会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2013年12月号掲載)
順風満帆で航海を続けていたGMOインターネット丸を06年秋に大嵐が襲った。第3の事業として進出した消費者金融事業で過払い金の「落とし穴」にはまり、400億円の損失を被ったのだ。債務超過寸前、金融機関の離反、外資系ハゲタカの買収攻勢…。次々と襲いかかる危機から、会長兼社長の熊谷正寿ら同社幹部はどのようにして脱出したのか。
消費者金融事業への挑戦と凋落
航海は順調だった。ところが突然、黒雲が出現、熊谷は大嵐にもみくちゃにされた。06年の秋、熊谷は監査法人の公認会計士から「過払い金の請求に備えて10年分の引当金を積んで下さい」と指摘され、わが耳を疑った。第3の事業として進出した消費者金融事業でグレーゾーン金利の支払い請求が発生した場合に備えて、予め引当金を積んでおかなければならない、というのだ。それも過去10年分、金額にして合計約314億円という巨額引当。これを積むと、自己資本比率が低下、帳簿上、債務超過寸前に追い込まれる恐れがある。一部上場企業としては、重大な危機に直面することになる。公認会計士の説明を聞きながら、熊谷は背筋が凍る恐怖を感じざるを得なかった。
GMOインターネット(以下、GMO)は、ベンチャー業界の優等生だった。創業からわずか8年後の1999年8月に店頭公閲2005年6月に東証一部上場を果たし、さらに2000年に設立した連結子会社「まぐくりっく」(現GMOアドパートナーズ)は、当時としては日本最短記録の364日でナスダックジャパン(現ジャスダック)へ上場した。財務内容も非の打ちどころがなく、無借金経営を誇っていた。
まさに鳥を落とす勢いだったGMO。そこへ、消費者金融中堅のオリエント信販のの買収話が舞い込んできた。本業のウエブインフラ事業、ネットメディア事業に加えて、ネット親和性の高い金融事業を立ち上げれば、「経営の3本柱が確立、経営が安定する」と熊谷は考えた。そこで05年8月、オリエント信販を約270億円で買収した。ところが、わずか半年後の06年1月、予想外の事態が起きた。
最高裁判所で「グレーゾーン金利は違法である」という判決が出て、過払い金の返還請求が可能となったのである。更なる追い打ちをかけたのが06年秋の会計基準の改定だ。過払い金に対する通常の引当の基準が合理的に見積もれる1年ではなく、過去10年分を全額引当てる形になった。
「そんなバカな」。熊谷は絶句した。GMOはオリエント信販を買収してから1年も経っていない。GMOが払うべきは過去1年分に収まり、残りの9年分は前オーナーが支払うのが筋だ。しかし、最高裁の判決は前オーナーのグレーゾーン金利の引当金を現オーナーのGMOたちに求めた。つまり、前オーナーの利益や納税分の責任を現オーナーに負わせたのである。GMOにとっては、まさに青天の露震だった。
当時の過払い金の請求はーカ月当たり1ー2億円だった。毎月、本業で4億円の利益が確保できていたので、過払い金の請求には応じることが出来た。問題は巨額な引当金にあったのである。上場企業としての多額の引当金は財務制限条項(コベナンツ)への抵触、さらに数年に及ぶ債務超過を招けば上場廃止へも繋がる。GMOが負った引当金は314億円。東証一部上場時まで無借金経営を貫き、自己資本比率40から50%を保っていたGMOの財務状況が急速に悪化した。
この結果、GMOは2年間、出口の見えない迷宮に迷い込んでいった。05年12月期、売上高372億1900万円、当期純利益32億5800万円という順調な業績から一転06年12月期には当期純損失120億9900万円、07年12月期には当期純損失175億9800万円へと落ち込んでいった。
襲いかかる外資系ハゲタカ
危機の頂点に達したのが07年8月である。当時、GMOは断腸の思いで消費者金融事業からの撤退を表明した。時を同じくして発表した中間決算の貸借対照表では、総資産は1340億円に膨らんでいたが、自己資本はわずかに6億円、自己資本比率05%まで落ち込み、債務超過寸前となっていた。
熊谷は06年末に個人名義で76億円の増資に応じ、07年8月にはGMO証券を48億円で買い取り、GMOの財務基盤を応援していたが焼け石に水。早急に更なる増資をして、債務超過を避けなければならない。オリエント信販関連の損失として、05年8月の270億円の買収費用、06年12月の76億円の増資、07年7月の50億円の貸付など合計約400億円が確定していたからだ。
債務超過になるとコベナンツに抵触するため、金融機関からはいつ貸付金の返済を迫られても、おかしくない状況となる。つまり、黒字倒産の危機が高まっていた。
当時のGMOの借入金はオフバランス(資産や取引などが事業主体の財務諸表に記載されない状態)まで入れると約1300億円。案の定、いくつかの金融機関がコベナンツを理由に資金を引き始めた。
さらに追い打ちをかける形で、外資系ハゲタカが襲いかかってきた。当初、ハゲタカは金融アドバイザーとしてGMOに接近してきた。そして、GMOが窮地に追い込まれたのを見計らって、正体を現わした。
ある時、ハゲタカの幹部から「熊谷さん1人で来てくれ」という連絡があった。行ってみると、そこには幹部6人が待ち構え、開口一番「500億円用意した。これでGMOを売ってくれ」と迫った。GMO株式の約半分を保有する熊谷の心は一瞬揺らいだ。責任を取って辞職し、ここで得た現金と手元資産の100億円強をかき集めて、ハワイで余生を過ごす道があったからである。これを無下に断れば、大借金を背負わなければならない。両極端な選択肢だった。
一呼吸おいて、熊谷は毅然として答えた。
「GMOは売れない」
熊谷は当時の心境をこう振り返る。
「私個人から見ると、400億円か借金かという分かれ道でしたが、最終的には茨の道を選んだ。馬鹿なように見えますが、振り返ってみるとやはり正しい判断だったと思う。一度きりの人生なんだから、仲間への約束は男として守りたい、夢や志は諦めたくない、という気持ちが強かった。だから、400億円くらいでは心が揺らがなかった」
その頃、熊谷はある夢を見た。一家心中で練炭自殺する夢である。飛び起きると、全身に冷や汗をびつしょりかいていた。夢から覚めた時の感覚は、今でも覚えている。
「仲間と20年近く努力して築き上げたものを一気に失ったのは、もう言葉で表現できないような脱力感と失望感だった」
威勢良く断ってしまったものの、厳しい状況に変わりはない。取引銀行20行の内、4から5行が手を引き始めていた。だが、あおそら銀行や三菱東京UFJ、三井住友などのメインバンクは応援姿勢を貫いたのである。
「もし、他の銀行が手を引くようだったらウチに言って来て下さい。全部、面倒見ます」
当時、あおそら銀行専務の石田克敏がそう力強く約束してくれた。帰りのエレベーターの中で熊谷に同行したCFO、専務取締役の安田昌史は男泣きした。「仕事であんなに泣いたのは本当にあの時だけでしたね」と安田は振り返る。
「日本産業をどう育てようという考え方のバンカーと、目先の利益を追う一部のバンカーの両極的な対応を見て感動しました。GMOは現在の会社四季報でもあおそら銀行を、メインバンクの一番上にしている。やはり、あの時支えてくれたのはあおそら銀行の力に依るところが大きかった」
熊谷も思い出深げに語る。
前例を打ち破る現物出資
メインバンクの援護射撃を得たGMOだが、債務超過寸前の状況は続いていた。07年末、ヤフーから収の打診があり、最終的には14億5000万円(持株比率5%)の出資となった。しかし、これでも足りない。そこで、熊谷は個人資産売却による更なる増資へと踏み切る。
ところが、契約直前になって商談不成立。ビル売却によって手に入れるはずの約妬億円を得られなかった。弱り果てた熊谷はGMOの顧問弁護士Iに相談した。「それならば現物出資をしたらどうか」。熊谷は驚いた。当時、上場企業において現物出資で増資した会社は前例がない。「本当にそんなことが出来るのだろうか」。コンサルティング会社Aの動きは早かった。
現物出資は様々な評価を得たり、多くの関係者が動かなければ実現できない。GMO内部の特任チームや、会計士、税理士、不動産鑑定士など、ありとあらゆる協力を得るため、A社は奔走した。思いが通じて現物出資は07年末に実現した。
資金繰りの最終段階で、熊谷所有の某金融会社の株式を売ることになった。約30億円。ある人物が「買おう」と申し出て契約した。ところが、入金期日になっても、入金がない。どうやらその人物は。買い手を探し、利ザヤを稼こうとしたようだ。買い手がみつからず、株式は売れなかった。熊谷はだまされたのだ。
そこで、だまされたこと、資金繰りの苦しさを親しくしている投資家に電話で愚痴を言った。もしかしたら、30億円を用立てしてくれるかもしれない、という期待もなかったわけではないが、愚痴を聞いてもらえるだけで少しは気がおさまると思ったのだ。
黙って熊谷の愚痴を聞いていた投資家は「わかった。僕が出してあげよう」とあっさり言ってのけた。地獄に仏とはこのことか。「本当ですか。恩にきます。ありがとうございました」。熊谷は何度も何度も電話に頭を下げた。
その投資家は難しい条件は一切つけなかった。通常の利子を取り、淡々と融資した。その投資家は世間的には毀誉褒貶の多い男であったが、熊谷に対しては極めて物分かりのよい貸し手であった。
最終的にGMOは、計400億円つぎ込んだオリエント信販を500万円で当時の同社経営陣が設立したNK3ホールデングスに売却。熊谷が切った身銭は計170億円に達していたが、現物出資、ヤフーの出資などによって、ようやく危機を脱出。08年12月期は売上高372億4700万円、経常利益40億3100万円と持ち直した。
仲間との一致団結で危機を乗り越える
熊谷は振り返る。
「危機の時には、そこに目をつけて足元をすくいに来る輩がいる。味方だと思ったら、実は敵だったとかね。そういう魔の手から逃れられたのは、脳細胞をフル活動して山のようなアイデアを練ってくれた、強い仲間たちがいたから。GMOが生き残れたのは金融機関が手を引かなかったからでもないし、私が資金を投入したからでもない。素晴らしい仲間たちの支えがあったからだ」
普通、会社が危機に陥ると幹部がわれ先にと辞めてしまうものだが、GMOの場合、誰一人として逃げ出す者はいなかった。専務の西山裕之ら若い幹部たちが集まり、毎日10時間以上、早朝から深夜までディスカッションやシミュレーションを重ねた。この時のやり取りは、07年8月から約1年間続けられた。
熊谷とともに資金繰りに奔走した安田はこう語る。
「そもそも逃げるという選択肢はなかった。私はCFOというミッションの中で何をしなければいけないかを考え続けていた。危機の中でも正しい方法を貫きたかった。そして、お客様や仲間のために会社を守りたかった。この2つの強い感情で乗り越えられたと思う」
自己資本比率0.5%は、一般的にはいつ倒産してもおかしくない状況である。GMOが危機を乗り切るのは、目をつぶって針の穴に糸を通すような確率だった。だが、GMOは全員の血のにじむような努力と頭脳、そして将来・夢を信じる強い力が一人ひとりを繋ぎ合わせ、数千のシミュレーションの中から正しい解に辿り着いたのである。
「危機に陥ると、どうしても気弱になってしまいがち。だから意志を強くして、最後までやり抜かなければいけない。自分を救ってくれるのは、外部・内部を問わず、日頃からコミュニケーションを取っている人だ。危機に瀕したときに本当の友人とそうでない友人が分かる」
仲間と同様、熊谷の精神的な支えになったのが、インターネット産業の将来を信じる気持ちだ。「何をおいても、自分たちはいいビジネス・サービスをしている」という強い信念を持ち、GMOを仲間たち自身の手で守らなければいけないという思いがあった。
「GMOには今まで、大きな失敗が1度もなかった。連戦連勝は自信過剰になってしまうから、怖い」
弱気にならない諦めない
「我々が投資した400億円は、私個人も含めてGMOのすべてで、勝負できる限界すれすれの金額だった。ルーレットの最後の大一番で全てを賭けて持っていかれた感覚です。勝負をかけて投資するにしても自分の実力の3分のーぐらいに留めておくべきだと身にしみて感じた」
消費者金融で大火傷をした熊谷は金融業について、今後、どういうスタンスで臨むのだろうか。
「ネットと金融業は親和性が高い。銀行も証券も保険もやりたい」と熊谷は積極的だ。確かにイーバンク(現楽天銀行)の法人筆頭株主だったこともある。
「しかし、今は銀行を手がける時ではない。いずれ時機が来れば・・・」と慎重姿勢だ。熊谷には、「事業を手がける条件がある」という。それは圧倒的一番になれるかという条件だ。インターネットでは、二番手以下は生き残りが難しい。GMOグループでは、ドメインにしろ、決済にしろ、メールマガジンにしろ、一番手になるものにしか手を出さなかった。
GMOクリック証券はFXでナンバーワン企業になった。2013年上期のFX取扱高は世界第1位の座を獲得、6月のOTC取扱高は100兆円を突破した。2位にはDMM.com証券が迫っているものの、世界一を堅持している。
FXについては、一部に批判があるものの、「マーケットの流動性を保つ重要な役割を担っており、インサイダー情報などもない。もっともフェアな商品だ」と熊谷はFX参入に批判的意見に反論する。
SBI証券などの強敵を向こうに回し、FX取扱高で世界ナンバーワンのシェアを保持する裏にはネット技術者1300人を擁する創業以来の自前主義がある。この比類なき技術者集団がGMOクリック証券を世界ナンバーワンに押し上げた原動力であり、GMOグループの強さの秘密だ。
試練を乗り越え、2013年12月期の連結決算では、売上高830億円、経営利益105億円の増収増益を予想している。大きな試練を乗り越え、順風満帆で走る「日本のインターネット部」GMO。大きな夢を推進力に変え、再び新たな挑戦が始まった。