会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2019年1・2月合併号掲載)
「サシ」は一切入っていない赤身肉だが、柔らかさといい、味の深さといい、文句なしに美味い。日本人が例外なく褒め上げるアルゼンチンの牛肉だ。輸入禁止のため現地で食べるしかなかった”貴重品”の牛肉が日本に入ってくることになった。個人的には極上のプレゼントと思っている。
南米産の牛肉は長い間、牛の伝染病「口蹄疫」(口と蹄がただれる)に汚染されているという理由で、加工肉以外は日本に輸出できないでいた。アルゼンチンだけでなく、周辺のウルグアイやブラジルの肉も同じ扱いを受けている。南米の大統領が「もう伝染病の報告はない」と訪日時に何度要請しても日本政府は輸入を拒んできた。
アメリカで「狂牛病」が流行った時、こんなことがあった。混乱はしたものの、しばらくしてアメリカ産は条件付きで輸入が再開された。狂牛病が心配なら、口蹄疫が無くなった南米産の肉を入れた方がいいではないか、と見る人もいたが、実際には話題にもならなかった。農水省のお役人はアルゼンチン産牛肉の美味さを知らないのか、あるいは日本の畜産農家の「美味い牛肉が入ったら困る」という無言の圧力を意識したのか。
アルゼンチンは「牛肉とパンパ(草原)の国」だ。牛の数は4000万人の人口の2倍とも言われる。その牛たちを馬に乗ったガウチョが追いかけ回す。牛肉の有名な食べ方は「牛のすべて」を同時に焼く「パリジャーダ」だ。普通のステーキ用はもちろんだが、内臓を含めたすべての部位をバーベキューで食べる。中には固形の「血のソーセージ」もあり、これが意外にいける。皆でパリジャーダをつついていると、「アルゼンチン人の主食は牛肉?」という冗談めかした表現も決してオーバーではないと実感する。
だからアルゼンチンを良く知る欧州各国は以前から「口蹄疫」はとうの昔の話、と病気説を無視しているところが多く、とりわけ上流階級はずいぶんアルゼンチン産牛肉のお世話になっている。
そんな中、日本政府は2018年半ばの政府間交渉で、アルゼンチン側の主張を認め、南部パタゴニア地域の生鮮牛肉と羊肉を輸入する許可を与えた。アルゼンチンにとっては念願叶ったりの大ニュースである。
日本経済新聞の報道によると、アルゼンチンのエチェベレ農産業相は「品質には自信がある。将来的には日本市場で一定のシェアを占めたい」。ただ、パタゴニアの肉牛はアルゼンチン全域の3%未満しかないため、「今後は全域での対日輸出解禁を目指して交渉を続ける」と述べた。これを受けて、商社の丸紅は早速輸入を開始、他社も追随の構えだ。何と言ってもアルゼンチンは世界第6位の牛肉生産国で、輸出も第10位の国である。農畜産品はアルゼンチンの輸出の6割を占める重要な商品なのだ。その意味では「口蹄疫は消えた」という日本の判断は遅きに失した感があり、世界的には”周回遅れ”と言っても良い。
今有名デパートの肉売り場には外国産牛肉はまず見当たらない。その代わり、国産の霜降り牛肉が「サシ」の多さを競うように並んでいる。サシは要するに脂だが、脂が多ければ上等と言いたげだ。確かにすき焼き用は霜降りが一番だし、ほとんど芸術品のような肉もある。
だが、赤身の輸入牛肉も捨てたものではない。米国産の熟成牛肉も入り始めたが、値段が予想以上に高い。それならアルゼンチン産の出番もある。値段が安く、美味しければ、いずれオーストラリアやアメリカ産をしのぐ人気が出るはずだ。健康志向の高まりで、脂分の少ない赤身牛肉を好む中高年が増えていることも追い風になりそう。そして、今回の日本向け輸出解禁が、経済不振が続くアルゼンチンへの応援歌になればもっと良い。
Profile 和田昌親(わだ・まさみ)
東京外国語大学卒、日本経済新聞社入社、サンパウロ、ニューヨーク駐在など国際報道を主に担当、常務取締役を務める。