会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2019年6月号掲載)
1.ベストタイミング
能の創始者・世阿弥は多くの花伝書の中で「年来稽古の条々」という、年齢に応じての稽古の仕方と演出の仕方を説いてきました。
経営者には世阿弥の信奉者が非常に多くいて、「世阿弥を読む会」も多数存在します。本誌のお馴染みでは、ジャパネットの創業者の髙田明氏が「髙田明と読む世阿弥」という素晴らしい著書を出しておいでです。
その世阿弥が、役者が若いころに自然に咲く花を「時分(じぶん)の花」と名付け、それはただ若いから咲いているだけの美しさでありもの珍しさなので放っておけば枯れてしまう。そうではなくて毎年稽古を積み重ねていって最後に咲く花を「真(まこと)の花」、それこそが役者としての1番の見せどころだ、と説いています。しかも、年を取ってきたら「少な少なと演ずべし」というわけであまり派手に立ち振る舞わない、控えめな演技が観客の心を打つと書いています。
今回のイチロー選手の引退記者会見にはこの教え2つが凝縮されていました。
2.完全燃焼を明言する
イチロー選手は、1991年オリックスに入ってからあの俊足と打撃力であっという間にスーパースターになりました。94 年から2000年までに首位打者のタイトルを7回も獲得しています。
そんな中でも、私たちが呆気にとられたのが彼の盗塁数でしょう。全方向を瞬時に見て即断即決で走り出す。1秒もかからない内に瞬時にすべてを判断して動くその判断力とスピード。大きな目と大きな耳に注目するとしっかりと周りの状況を見ながら耳をそばだてて瞬時の判断力を磨いていったのがよくわかります。
これをパフォーマンス心理学の専門用語では「適応的無意識(アダプティブアンコンシャスネス)」と呼びます。瞬時に周りの状況に適応できる自分の動きを判断して最適な動き方をすることですが、平凡な人間ならば向こうから大きなトラックが来て瞬時に命からがら避ける、そんな時しか適応的無意識は発動しません。一方、イチロー選手は盗塁のたびに適応的無意識を働かせてきたわけですから、これがすごいと言わなくてなんでしょう。日本での盗塁数199回、メジャーに行って509回、合計700回以上も盗塁をしています。そんな人は世界中どこを探しても他にいません。
最初大きな打撃ではなく俊足で稼ぐイチロー選手を見て「日本人は体が小さいからだろう」ぐらいに思っていたアメリカのファン達もいたはずです。でも、ただならぬイチロー選手の盗塁数と打撃数を見るうちに、全員がイチロー信者になっていました。ところが昨年、現役の舞台を退きバックヤードで後輩の指導をする役に回りました。普通ならがっかりするところかもしれません。でも、この時の反応も只者ではなく、「それはそれで楽しむ」と平然と言ってのけました。
19年3月21日東京ドームで行われたアスレチックス戦を最後に現役引退を発表。その後深夜零時から引退会見をしました。アスレチックス戦ではイチロー選手が打席に立った途端に観客全員総立ち。イチローコールが鳴り響き、旗が振られ「イチロー選手お疲れ様」「おかえりなさい」というファンの熱狂的な応援が聞こえました。その時にこれを最後に引退すると45歳のイチローが決心。実際には50歳で引退すると常に言っていたので5年も早いのです。
そのせいでしょうか、引退会見で無粋な某テレビ局のアナウンサーが「引退を決意したことに後悔はあるか」と聞いてしまい、「後悔などあろうはずがない。誰かと比べるわけではなく自分なりに頑張りました。とても頑張ったと明言できます」と言ったのです。
契約上の区切りでもあり、キャリアの終盤で思ったような結果が出せなかったことや色々なことがあったと思いますが、1番大切なことは、「やり抜いた、努力しきった」という彼の達成感でしょう。
3.後輩指導を見せる
「子供たちにメッセージをお願いできますか」とTBSの井上アナウンサーから聞かれたとき、「メッセージは苦手なんですよ」と言いつつも、「自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけてエネルギーを注ぎ込むこと。そうすればもし壁が出ても壁に立ち向かえる、熱中するもの夢中になるものが見つからないと、壁が出てくると諦めてしまう」と言いました。これ以上のメッセージはないでしょう。
壁が出て、つまり問題が出てくるとそれに対処できないのは現代の若者の特徴です。「打たれ弱い」のです。「うちの王子様、お姫様」とおだてられて育ち、会社に入って少しでも壁があるとすぐに嫌になって辞めてしまう。壁に弱いのです。たしかに壁を好きな人はいないでしょう。でも熱中できるもの、夢中になれるものがあれば壁は乗り越えていけるというイチロー選手のメッセージはとても印象的でした。
4.両方を立てる
さらに、誰でもスターになるとおだてに乗りやすいものですが「MLBと日本の野球に対してなにか提案があるか」と聞かれて、余計なことは一切言わず「日本の野球はチームの連携連帯が素晴らしい。アメリカの野球は個人のポテンシャルが高い。どっちにも長所がある」という言い方をしました。翌日、彼の発言は一斉に新聞に載り両国のテレビにも流れましたが、どちらもきちんと褒めている、一流とはこういうことでしょう。
まさにこの引退会見が「真の花」でしょう。45歳で第1ステージが終わっただけで第2ステージは何が始まるか、どんな別の花を咲かせるのかと読者の皆さんも私も楽しみです。
引き際を間違えて訴訟事件になっているトップもいます。
トップの花をどこで咲かせるか。どのタイミングでどうステージを切り替えるか。素晴らしいお手本をいただきました。
Profile
佐藤綾子(さとう・あやこ)
「日経トップリーダーonline」はじめ連載4本、著書186冊。「あさイチ」(NHK)、「ビートたけしのTV タックル」( テレビ朝日) 他、多数出演中。24年の歴史をもつ自己表現力養成専門の「佐藤綾子のパフォーマンス学講座 」主宰、入学は随時受付中。