会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2009年10月号掲載)
「創業は易く守成は難し」。
新たに事業を興すよりも、その事業を維持し発展させるのはさらに難しいと言われている。では、「創業」の精神を受け継ぎ、事業を守る「守成」のマネジメントとは如何なるものか。第一回は「創業理念」をテーマに、パナソニックの守成に迫る。 (文中敬称略)
パナソニックの文化大革命
「日本で創業者の存在が最も大きい企業はどこでしょうか」と尋ねると、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助が設立したパナソニック、と答える人は多いのではないだろうか。そのような企業文化の強い会社で、「文化大革命」が進行している。2008年10月1日に松下電器産業から「パナソニック」へ社名を変更。09年9月に三洋電機買収が完了し、日本最大の電機メーカーになる。
社名変更と“Panasonic”ブランドへの一本化について大坪文雄社長は次の点を強調する。
「社名変更とブランド統一の目指すところは、“Panasonic”という一つのブランドの下で、グループがさらに強く結束すること。そして、ブランドの価値を向上させることです。永年お客様、お得意様にご愛顧いただき、共に築いてきた松下電器という名前(社名)、“National”というブランド、これらは単に私たちだけのものではございません。それだけに、私どもにとりまして、手放すことは大きな決断であると思っております。逆に申しますと、手放すもの以上の価値をこれから力強く生み出していく責任があると考えております。社名を変えても、経営理念(創業者・松下幸之助の創業理念)、すなわち、いつの時代もわが社は社会に貢献する事業を行うためにあるという考え方をしっかりと受け継いでいこう。そして、世界中のグループ社員全員が心を一つにして、これまで以上にお客様に喜んでいただけるよう全力を尽くそうと、社員全員と確認しあったところでございます。世界トップクラスのブランド力を備え、グループ全体が強い絆で結ばれた真のグローバル“Panasonic”の実現を目指してまいります」
この発言には、もちろん、「破壊と創造」を標榜し「経営理念以外はすべてを変える」と宣言した中村邦夫前社長(現会長)と同様、経営理念は死守するという強い意志が感じられる。同時に、グローバル・シフトする“Panasonic”の新しいマーケティング・マネジメントに注目してほしいという思いがあったと推察できる。
戦後に限定しただけでも、社名とブランドを統一するため社名変更した事例は意外に多い。その中には、立石電気からオムロン、早川電機からシャープ、といったケースに見られるように、設立時の社名に創業者の姓が含まれていた企業が少なくない。トヨタ自動車の創業者はいうまでもなく豊田(とよだ)喜一郎だが、社名とブランドは「トヨタ(“TOYOTA”)」と発音している。では、いずれも社名に創業家の名前をそのまま取り入れなかった結果、経営理念を放棄してしまっているだろうか。決してそのようなことはない。創業者の経営理念を継承するだけでなく、時代の変化に合わせて現代的解釈を試みた。その上で、社名とブランドを一致させるマーケティング・マネジメントで大きな成果をあげている。
海外事業強化を打ち出し、ヨーロッパに向けて薄型テレビを生産するパナソニック
(チェコ工場)
三洋電機の里帰り
社名変更で名実ともに変わろうとしたパナソニックは今回の買収により、三洋電機が得意とする二次電池、太陽電池、業務用機器などを新しい事業の柱とし世界シェア首位を目指す。環境の世紀において存在感を高めようとしている。
「我々は成長の四本柱であるアプライアンス(白モノ)、ブラックボックスデバイス、カーエレクトロニクス、それからデジタルAVを「ABCDカルテット」と呼んでいます。これにエネルギーを加えようということで、「総エネ、畜エネ、省エネ」という呼称を加えました。三洋の買収で、エネルギー、環境という大きな柱をつくることができます。また、事業全体にエネルギーという横串を通すときも、三洋の子会社化というのが大きな力になりますので、5000億円前後のお金を出して買収する価値は十分にあります。三洋の買収で、パナソニックの将来の成長戦略は極めて具体的に描き易くなります」
ところで、三洋電機は創業以来62年目にして「里帰り」することになる。というのは、両社には「特殊な関係」があるからだ。
三洋電機(本社・大阪府守口市)は、松下電器産業(現パナソニック)の創業期以来、松下幸之助の薫陶を受け、同氏の右腕として活躍した井植歳男により、第二次世界大戦終戦直後に設立され、同社はパナソニックとは似て非なる道を歩む。ソニーと同時期にトランジスターラジオを商品化し、その後「洗濯機ベンチャー」として注目される。脱総合家電を標榜し、二次電池(充電できる電池)や太陽電池などで存在感を高めたが、近年、業績が悪化し金融団に経営権を握られ、過去の成功が信じられないほど社内に混乱が生じる。そして、買収に名乗りを上げたのはパナソニックだった。まさに「歴史の皮肉」を絵に描いたような買収劇である。
歳男の姉・むめのの夫である松下幸之助が、勤めていた大阪電灯をやめて大阪でソケット工場を始めていた。
1917(大正6)年6月、歳男14歳のときである。幸之助が「歳男君もこないか」と誘ってくれたのだった。歳男は大阪・鶴橋に住んでいた幸之助を訪ねた。実業界という未知の大海原に飛び出した井植歳男が、はじめて出会った男が、松下幸之助だった。幸運を招く運命の出会いである。1945(昭和20)年8月15日、終戦。松下電器の経営陣は軍需から元の民需主体の事業へと転換し、再建は順調に進むのではないかと思っていた。ところが、GHQ(連合国軍総司令部)が指定した財閥や軍需会社の幹部に対する公職追放処分を受けることになったのだ。経営者は一人だけ残っても良いが、その他は全員が追放されるという一大事である。
ある朝、歳男は社主室の前で松下幸之助の出社を待っていた。そして、幸之助が席につくなり、歳男はこう切り出した。
「この際、私が辞任しようと思います。どうかお許し下さい。大将だけは残ってください。松下電器は大将あっての会社です」
こうして歳男は松下電器を去る。1946(昭和21)年12月、歳男43歳のときだった。そして翌年、「焼け跡派ベンチャー」三洋電機制作所(現・三洋電機)を創業した。
その後、三洋電機は同時期に産声をあげた「焼け跡派ベンチャー」のソニー(当時・東京通信工業)とは対照的にOEM(納入先ブランドによる生産)に重きを置いた経営戦略を展開していく。一方、洗濯機のヒットにより急成長し、家電ブームに乗りグローバルなビッグビジネスを展開する大企業になる。2代続き専門経営者を社長に据えたが、創業者、その兄弟、親戚、子息が実質上のトップを務める世襲経営が続く。
社外取締役を務めてはいたものの経営経験のないテレビ・キャスターの野中ともよ氏をCEO(最高経営責任者)に据えたが経営が急速に悪化し、コンプライアンスに関わる不祥事、製品事故などが多発する。
その後、3000億円の巨額増資に応じた米ゴールドマン・サックス・グループ、大和証券BCプリンシパル・インベストメンツ、三井住友銀行の金融団が完全に主導権を握ったが、買収を決断したのは本社が隣町(大阪府門真市)にある「親戚」のパナソニックだった。
しかし、親戚であっても家風は異なる。ご先祖様の教えを子孫に伝えている家もあれば、そうでない家もある。同じように企業でも、創業者の経営理念にどの程度関与しているかで、企業統治力は変わってくる。
君臨すれども統治せず
大坪社長は買収交渉の過程で三洋電機の幹部と話す中で、経営理念に対する姿勢の違いを感じたと言う。 「パナソニックの場合、ずっと大事にしてきたのが、幸之助創業者の経営理念です。これはパナソニックの中に、ほんとうに大きな動脈として脈々
と流れています。そういったことを新入社員でも、中堅幹部でも、あるいは役員クラスでも、いつも、どこかで、創業者、経営理念というものを意識しているわけです。これは想像ですけども、三洋電機はパナソニックほど、そういう寄って立つものがなくなっていたのではないでしょうか。それは、佐野(三洋電機)社長、中村会長、そして私の三人で、ほんの短時間話をしたとき、中村会長が『パナソニックが創業者の経営理念があり、すべての価値観がそこに集約されています。困ったときはそこに立ち戻り考えます。我々はこれからも大事にしていきたいんです』と話されました。もともと幸之助創業者が事業を始められたときに、奥さんを入れると実質的には二人が井植家です。ですから、同じような創業時の知識を持っておられるのかなと思っていたのですが、パナソニック側が知るような歴史的な認識というのはお持ちではありませんでした。佐野社長は、中村会長の話を聞き感心しておられました。パナソニックでは、今も入社した直後の導入教育で、創業者の経営理念について徹底的に教えていますので、そういう人はいないと思いますね」
創業家とサラリーマン経営者(専門経営者)の関係がなんだかんだという矮小な議論をしている時代は終わった。世界から見れば「井の中の蛙」である日本のマスコミが内向きな報道をしている間に、世界市場はドラスティックに動いている。中でも技術革新が激しく、外国企業との熾烈な競争にさらされている業界においては、不毛な議論をしている間に追い抜かれてしまう。人間と動物の大きな違いの一つは理念を持っているか否かである。
三洋電機では先述した紆余曲折の末、創業家による世襲経営が終わった。会社そのものも買収される。近い存在であると思われていたパナソニックは、創業家による直接的な統治に別れを告げ、君臨すれども統治せずというスタイルに移行した。三洋電機は世襲経営を続けたから失敗した。それに対してパナソニックはサラリーマン社長が主導権を握ったから大胆な構造改革に成功したという短絡的な説明が散見される。そうではない。パナソニックは創業者の経営理念を守り続け、三洋電機はそれが稀薄になっていた。これこそが両社の命運を分かつ要因であったと言えよう。