MAGAZINE マガジン

【ベンチャー三国志】Vol.29

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

アパレルのネット販売で躍り出る前澤友作

アパレルのネット販売で躍り出る前澤友作

2人はライバルであると同時に盟友でもある
(企業家倶楽部2015年1・2月合併号掲載)

スタートトゥデイ社長の前澤はアパレルはネットで売れないという常識を覆して、経常利益124億円(2014年3月期)を上げた。片やクロスカンパニー社長の石川は実店舗で売り上げ1000億円を達成した。2人の若き企業家が王者、ファーストリテイリングの会長兼社長の柳井にどこまで迫るかがみものである。(文中敬称略)
【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐、柄澤凌

 前澤友作(39)スタートトゥデイ社長はネット世代のベンチャー企業家旗手の1人だ。それまでアパレルはインターネットで販売するのが難しいのではないか、といわれていた。その常識を覆してネット販売で頭角を現している。

 直近の業績を見てみよう。2014年3月期の連結決算は売上高が前期比10%増の386億円、経常利益が同45%増の124億円と堂々たる数字を上げている。売り上げの伸びが少し鈍っているのは気になるが、経常利益が100億円の大台を超えているのは立派なものである。

 前澤は1975年11月22日、千葉県鎌ヶ谷市に生まれた。小柄だが、全身バネのようで、小学校時代は跳び箱が得意な少年だった。長じて現在はゴルフに興じ、ドライバーの飛距離は250ヤードを下らない。スコアは1ラウンド70後半で回る。

 早稲田実業高校に進んだが、あまり学業の方には精を出さず、もっぱらロックバンドの演奏に明け暮れた。ちなみに社名のスタートトゥデイはアメリカの曲から拝借したものである。

 高校は担任の先生の温情で何とか卒業したものの、大学への進学はせず、渡米してアメリカでミュージシャンになる夢をみた。そこで副業として日本では売っていないCDの輸入販売を始めた。企業家前澤友作の誕生である。ちょうど20歳の時、1995年である。

 そのうちアパレルも売るようになった。3年後の98年にはカタログ販売は年間8000万円に達した。98年8月、好きな米国のバンド、ゴリラ・ビスケッツの曲「スタートトゥデイ」を社名にし、会社組織に衣替えした。

 しかし、2万部のカタログ製作は時間とコストがかかりすぎる。そこで2000年にネット通販に切り換えた。ZOZOTOWNというサイト名もその頃付けた。ちなみにZOZOとは「想像」と「創造」の願いをこめたものである。

 ZOZOTOWNは若者たちの圧倒的支持を受けて大きくなっていった。2014年10月現在、ZOZOTOWNのユーザーは352万人に達している。ユーザーの平均年齢は31・8歳で、男女比率はほぼ半々。買物といえば女性が圧倒的に多かったが、最近は男性でも買物が好きである。

 前澤は革命児である。新しいことを次から次に考え出す。アパレルのネット販売も前澤が初めてであろう。ZOZOTOWNのサイトも前澤が見よう見真似で独力でつくった。東京・秋葉原で部品を買って、一人でZOZOTOWNのサイトを完成させた。

 小さいときは大工さんになりたいと思ったほどで、モノづくりが好きだ。子供時代は自分でパチンコ台をつくり、パチンコの玉がどうやって上から下へ流れていくのかを飽くことなく眺めていたという。

 ZOZOTOWNを完成したものの、肝心の商品がなければならない。有名なアパレルメーカーにアタックした。その一つがユナイテッドアローズ。ユナイテッドアローズ会長の重松理(おさむ)が社員と食事会をしていた。その時にスタートトゥデイ社員の妻がいて、スタートトゥデイが話題になった。自社商品をネットで売れないかと考えていた重松はさっそくスタートトゥデイを尋ねた。

 重松は本社の佇まい、社員の接客態度などが気に入った。何より前澤の笑顔が好きになった。数日後、ユナイテッドアローズとの提携プランを持ってきた前澤に言った。「わが社のアパレルをZOZO TOWNで売ってください」

 ユナイテッドアローズはセレクトショップを代表する企業。同社の出店が決まると、ビームス、シップスなどの有名ブランドが次々に出店した。2014年10月現在、ZOZOTOWNに出店しているブランド数は659に達している。

 余勢を駆って、岡山で頭角を現している新進気鋭のクロスカンパニーにアタックした。クロスカンパニー社長の石川康晴は前澤より5歳年上の企業家。理路整然として、弁も立つ。初めての出会いはお互いの力量を探るだけで、出店までには発展しなかった。石川は実店舗の販売にこだわっていた。

 アパレル業界のベンチャー企業ではファーストリテイリングが断トツの横綱。2014年の8月期の売上高は1兆3829億円。経常利益は1568億円のグローバル企業。現在、店舗数はユニクロだけで国内852店舗、海外633店舗の計1485店舗。インディテックスやH&Mの上位2社を追いかけ、2020年には年商5兆円にすると、会長兼社長の柳井正は豪語する。

 それに続くのがクロスカンパニー、スタートトゥデイだが、王者ファーストリテイリングとは相当の開きがある。ファーストリテイリングが横綱とすれば、大関、関脇以下の小結か前頭筆頭あたり。しかし、石川、前澤には若さがある。

 石川は「20年後にはファーストリテイリングに迫りたい」と大言壮語する。企業家はビッグマウスでなければならない。「世界一になりたい」という気概がなければ、国内でもトップになることは難しい。

 柳井が強い横綱として、後輩の前に立ちはだかるから、後輩も負けじと頑張る。柳井には2020年に売上高5兆円を実現してもらいたい。そうすれば、後に続く後輩たちも5兆円を目標に頑張るだろう。何も規模拡大が経営の目的ではないが、経営規模を通して競う内に筋肉質の組織になる。

 少し、話が外れた。話を前澤に戻そう。前澤はアパレル業界の革命児であることから、いろいろな実験をしている。2012年秋に「ZOZO COLLE」という新しい試みをした。ZOZOTOWNに出店しているブランドで、新製品のコレクションを実施し、千葉県・幕張で新製品の予約販売をしたのである。

 アパレルは見込み販売が主流で、ある程度の売れ残りは計算済みだ。そのため、最初の値付けも予め高めに設定、売れ残りによる採算悪化を防いでいる。この見込み販売は顧客から見れば、高い買い物になる。もし、売れ残りが無ければ、消費者は安く買うことが出来るのではないか、と前澤は考え、「ZOZOCOLLE」を敢行した。

 200以上のブランドが参加、9月15?16日の期間中に1万人の客が訪れ、約1億5千万円の売り上げがあった。初回ということもあって、成功の部類に入ると思うが、2年目は開かれなかった。アパレルメーカーが期待したほどではなかったのだろう。

 副次効果もあったと思う。若いデザイナーが新作のデザインをつくることによって、デザインの腕を磨くことが出来る。将来は「ZOZOCOLLE」から世界をリードするファッションが出現するかもしれない。イタリアのミラノファッションのように。前澤はそんなことを夢見て「ZOZO COLLE」を企画したのではないか。時期尚早だったが、再び「ZOZO COLLE」が開かれる事もあるだろう。

 2013年秋には「WEAR(ウェア)」という新企画を打ち出した。どういう内容かというと、ある店舗に消費者が行って、気に入ったアパレルがあると、店では買わず、アパレルに付いているタグをスマートフォンで撮影、家に帰ってZOZOTOWNに注文すると、翌日品物が届くという仕組み。

 「WEAR」が普及すると、店舗はショールーム化し、店の売り上げは激減するのでは、とショッピングセンターなどに激震が走った。J Rの各駅にあるルミネが反対の狼煙をあげ、「WEAR」は実験店舗だけで、日本国内では中止になった。

 確かに、ショッピングセンターなどでは死活問題である。しかし、新しい技術は止められない。「スタートトゥデイは止められても、消費者に便利なものであれば、誰かが必ず再開する」とある著名企業家は断言した。

 昔、アメリカで鉄道が普及したとき、それまでの交通手段であった幌馬車は全滅した。どんなに繁栄したものでも、新しい技術に取って代わられるものだ。ショッピングセンターは「WEAR」を排除するのではなく、買い物の楽しさを工夫して対処すべきだろう。

 前澤も「WEARは決して店をショールーム化するものではない。店舗が危惧しているのは、機能のごく一部で、WEARの本当の狙いは買い物とアパレルを着る楽しさを倍化させるもの」と語る。

 例えば、「WEAR」には、マイクローゼット機能というのがある。これは、消費者が保有するアパレルを整理する機能で、これによって、保有するアパレルを整理整とんする。また、アパレルのコーディネート機能もあり、「今日はどの服と靴を合わせようか」なども「WEAR」を活用すれば、簡単に出来る。

 既に、台湾などには「輸出」されており、東南アジアで普及するかも知れない。そうなると、日本はショッピングセンターの反対で、アパレルのネット化が遅れることになるかも知れない。

 クロスカンパニーの石川も「WEAR」には初め理解を示していたが、ショッピングセンターが面と向かって反対するのを擁護するわけには行かない。「防弾チョッキに穴が開き始めたので、これ以上、前澤さんを守れない」と苦しい胸のうちを明かす。

 前澤は純粋な一面を持ち合わせている。幼さと隣り合わせだが、失なって欲しくない性格だ。ある時、ツイッターで女子高校生とやり合った。女子高校生がスタートトゥデイの送料が高いとクレームをつけたので、前澤がただで送れるものではないとやり返した。そのやり取りが一部上場企業の社長にふさわしくないと槍玉に上がった。言い方はともかく、正論だったと思う。

 世の中、「ただ」ほど怖いものはない。ネット社会では、無料が横行しているが、どこかで勘定は取られている。例えば、商品の値段に上乗せさせるとか、あるいは、無料で競合他社をつぶしたあと、高額の送料を消費者につきつけたりする。「ただ」は要注意だ。

 ここで、石川康晴について少し触れておこう。石川は1970年岡山市に生まれた。祖母が日舞の師範をしていた関係で、小さい頃からファッションに関心があった。

 石川が将来の職業として洋品店をめざしたのは14歳、まだ中学生の頃である。お年玉や小遣いは全て洋服に注ぎ込んだ。あるとき「そんなに好きだったら洋服屋になったら」と行きつけの店の店員に言われて、「将来は洋服屋を経営する」と自然に決めた。

 高校卒業後、アパレル会社で修業、300万円を貯めて洋服屋を開業した。ハンガーは100円ショップで揃え、レジも中古品、たった4坪の店からスタートした。

 徐々に固定客が増え、売上も初年度4000万円、2年目1億円、3年目2億円、4年目4億円と順調に育って行った。社員13人、店舗も4つに増えた。

 しかし、やがて1点15万円もする高級品が売れ残るようになり、たちまち在庫の山となった。それでも石川は自分の戦略に自信を持ち、東京・代官山にも出店した。創業5年目のことである。経営は火の車、13人いた社員はたった3人になった。

 あるとき掃除をしていた石川は辞めて行った社員の手紙を見た。忘れて行ったのだろう。読んで愕然とした。「うちの社長はバカだから、こんな会社は辞める」と書いてあった。

 石川の初めての挫折である。企業家には大なり小なり挫折がある。否むしろ挫折の連続かも知れない。ただ、骨のある企業家は必ず立ち上がる。

 石川はこれまでと全く逆のことを考えた。高級品ではなく、カジュアルで買い易いものを。それも仕入れ品ではなく、商品開発から製造、小売までを一貫して行うSPAに参入した。デニムの生産地として知られる岡山の有力メーカーに製造を依頼した。

 こうして誕生したのが、「アースミュージック&エコロジー」。少し長たらしいブランドは宮﨑あおいのテレビCMとともに全国ブランドになって行った。「あした、なに着て生きていく?」というコピーもアパレルのイメージを一変させた。

 今、2014年12月現在、売り上げは1000億円、国内の店舗数は1181店、海外店舗は中国を中心に181店になる。今伸び盛りの企業である。

 しかし、石川は言う。「アパレルは国内では斜陽産業。では何で伸びるかと言うと、海外だ。アジアではアパレルは成長産業」と言う。

 石川は2012年9月、反日デモで荒れ狂った北京にあって、北京店をオープンした。当然、デモ隊が押しかけ、店舗の一部が壊されたが、石川はひるまなかった。逆に「1兆円企業になるチャンスだ」。

 企業家には勇気が必要だ。戦後の日本人が失ったものは勇気ではなかろうか。勇気のある者だけが栄冠を勝ち得る。石川は多くの日本企業が中国を撤退する中で、中国に踏みとどまった。逆張り経営が好きなのだ。

 しかし、単なる蛮勇ではない。確かな証拠もあった。中国政府がもらした本音を企業家の嗅覚でかぎ取った。建前では日本を批判しているが、本音では日本企業にとどまって欲しいと、思っていると確信した。

 石川と前澤の2人のアパレル企業家は2009年8月にドッキング、ZOZO TOWNでクロスカンパニーのアパレルを販売している。2人は良きライバルであると同時に盟友でもある。前澤はネットの分野で、石川は実店舗の分野で活躍するだろう。それを最も楽しみにしているのが柳井である。

一覧を見る