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【私の宝箱】サインポスト社長 蒲原 寧

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

人生の原点はサッカー/サインポスト社長 蒲原 寧

(企業家倶楽部2020年12月号掲載)

 銀行マンをスピンアウトし、サインポストを創業、システムソリューションやコンサルティング事業を展開する蒲原寧社長。今、一番の話題は2020年3月、山手線の新駅、高輪ゲートウェイにお目見えした無人コンビニ「TOUCH TOGO(タッチ・トゥ・ゴー)」である。ここにはサインポストが開発したスーパーワンダーレジが導入されている。

「この無人コンビニから出てくるお客様は皆ニコニコ笑顔です」と蒲原社長。本当にタッチするだけで買えたという満足感と、世界最先端のアトラクションを体験した高揚感なのではと分析する。

「世の中のレジ待ちをなくしたい」という熱い想いが、独自の技術を結集させた。J R東日本スタートアップとの合弁で展開する今後に期待が寄せられる。

 ここまでくるにはいろいろあった。その波乱万丈の人生の原点になっているのは『サッカー』という。

「これまでの人生で2度死にかけた」と語る蒲原社長。一度目は小学生の時だ。1年生の時、結核を発症、大阪府の専門の病院に隔離された。小児病棟で約3年間闘病生活を余儀なくされた。

 3年生のときである。同じ病棟の中学生に「サッカーの試合を見よう」と誘われ、夜中に談話室に忍び込み、初めてサッカーの試合を見た。それはワールドカップの試合であった。ドイツのベッケンバウアーが活躍する試合をこっそり見た蒲原少年の頭には、サッカーが強く印象に残った。

 3年生の3学期に退院したが、運動はダメと医者から固く禁じられた。そして中学3年になり、どんな運動でもオーケーと許可が下りた。「さて何をしようか」と考え、選んだのがサッカーだった。高校に入りサッカー部に入ったが、中学3年まで運動禁止の生活を強いられた蒲原社長にとって、サッカーはきついスポーツだった。

 そこで頭を使った練習を工夫、人一倍努力を重ねた。そして見事、2年生でレギュラーを勝ち取った。

「死ぬほどしんどかった」と当時を述懐する蒲原社長、あのときの自分を褒めてやりたいと笑顔を向ける。

 大学に入っても当然サッカー部で活躍することとなる。監督兼キャプテン兼選手として、一人三役をこなした。効果的な練習メニューを考え、自ら実践した。「とにかく1番になりたかった」と語る。

 大学4年のとき交通事故で2度目の死ぬ思いをすることになる。それでもサッカーで鍛えた足で踏ん張ったため死に至らずに済んだ。

 三和銀行に入社、システム部に配属になった。持ち前の負けん気でシステムを極めた。

「自分は天に生かされている」と語る蒲原社長、38歳の時、人生60年と考えると、あと20年、何をするべきかを真剣に考えた。そして出した結論は起業して世のために貢献することだった。「先代が残した豊かな国を後の世代に残したい」。07年、サインポストを創業した。「私の人生の原点はサッカー」と語る蒲原社長。サッカーから学んだことは多い。理論的に考えること。戦略・戦術の立て方、組織づくりやチームワークをどう作るか。物事を世界レベルで考えることなど、多くをサッカーから学んだという。大人になっていくときにサッカーと真剣に向き合ったことが、今の蒲原社長を創り上げたと語る。今、大分トリニータのスポンサーを務めているが、蒲原社長のサッカー愛は止まらない。

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