会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2013年4月号掲載)
日本は世界に類を見ない「超高齢社会」を迎えている。平均寿命は世界のトップクラスである半面、要介護者も増加。なかでも認知症の高齢者と介護の課題は社会全体で取り組むべき優先課題の一つだ。そんな中、脳科学で有名な川島隆太・東北大学教授が監修した「学習療法」の試みが広がっている。音読や簡単な計算が認知症の進行抑制に効果があるとされるからだ。現在では、学習する高齢者にとどまらず、介護スタッフや施設全体、地域が活性化する効果も出始めているいう。
「声も大きくて、とっても上手に読めましたね」
学習支援者と呼ばれている学習療法スタッフが98歳の学習者に優しく話しかける。学習支援者1人に対し、学習者は1人から2人が基本で、1回の学習時間は20分から30分と決まっている。
東京都葛飾区にある介護付有料老人ホーム「SILVER SUPPORT 星にねがいを」では、施設内に学習室のスペースを作り、学習療法を導入している。
学習の流れを見てみよう。「読み書き」と「計算」の学習をするがどちらが先でもかまわない。学習者の意思を尊重し、計算が苦手な人には無理に強要はせず、音読だけでもよしとする。学習者が入室すると大きな声で挨拶を交わし、敬意を払い必ず名前で呼び合う。
会話して学習意欲を高める
生活感覚を高めるため、教材ごとに名前、日付、開始時間を書き込む。1教科に5分から10分を目安にし、当日の体調や気分に配慮し、量を調整している。
教材が1枚終わるたびに大きな丸と100点を付け、「よくできましたね。100点満点ですよ」と大きな声で褒めると「ありがとうございます。私、勉強が好きよ」と笑顔で何度もお礼をいう学習者。結果を伝えて認め、褒めることで高齢者の満足感、学習意欲を高めている。
必ず支援者は学習結果を記録する。そうすることで複数のスタッフが学習者の状態を共有することができる。学習後は教材の題材を使ってコミュニケーションを取る。この日の題材はお弁当箱で「子供たちが好きなおかずをお弁当に入れていたのよ」と学習者の表情も穏やかに会話が弾んでいた。コミュニケーションを取ることが学習療法の効果をさらに高める働きがあるという。
「明日もお勉強よろしくね」、退室時には元気に挨拶を交わし終了となった。
学習療法を実施する施設は、くもん学習療法センターから指導員の研修と教材を提供してもらい、導入研修費3万1500円と学習者1人につき月額費用2100円(税込み)を支払う。
音読や計算が脳を活性化
加齢にともない脳の働きが衰え記憶力や判断力の低下が見られる認知症。感情のコントロールも不安定になることから、コミュニケーションがうまくいかず、周りの人との意思疎通が困難になるケースも多い。老いへの不安から閉じこもりがちになり、うつの症状なども見られる。
2001年9月、脳科学の第一人者である東北大学川島隆太教授が福岡県にある高齢者施設で認知症高齢者に対し、「読み書き」と「計算」の学習効果を測定する研究をし、脳機能が改善されることを実証した。結果は数値の向上にとどまらず、まったく無表情だった方に笑顔がみられ、おむつに頼っていた方も尿意や便意が戻るなどの日常生活での変化も認められた。これが学習療法の始まりである。当初は高齢者向けの研究ではなかったが、予想もしなかった結果が得られたことで、認知症高齢者向けの学習療法という新しいサービスが誕生した。
脳は大脳、小脳、脳幹とよばれる3つの部分に分かれる。大脳の一部である前頭前野は、人間の大脳皮質の約30%を占め、感情やコミュニケーションといった機能をつかさどっている。研究の結果、本を音読しているときや一桁の足し算など簡単な計算をしているときに前頭前野が活性化していることが分かった。つまり、前頭前野を活性化することで、認知症を改善したり、進行を抑制することができるのだ。
また、人とコミュニケーションを取っているときも前頭前野が活性化することが実証されている。そこで、学習療法では複雑な計算ではなく、無理なく楽に答えられる計算や昔から馴染みのなる童謡や生活習慣についての読み書きをすることで、前頭前野機能の維持・改善を図っている。それと同時に学習療法では、学習者と学習支援者との会話を通してのコミュニケーションが学習効果を高めるために重要な役割を果たしていることから、その意味を理解するように支援者に教えている。
高齢者の生きがいに
2004年に正しい学習療法を広げるためにくもん学習療法センターは設立された。現在、学習療法を取り入れいている施設は全国1494箇所で学習者は1万2563人に広がっている。転機は2007年、NHKスペシャルで学習療法が取り上げられると全国の高齢者施設から導入したいとの問い合わせが殺到した。
しかし、高齢者施設ではスタッフは食事、排泄、入浴の3大介護に追われ、入居者一人ひとりに尊厳ある生活を支援するのは厳しいのが現実だ。そんな状況の中で1日30分の学習の時間を割くのには現場の賛同が得られず、導入反対の意見があがることもある。
「学習療法導入の際には、施設の担当者と『何のためにやるのか。どんな施設にしたいですか』と目的を必ず確認するようにしています」とくもん学習療法センター代表の大竹洋司氏は言う。施設側に覚悟がなければ、学習療法の成果がなかなか出ずにスタッフが育つ前にやめてしまうケースがあるからだ。
実際に葛飾区の施設でも学習療法を導入したがすぐに効果が現れたわけではなかった。何度かやめることも考えたが、1人の高齢者の言葉が救いとなった。
「学習がしたいから、早く退院したい」
この高齢者は学習療法を毎日受けるのを楽しみにしていたのだ。その言葉を聞いた施設のスタッフは、生きがいにしてくれている高齢者がいるなら大変でも続けようということになった。学習療法でコミュニケーションをとることで、高齢者の人柄に触れる機会が多くなり、信頼関係も深まり、スタッフの観察力やケアに対する向上心も芽生えるといった相乗効果が見られた。学習療法は高齢者の脳を活性化し、人間らしさを取り戻すだけでなく、スタッフのやる気も向上させた。
地域協力への広がり
学習療法を行うことで入所者との関わりが増え、コミュニケーションの大切さを再確認するとスタッフの観察力や洞察力が向上した。一番の副産物は、スタッフ間で相談やノウハウの共有が盛んになり、施設内に活気が出てくるという相乗効果だ。日々の気付きを記録、報告するミーティングではスタッフ間での情報交換の量が増え、可能性を引き出そうと追求する自発的な姿勢や工夫する意欲が見られるようになった。
今では施設を飛び越え、他の施設との交流も生まれている。事業形態や法人の枠にとらわれず同じ地区の学習療法導入施設の間でネットワークが生まれている。愛媛学習療法研究会や関東広域勉強会、北海道学習療法研究会など全国にその活動は広がっている。
さらに2011年には米国オハイオ州クリーブランドの介護施設でも学習療法の実証実験が始まった。その他にも、フィンランド、イギリス、シンガポール、イタリアなどから問い合わせが来ている。日本発の学習療法は世界から注目され、その取り組みは国境を越えて広がろうとしている。