにはいくつも部屋を移動します。まずは手術室ですが、その後は集中治療室や一般病棟に行きます。その度に医師と看護婦さんは違います。だから一つの商品が様々な場所で使われるので、多くの人たちにも使い勝手の良さを知って頂かないといけません。採用が決定するまでに1年くらいかかることもあります。

問 人マネしない独創性と製品が導入されるまでの大変さが他社に対する参入障壁になっているのですね。

社会貢献になる仕事

問 2009年3月に東京証券取引所第二部に上場し、2010年10月に東証一部へ指定換えしましたね。株式上場の効果はどうでしょうか。

山田 おかげさまで株式上場により知名度が上がり、技術部門は東京大学を始め一流大学から応募があります。営業部門も関東の慶應や早稲田から、関西では関大、関学、同志社、立命館といった有名大学の学生が多く志望してくれるようになりました。景気が悪いと大企業は採用を控えるので、ベンチャーである当社にとって、採用は追い風が吹いています。それこそ千載一遇のチャンスです。

 求める資質としては、体育会系がいいですね。物事はやってみなければ分からない。やる前から理屈を並べても何も始まらないですよ。例えば、入社から1ヶ月しか経ってない営業が研修だけ受けて、今日から病院にいって来ますという。「どう行ったらいいですか、先生には何と言ったらいいですか?」と聞くから、「そんなこと自分で考えろ!どんどん当たって行け!」と放り出します。

 しかし、しばらくするとしっかりと契約を取ってきます。初めて仕事が取れたときの喜びは格別でしょう。2年目頃から、だんだん仕事は楽しいと思うように変わってきます。活気がありますよ。この会社が好きで仕方がないという社員ばかりになったら強いですね。私は仕事が好きでたまらないといつも話しています。

 管理職の人には会社を太らせて取りなさい、会社を儲けさせてから高い給料を取りなさいと話しています。

 それと、仕事をすることで社会貢献になると話しています。社是であまり難しいことを並べても仕方ない。つまり、入院して困っておられる患者さんがいるとします。医者が治療しますが、そのときに使用する医療機器があるでしょう。それを作るのが私たちの仕事ですから、医者と一緒に患者を治しているのと同じです。だから、優れた医療機器を開発して、それで一日も早く患者さんには社会復帰してもらいたい。そうすることで社会貢献につながっているのです。医療機器メーカーの役割は非常に分かりやすい。この仕事を誇りに思っています。

問 御社は開発・製造・営業が三位一体となっているのが特長だそうですね。

山田 事業間ののりしろの部分が一番大切ですね。しっかりと連携をとっていかなければいけない。開発と製造でいうと、製品をシンプルに設計するということが重要です。構造がシンプルだと製品が安定します。シンプルかつ求められている機能を入れなければなりません。製造工程では、量産設計をして、商品の品質を安定させなければなりません。いかに安く作るかも考慮しなければなりません。大阪府和泉市にある研究所兼自社工場で、製造を行っています。社員とは別にパートも200名ほどいます。

問 人事では新しい試みも始まっていると伺いました。

山田 今、私が大改革をしています。部長制を始めました。新しく若手4人を部長に登用し、この部長間で徹底的に連携を取りながら、開発・製造・営業、それに管理(財務)を入れ部長会でいろいろと決めていきます。3月決算ですから、4月からの新年度の販売やら費用予算をまとめて、取締役会に挙げてもらうようにしています。より現場に近い部長に経営者の視点で考える習慣を学んでもらおうと取り組んでいます。

 大手が業績不振で赤字になり苦しんでいるでしょう。私はトップダウンだけで、現場の声をしっかり吸い上げていないのではないかと思います。サラリーマン社長は、計画通り出来なかったら責任取って給料減額でいいですと言うが、そんなのは甘い。

 社長の仕事は右肩上がりで企業を成長させることしかありません。ただ口で言っているだけでは駄目で、ちゃんと実行に移す人でなければならない。しっかり利益を出すことです。無駄を省くことも利益につながります。経営とは利益です。それ以外にはありません。

少年時代から夢は社長になること

問 どんなことに夢中な少年だったのですか。

山田 少年時代は凧上げに夢中になっていました。凧をとにかく天高く上げることが好きで、200メートルくらい紐を伸ばして上げていました。それから模型飛行機やグライダーが好きで、空高く飛ばすことに憧れていました。上昇気流に乗ると自転車で追いかけても追いつかないくらい飛びましたね。それとトンボ捕りですね。なぜだか、飛ぶものばかり好きでした。

 小学3年生の頃、将来何になりたいというアンケートがあった。私だけ社長になりたいと書いた。他の子は陸軍大使や海軍大使と答えていましたよ。親戚に従業員4人くらい雇っている会社にアルバイトしにいったときに社長は格好いいなと思ったのでしょうね。

 そういえば中学校二年生くらいのときに、アメリカで流行っていた「バブルス」という風船ガムがあり、日本にもそれを輸入してきた法人がありました。私はそれを仕入れて難波で売っていました。あるとき担任の先生とばったり会ってしまったので、「先生も買ってくれ」と居直ってお願いし、買ってもらったことがありました。意識したことはなかったのですが、いろいろとアルバイトをしましたので、昔から商売に興味があったのかもしれません。

34歳で起業資金繰りに明け暮れる

問 NTT(当時は電電公社)に就職し、34歳のときに起業されたそうですね。これまでで一番苦労したことは何でしょうか。

山田 NTTでは資材部におり、医療機器は医師が業者を指定するため値引きをしないことを知っていました。医療機器なら定価販売でき儲かると思い、34歳のときに独立しました。それから少し食べられるようになったのが50歳のときですから、16年間は毎月資金繰りで苦しかったのを覚えています。税理士の先生からは「赤字解消には会社を畳むのが一番」と何度も忠告されましたよ。

 しかし、無い袖は振れないので止むを得ず融通手形を切るわけですが、銀行の担当者が手形を確認していきます。ちょうど融通手形のところで手が止まるとドキドキしましたよ。無事に確認が終わって安心しきって事務所に戻ると銀行から電話があって、「あの手形は駄目です」という。毎月月末になると嫌味を言われて、本当にしんどかった。あの頃は、融通手形を前の方に入れるか、真ん中がいいか、それとも後ろの方がいいか、そんなことばかり真剣に考えていましたね。(笑)

 少し商売もよくなってきたときに、自分でもええ格好しいですが、最後に一番借りにくいところで借りようと思いました。これで手形は最後にしようと思い、うちの息子が大学生の頃、家庭教師をしていた家の親父さんに頼みに行きました。息子から事業家でお金持ちと聞いていたのですが、いざそのときになったら手形を懐に忍ばせていたが、なかなか言い出せなかった。勇気を振り絞り手形の申し入れをすると、「翌日また来て下さい」と言われ、約束通り今度は一人で訪ねると200万円都合してくれた。何を言われようと覚悟していたが、案の定言われましたよ。「申し訳ないけどね、私はあなたに貸したのではない。息子さんにお世話になったので、息子さんに貸したのですよ」

 こんな無茶な借金はこれで終わりにしようと思ってしたのですが、この手形が本当に最後の手形となりました。

 その他に苦労したことは、大手商社からの資本参加を打診されたときです。私が55歳の頃です。売上げも約15億円くらいで経常利益も1億円ほどになり、従業員も20 名くらいに成長した頃です。当時は売上げの7割を大手の商品が占めていたので、断ったらどんな嫌がらせに合うか心配でした。しかし、会社を売る気は毛頭無かったので、資本参加の話はお断りしました。

問 その他に印象に残っている出来事は何かありますか。

山田 40年ほど前になりますが、よく出入りをしていた病院のドクターが「山田さん、こんなものがあるんだけど」といって一枚の図面を見せてくれた。それは何ですかと聞くと、手術用のクリーンルームだという。外科手術中の感染を防ぐために手術台の上をフィルターを通したきれいな空気で覆うようにする装置が必要だったが、日本にはまだそんな設備は無かった。この装置を作れば念願の大研医器オリジナル製品になると思い、引き受けました。前職のNTTの知り合いを通じて、日立を紹介してもらった。聞くと半導体製造用の装置で大きく重いものであったが、自分たちで病院まで担いで運びました。何度か試した結果、菌の発生は認められなかった。そこで、手術用に設計図を書くことにしました。仕様書も完成し、いよいよ納品しようとしたら、日立から待ったがかかった。大研医器には直接販売できないので、代理店を通してバックマージンを受け取って欲しいという。

 そこで、1年がかりのプロジェクトだったが、仕方ないと先生に報告しに行くと、私以上に激怒しましてね。

「日立が何だ!山田さんが作れ。大研医器ブランドで作れ!」と応援してくれました。このときの経験が医療機器メーカーを続けていく自信になったのです。

地鳴りが聞こえる

問 山田会長は好きな言葉や座右の銘はありますか。

山田 社長室の壁にも飾ってありますが、私は「有言実行」ということをよく社員にも話しています。

 勇気を持って言葉にせよ

 責任を持って行動せよ

 不可能を可能にせよ

 自分のために仕事せよ

 有言実行せよ

 その時必ず

 地鳴りが聞こえる

 それと、「地鳴りが聞こえるか」というのもよく言います。

 今では小冊子にして全社員が持っていますが、もともとはある銀行の融資担当者がきっかけでした。非常に前向きな考え方の持ち主で好感の持てる人物でした。銀行というと雨の日に傘を取り上げ、晴れの日に傘を貸すと言われているが、この人は違った。当社のどこがそんなに良いのか聞くと、「会長を見ていたら先が見える。この会社は面白いから将来必ず成功する。私はそう思うから、銀行に戻り積極的に融資活動している」と言う。私の中身をよく見てくれたのですね。

 これは地鳴りと一緒で、表には出ていないが、よく耳を澄ませば聞こえる。その地鳴りをこの男はアンテナでキャッチしてくれていた。本来は銀行マンはこうでなければいけません。まだ小さな会社を訪ね、そこの社長は何を考えているのかよく話を聞き、自分でその会社が伸びるか判断できなければならない。銀行マンはそういう目を養わないといけないと、その銀行発行の冊子にコラムを掲載したことがありました。これは銀行マンだけでなく、大研医器の社員も同じということで、現在は小冊子にしています。

 地鳴りが聞こえない人が意外と多い。苦境に立ったとき、それを乗り越えようとするプラス思考のエネルギーが、地鳴りとなって足元からふつふつと聞こえ出し、勇気を与えてくれる。

 地鳴りに耳を澄ます、それは未来を創造するということです。

p r o f i l e

山田 満(やまだ・みつる)

1932年(昭和7年)大阪府生まれ。45年、堺職工学校(現:堺工業高校)入学。51年、電電公社近畿電気通信局(現:NTT西日本)入社。68年、資本金100 万円で大研医器を設立し、医療機器の仕入れ販売を展開。72年、日本初の外科用クリーンルームを販売。81年、三菱レイヨンと防塵マットを共同開発・販売。90年、院内感染予防機器「フィットフィックス」開発・販売。12年、「第14回企業家賞」受賞。

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