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【ベンチャー三国志】Vol.30

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

正真正銘の理系出身のベンチャー企業家

正真正銘の理系出身のベンチャー企業家

(企業家倶楽部2015年1・2月合併号掲載)

【執筆陣】徳永卓三、三浦貴保、徳永健一、相澤英祐、柄澤 凌

人生は成功の道を一直線に行くより、逆境あり、順境ありの方が変化があって面白い。インターネット総合研究所所長の藤原洋は大学卒業後、大手企業に入社、そのあとアスキーというベンチャー企業で11年間を過ごした。そして、ベンチャー企業を設立、上場して「時の人」になった。さらに、M&Aでつまずき、塗炭の苦しみを味わった。波乱万丈のベンチャー企業家人生を紹介しよう。(文中敬称略)

孫正義とともに「日本の宝」

 ブロードバンドタワー社長、インターネット総合研究所所長の藤原洋は本格的な理工系出身のベンチャー企業家である。

 1977年3月、京都大学理工学部を卒業した正真正銘の技術系ベンチャー企業家。インターネットにも造詣が深い。このほかエネルギー・原子力分野にも詳しい。少年時代は天文学にも興味を持ったという。ソフトバンク社長の孫正義とともに「日本の宝」である。

 1996年12月にインターネット総合研究所を設立し、3年後の1999年に株式をマザーズに上場した。時価総額は一時、1兆円となり、インターネットの星となった。その後、大事件が起こり、辛酸をなめた。たいていの企業家はここで消えていくのだが、藤原は持ち前の明るさと粘り強さで現在でもブロードバンドタワーという上場企業の社長として、活躍している。

 藤原は還暦(2014年9月26日)を迎えた時に、「デジタル情報革命の潮流の中で」(アスペクト刊)という自分の半生記を上梓した。同書をひもときながら、藤原のベンチャー企業家の足跡をたどってみよう。

 少年時代は漢文に興味を持ち、孔子の「論語」の価値観に共鳴した。「吾十有五にして学に志す」と孔子様はのたもうたが、藤原少年もアポロ11号の月面着陸に感動し、宇宙物理学を学ぶため、京都大学をめざした。

日本IBMに入社3か月半で辞める

 京都大学を卒業したあと、すぐにベンチャー企業を設立したわけではない。まず、最初は日本IBMに入社した。当時の日本IBMは営業職しかなく、コンピューターの設計などの技術的な仕事がなく、3カ月半で日本IBMを退社した。

 次に就職したのが、日立エンジニアリング。京都から常磐線の日立駅に下り立った藤原は「子供の頃、転校生として感じたとき以上の寂寥感に包まれた」と半生記に書いている。

 当時の日本の電機業界はアメリカのIBMに追い付き、追い越せの掛け声のもと、土日もなく働いた。藤原は親会社の日立製作所に出向、二等兵より下の見習い兵として、それこそ、土日もなく、平日も朝8時から夜は11時ごろまで働いた。今だったら、ブラック企業として槍玉にあがっていただろうが、1970年代の日本はそれが当たり前の勤務体制だった。 
 25歳から27歳にかけては原子力制御の仕事につき、福島原発第二発電所の設計にも携わった。日本代表として、アメリカにも出張した。藤原は日立でベンチャー企業、フィールドネットを立ち上げた。

西和彦との出会い

 そして、ベンチャー企業家の元祖西和彦と出会う。西は藤原より1つ年下だが、すでにアスキーを設立、パソコンの天才として名声を博していた。当然、西の方が格上だった。西は「ビル・ゲイツ(マイクロソフト創業者)に紹介するから、1人で来てほしい」と誘いをかけた。藤原をスカウトするつもりだった。

 企業家はある意味では、スカウトマンである。有能な人材がいれば、「一緒に仕事しないか」と誘う。孫正義はSBIホールディングス社長の北尾吉孝を野村證券から引き抜いた。米国ではライバル企業のナンバーツーを引き抜くのは日常茶飯事だ。

 西は藤原を誘った。「先日、フィールドネットの話を聞いたが、うちに来てコミュニケーション事業をやらないか。ビルも望んでいる」と口説いた。企業家は口説き上手だ。

 藤原は興奮した。天下のビル・ゲイツと西和彦から誘われたのだ。しかし、すぐに日立を辞めるわけには行かない。フィールドネットが作ったLAN製品がヒットしているうえ、フィールドネット関連の部下もいる。リーダーである藤原が抜けるわけには行かないのだ。藤原は悩みに悩んだ。しかし、次第にアスキーに惹かれていく。

アスキーに入社
 85年2月に入社することになった。それから約11年間、藤原はアスキー社員として西らと仕事をした。この11年間、果たして藤原にとって幸せであったかは疑問だ。

 西はパソコンについては、素晴らしいセンスとアイデアを持っていたが、経営者、西和彦となると、やや疑問符が付く。独裁者の性格が強く、郡司明朗、塚本慶一郎の創業仲間とよく衝突した。結局、郡司、塚本の2人は西と意見が合わず、アスキーを去った。

 西は社長として孤軍奮闘したが、武運つたなく破れ、最後はCSK社長の大川功に助けを求め、CSKの傘下に入った。

 藤原は明るく、調整型の人間で、西と郡司、塚本の間に入って、仲を取り持った。藤原は日立という大手企業のマネジメントでもまれ、バランス感覚があったが、アスキーというベンチャー企業で苦労した11年であったと思う。

 しかし、11年間の忍耐力があとで効いて来る。それはずっと先のことだから、まずはアスキーでの11年間を見てみよう。

 藤原の上司となる西和彦は85年当時はアスキーの副社長をしていた。藤原は西副社長が担当するマイクロソフト極東本部に配属され、西から①第3電電の創設②パソコン放送の事業化③テレビ会議(動画像圧縮)の研究を言い渡された。 
 85年はベンチャーの雄、稲盛和夫が電電公社の千本倖生を誘って第二電電を設立した年である。通信の自由化が始まった年に、藤原はアスキーに入社した。ベンチャー企業が溌剌と活動をし始めた頃である。 
 85年当時の西は藤原にはどう映っていたのだろうか。西は先見の明があり、次々と新規事業を発案した。たとえばパソコン通信。87年4月にニフティーサーブが商用サービスを始める前に社内では「アスキーネット」を始めていたが、商用化しなかった。

 パソコン通信が塚本所管の出版局などに属していたため、西が遠慮したのではないかと藤原はみる。独裁者、西としては大人しい気もするが、そんな配慮も見せたのである。

 同時に、西は信念を持っていた。「世の中を変えるのは自分でありたい」と。身近にいた藤原には西の思いがひしひしと伝わってきた。

内紛勃発

 藤原は85年2月から96年までの11年間アスキーに在籍したが、10年間は国策会社に出向し、MPEG関連技術の開発に没頭していた。ところが、アスキーには大変な騒ぎが起こっていた。内紛である。

 アスキーは西、郡司、塚本の3人のトロイカ体制でスタートした。才気煥発の西を郡司と塚本が引き止めるという図式で何とかバランスを保ってきた。87年4月、郡司が会長に、西が社長に就任、マイクロソフトから独立し、89年9月にジャスダックに店頭登録して業績を拡大した。 
 91年、郡司と塚本は取締役会で西の退任を迫った。「西社長は独走し過ぎる」と批判、最後通牒を突きつけた。西が社長に就任してから91年までの約5年間は、日本経済そのものがバブル景気にわき、各社とも不動産投資などに狂奔していた。西も本業以外の映画事業に数10億円も投資するなど、拡大路線を続けていた。

 これに危機感を抱いた郡司と塚本は西の独走を止めにかかった。つまり社長解任である。2人が特に危険と感じたのは総額2000億円にのぼる「築館エアー・ソフトキャンパス・プロジェクト」だ。

 同プロジェクトは宮城県築館町の工業用地56・5ヘクタールを買収し、IT関連企業を中核にした未来都市を創ろうという構想で、ジェット機も離発着できる2000メートル級の滑走路を備えた空港建設も含まれている。総額2000億円のビッグプロジェクトで、90年には地主とアスキーの間で進出覚書も交わされた。

 この計画を阻止するため、創業者仲間の郡司と塚本は社長解任動議を提出した。理屈では郡司、塚本に分がある。

 ところが、釈明に立った西は能弁だった。西の前では郡司も塚本も敵ではなかった。他の取締役は演説を聞いて、西に軍配を挙げた。逆に郡司と塚本がアスキーを去ることになった。

 しかし、アスキーは2人の創業仲間を失った上、バブルが崩壊し、93年3月に予定されていた160億円の転換社債の償還が出来ず、窮地に陥った。その後、協調融資が実現、虎口を脱したが、人的消失は大きかった。その結果、藤原は93年6月の定時株主総会で研究開発取締役に就任した。38歳の時である。 


藤原、社員集会で演説

 その後、ゲームブームなどが訪れ、小康を保っていたが、96年春、また、小島ら取締役陣から西社長退任要求が出された。ひとことで言えば、「西社長は独断すぎる」というのだ。西は先見の明はあるのだが、人間関係があまり得意ではない。ピュアな人柄で思ったことをすぐに口に出す。俗に芝居が出来ないのである。トップに立つ者はときに冷静だが、怒った振りをしたり、反対に怒っている時に笑顔になったりしなければならない。西はそれが出来ない。率直なのである。

 中立な立場にいた藤原からみると、西と小島ら4取締役には、価値観の違いがあった。

 西は技術重視で半導体への投資にも熱心だった。一方、取締役陣は出版などのメディアに興味を持っていた。「結局、双方の価値観の違いが内紛へと発展したのではないか」と藤原は振り返る。

 小島ら4 人の取締役は全社員800人中600人の辞表を取りまとめて、「あなたが社長を辞めなければ、600人で別の会社をつくる」と西に社長退任を迫った。

 そこで、藤原が仲裁役になったのだが、地下一階で開いたヤジと怒号が飛ぶ全社集会で藤原はこう演説した。

「今回の騒動の発端となった役員会決議に関して、私だけが中立の取締役です。皆さんから見れば、このような騒動の原因をつくった西さんは、社長失格かもしれません。しかし、西さんは創業者であり、西さんがいなければ、アスキーは存在しなかった。そして、小島さん、宮崎さん、塩崎さんたちもアスキーの屋台骨を支えてくれた素晴らしい人たちです」と前置きして、切り札を切った。

「けれども、今回、小島さんたちが皆さんとともにアスキーを辞めて、新会社を作ろうとする行動は株主に不利益となる会社法違反の特別背任の罪となります」と爆弾発言をした。

 この藤原の発言でいきり立っていた社員たちは凍りついた。「特別背任で、罪に問われるだって!」。社員たちは会社法違反になる、法律を犯すということは考えてもいなかった。不意をつかれたと言っていい。

「法的リスクを取らせてはいけません」

 藤原は畳み掛けた。「皆さんは日頃から尊敬している小島さんたちに法的リスクを取らせてはいけないのです。だから、ここは皆で我慢して、もう一度、社員一丸となって頑張りましょう」

 ヤジや怒号は収まった。藤原の説得が奏功したのだ。その後、6人の事業部長と藤原はアスキーの主取引銀行である日本興業銀行と何度も会合を持ち、6人の事業部長は辞めないことになった。

 同時に西の独走を防ぐため、カンパニー制を導入し、6人のそれぞれのカンパニーの社長と西で構成する「エグゼクティブボード」を設置した。

 集団指導体制は裏を返せば、無責任体制である。

 ある時、西はパーティーでソニー会長の大賀典雄から「カンパニー制は会社を傾かせるぞ。気をつけた方がいい」と忠告を受けた。

 案の定、ほころびが出てきた。6つのカンパニーのうち、売り上げの大きかったのは出版部門の「インフォメーション・カンパニー」、ゲームソフトの「エンターテイメント・カンパニー」、教育事業の「エデュケーション・カンパニー」、パソコン通信の「ネットワーク・カンパニー」の4社。各カンパニーは勝手に規模拡大に向けて、走り出した。

アスキー赤字で崩壊に向う

 まず、出版事業。創業20周年記念事業として創刊した「週刊アスキー」で20億円の赤字が出たほか、各書籍の部数拡大などで合計40億円の赤字となった。

 ゲームソフト部門でも赤字が約50億円出て、出版とソフト部門両方で90億円の赤字となった。大賀の忠告が現実となった。

 それ以前にCSKの大川功から100億円増資してもらっていたが、90億円の赤字で一瞬のうちになくなった。このあと、アスキーは崩壊して行くのだが、崩壊の過程は本欄の第14回で詳しく書いているので、参照願いたい。

 さて、藤原であるが、いよいよインターネット総合研究所を設立して、企業家、藤原洋が誕生するのだが、同研究所を設立するときもひと波乱あった。次回はインターネット総合研究所設立のいきさつあたりから、始めることにしよう。

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