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【ベンチャー三国志】Vol.17

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

躍り出る研究開発型ベンチャー、フリービット

躍り出る研究開発型ベンチャー、フリービット

(企業家倶楽部2013年1・2月合併号掲載)

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、土橋克寿、相澤英祐

危くソフトバンクADSL事業に押しつぶされそうになったフリービット。社長の石田宏樹の創業の理念と粘りで2年半後に窮地から脱した。石田を支えた創業の理念とは何だったのか。石田の描くインターネット社会とは何か。


ソニーに憧れて起業
 孫正義のADSL(非対称デジタル加入者線)事業進出で危く倒産しそうになったフリービットの石田宏樹は2年間の苦闘を経て、ようやく危機を脱した。2007年3月20日、株式をマザーズに上場、再びインターネット革命のホープとして復帰した。 
石田は慶応義塾大学総合政策学部を卒業、2000年5月にフリービットを創業した。学生時代はインターネットの父といわれる村井純に師事、インターネットの可能性に魅せられネットの革命児になろうと決心した。 
 石田が企業家をめざしたのは早い。高校時代、ソニーに憧れ、ソニー製品を愛好した。その後、いつの日かソニーに入社して幹部社員になることを夢見ていた。 
 ある時、ソニーのビデオカメラの新製品が近く発表されるという噂が出た時、販売店はそのニュースをきっぱり否定した。このため、石田は旧製品を買わされた。ところが旧製品を買った直後にソニーは新製品を大々的に発表した。「憧れのソニーがこんな裏切り行為をするのか」と石田は憤慨した。 
 石田は当時のソニー会長、盛田昭夫に手紙を書いた。販売店に抗議するのではなく、直接ソニー本社、しかも会長に抗議の手紙を出したのが石田らしい。自分がなぜソニーを敬愛しているか、将来はソニーに入社し、もっと素晴らしい会社にしたいこと、なのに、ソニーらしくない裏切り行為に怒りを感じて、ということをしたためた。 
 石田は盛田からの返事は期待していなかった。まさか大会社の会長が地方のいち高校生の抗議の手紙に返事をよこすとは思ってもみなかったのである。ところが、盛田から返事が来た。石田の抗議にはほとんど触れず、こう書いてあった。「君はソニーに入社するな。自分で会社を起こし、企業家になれ。起業の領域は電機より通信がいいだろう」と書いてあった。 
 この時から石田は企業家になる決心をした。孫正義も企業家をめざしたのは早い。高校1年の夏休みに米国に行き、そのまま留学してカリフォルニア大学バークレー校を卒業した。米国に留学した時点で「将来は企業家になる。そのためにビジネスの先進国である米国でビジネスのタネを見つける」と言って日本を後にした。栴檀は双葉より芳しいとはよく言ったものである。 
 孫は米国留学の時、父の三憲は病床に臥し、家族は貧乏のドン底にあった。家族を救うためにも企業家をめざした。石田も父親が腎臓病で身体の自由がきかなくなり、動けなくてもビジネスができる手段はないかと考えていた。インターネット関連の企業を起こしたのは、父親のような人でも自由にビジネスに参加できるようにしたいという願いがこめられている。 
 石田は在学中の95年に三菱電機の要請でドリーム・トレイン・インターネット(DTI)というISP(インターネットサービスプロバイダー)の立ち上げに参画した。石田は顧客サポート業務を担当、4年半の顧客サポート業務を通して、ユーザーがどの点に悩み、不満を持っているかを身をもって感じ取った。 
 そして、2000年5月、大学を卒業と同時に盟友の田中伸明(現フリービットCOO)とともにフリービットを設立した。インターネットの申し子のような石田は、インターネットを人々の生活とビジネスを変える次世代の“高速道路”とみる。 
 フリービットが創業してまず、取り組んだのは1000万人のネットワークづくりである。石田は言う。「ネット社会を実現するためには、ネットワークとコンテンツが必要で、鶏と卵の関係にある。僕らは最も手のかかるネットワークの部分から取り組むことを考えた」 
 そこで、人々がインターネットに接続するプロバイダー事業をフリービットの当面の主力業務に据えた。事業は順調だった。2000年はインターネットの拡大期で企業も人も競ってインターネットを導入した。砂地に水を撒くように需要は無限にあった。フリービットのユーザーも10万人、20万人と増えていき、売り上げも初年度5億円、2年度15億円、3年度30億円と倍々ゲームで増えて行った。 
 ところが、横あいから強敵が現れた。ソフトバンクが広帯域、高速のADSLサービスをひっ下げて、インターネット接続分野に殴り込みをかけてきたのである。2001年夏、孫正義は「1ヶ月の利用料金2280円でADSLサービスを提供します」と記者発表した。 
 それまでのインターネットの世界はナローバンド(狭帯域、低速)で、1枚の静止画をダウンロードするのに10?20分間かかっていた。それでもユーザーはインターネットで静止画が受発信できると、ありがたがっていた。ましてや動画の受発信は考えてもみなかった。

 そこへナローバンドのインターネットの接続より月額料金が半分以上も安い値段でブロードバンドサービスを提供するというのだから、ユーザーは大喜び、こぞって、ソフトバンクのADSLサービスに乗り換えた。 
 2001年8月からサービスを開始、「年内に100万人、3年以内に500万人のユーザーを獲得する」という孫正義の大風呂敷に嘘はなかった。2007年3月年には516万回線を達成した。NTTも負けじとADSL事業に精を出したので、2003年12月年には1000万人を突破した。石田が創業時に掲げた目標は孫正義の殴り込みによって実現した。

ソフトバンクの殴り込みでフリービット危機に 
 インターネットの普及拡大にはADSL事業は役に立ったものの、石田たちのような接続業者にとっては悪夢のADSL参入であった。フリービットは売り上げは30億円まで順調に拡大したが、翌年には9億減の21億円に急減した。 
 コールセンターには、ソフトバンクのADSL事業参入の発表の翌日から契約解除の電話が殺到、パンク状態となった。フリービット社内はパニック状態となり、株式上場準備のためにスカウトした財務担当の役員が「会社を解散しましょう」と石田に進言した。 
 業績が振るわないと、社内の雰囲気も悪くなる。社員は石田の言うことを信用しなくなり、退社する者も増えていった。一時は石田も会社をたたもうかと真剣に考えた。しかし、石田は踏みとどまった。「待て、われわれは何のためにフリービットを創業したのか。理想のインターネット社会を創るためではなかったのか。だとしたら、この試練は何としても耐え忍ばなければならない」 
 そう決心すると、腹の底から力が湧いてきた。さっそく、対策に取りかかった。コスト低減を図る一方、音声通話サービスの拡充、光ファイバー事業などに力を入れた。こうして、ヤフーBBショックから立ち直ったのは05年の後半だった。 
 長いトンネルを抜け出し、月次黒字に転換した夜、石田は1人で祝杯をあげた。この数年間ですっかり頭髪は白くなった。おかげで石田は経営者として一回り大きくなった。耐えることの大切さを知った数年であった。 
 2012年4月期の連結売上高は約212億円、経常利益10億円、社員数650人規模に拡大した。フリービットの事業の柱は4つ。継続サービスのIPv6化プラットフォーム提供事業とのXaaS事業、非継続サービスのユビキタスCE事業とXaaS支援事業である。

ムーアの法則の継続で個人の時代が到来 
 石田がインターネットの可能性を語るときに使うのは「ムーアの法則」。米国のCPU(中央演算処理装置)メーカー、インテル共同創業者であるゴードン・ムーアが提唱した、集積回路(IC)の集積度は18ヶ月で2倍になるという法則である。石田は「このムーアの法則はあと10年間は続くだろう」という。 
 これはどういうことかと言うと、ICのかたまりであるスマートフォンが10年後には175分の1の値段になるということである。現在、1台5万円するスマートフォンが1台1000円になるか、175倍の性能を持つかのいずれかになる。いずれにしても、われわれは強力なコンピューターを持つことになる。これまでは、大手企業しか開発できなかった製品を個人が開発できるようになる。 
 こうした技術の進歩を見越して、フリービットは08年12月に「サーバーズマン」を発表した。これはサーバーの持ち歩きを可能にするアプリケーションソフトだ。このサーバーズマンをスマートフォンにダウンロードすると、スマートフォンがサーバーに変身する。 
 例えば、スマートフォンで取った写真は撮影するたびにメールなどで送信しなければならないが、サーバーズマンをダウンロードしたスマートフォンは写真をリアルタイムで公開できる。また、容量の大きい動画でも、瞬時に別の場所にいる人に見せることが可能となる。つまり、スマートフォンがテレビ放送局になるのである。 
「グーグルのデータセンターは世界最大のデータベースと言われているが、われわれのデータセンターは世界中に散らばる仮想サーバーを束ねることで、世界最大のルーター(相互接続) になりたい」と石田は語る。 
 フリービットは07年9月、石田の古巣であるドリーム・トレイン・インターネットを、09年3月にはメディアエクスチェンジを公開買付により子会社化した。さらに、09年9月、デジタル機器や家電を手掛けるエグゼモードを完全子会社化して家電業界に本格参入した。

 ソフトバンクにしても楽天にしても日本のIT企業はメーカー(製造業)分野には首を突っ込まなかった。どちらかといえば、サービス産業に徹してきた。その方が投資額も少なくて済みリスクもない。賢明なやり方だ。 
 しかし、それではアップルのような世界を変えるベンチャー企業は日本から生まれない。やはりハード部門を持ってこそ世界を変えることが出来る。石田はこれまでの日本のITベンチャーが挑戦してこなかったことに挑んでいるように思える。 
 まだ、世界を驚かすような新製品は出現していないが、石田はひそかに世界を変える商品開発を狙っている。
 
エモーションリンク(くもの巣から絹へ)20年後のネット社会 
 石田は毎月50冊の本を読破する読書家で、インタネットに造詣の深い本格的な開発型ベンチャー企業家。彼に似たベンチャー企業家としてはACCESSの創業者である荒川亨がいた。荒川も博識でどんな問いにも答えられた。人柄は誠実そのもの。将来を嘱望された逸材であったが、2009年10月23日、すい臓がんで急逝した。恐らく荒川と石田はそんなに親交は深くなかったと思われるが、もし、2人が交流を深めていたら、インターネットのことについて語り明かし、肝胆相照らす仲になっていただろう。石田には志半ばで倒れた荒川の分まで活躍して日本の研究開発型ベンチャーの代表選手になってもらいたい。 
 石田は荒川とは深い親交にはならなかったが、最近、ある人物の紹介でアスキーの元社長、西和彦にめぐり会った。西は現在56歳、石田は40歳。ひと回り以上の年の差だが、2人はアスキーという雑誌で固く結ばれていた。 
 西がアスキーの社長に就任し、日本のパソコン業界をリードしていた頃、石田は佐賀県の中学生で、アスキーをむさぼるように読み、西が提唱するパソコン理論に心酔した。西はアスキー社長としては一敗地にまみれたが、情報産業についての見識はいささかも衰えを見せない。 
 2人は挨拶もそこそこに語り合った。 
「実はずっと以前、出井さん(ソニー元社長)の紹介で西さんに電話で少し話したことがあるんですよ」

「そうですか、それは失礼しました」どうやら西には記憶がないらしい。

「で今は石田さんはどんなビジネスを展開しているのですか。売り上げは?社員数は?株価は?」 
 西の矢継ぎ早の質問に石田が一つひとつ丁寧に答える。

「中国の事業はうまく進んでいますか」

「中国は情報産業には神経をとがらせています。思ったほど進んでいません」

「それは良かった。これから10年、中国は大変でしょう。欧米に力を注いだ方がいい」 
 マイクロソフトのビル・ゲイツと今でも親交があり、親米派の西らしいアドバイスを石田はどう聞いたか。 
 2人の対談は食事をはさんで3時間近くに及び、料理店を出ても2人は別れがたいようにお互いに“質疑”を続けた。 
 日本では同世代の企業家同志の交流は活発だが、世代を超えた企業家の交流は少ない。わずかに、ファーストリテイリング会長の柳井正とジェイアイエヌ社長の田中仁、ソフトバンク社長の孫正義とスタートトゥデイ社長の前澤友作らの交流がある程度。田中は柳井に「ジェイアイエヌの企業価値は何か」と問われて、シドロモドロになり、自社の企業 価値を部下と合宿して根本から考え直し、見事“アイウエア革命”を起こしつつある。 
 前澤は最近、(2012年10月ごろ)、女子高生と購入品の配送費でやり合い、前澤のツイッターが抗議で炎上した。前澤は決算発表の記者会見で謝り、それがきっかけで配送費を無料化した。 
 前澤にとっては、初めてのバッシングだが、バッシングにかけては孫正義が先輩格。個人情報漏えい、誇大広告など向こう傷は結構ある。本人は「4年に1回ぐらいバッシングがあったかな。時々バッシングがあった方が社内に緊張が走っていいのでは」と意に介さない。おそらく、孫から前澤にバッシング回避策が伝授されたことだろう。 
 先輩企業家の薫陶を受けた20代、30代のベンチャー企業家が続々と誕生して来ると、日本もベンチャー王国になるだろう。

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