MAGAZINE マガジン

【ベンチャー三国志】Vol.34

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

エニグモ、颯爽と登場 ネットを駆使して国際マッチングビジネス「バイマ」を展開

(企業家倶楽部2015年12月号掲載)

【執筆陣】徳永卓三・三浦貴保・徳永健一・相澤英祐・柄澤 凌


須田将啓と田中禎人の2人の青年企業家は2004年2月にエニグモを設立した。紆余曲折を経たのち、2012年7月に念願の株式上場を果たした。2015年1月期の売上高は22億8500万円、経常利益は12億円を計上した。「やんちゃであれ!」が須田の掲げる旗印。上場直前にサハラマラソンに出場、周囲をハラハラさせた。どこまで、やんちゃ経営を貫き通せるか。(文中敬称略)

 しばらく、孫正義から離れて他のIT社長を紹介しよう。

 エニグモ代表の須田将啓。エニグモはネットを活用して、世界のファッション製品を購入、欲しい人に売るという、マッチングビジネスをしている。バイヤー(代理購入者)は123ヶ国に7万人いる。会員(品物の購入者)は257万人おり、エニグモは双方から購入代金の5%を手数料として頂く。

 2015年1月期の売上高は22億8500万円、経常利益は12億円で前期比40%伸びている。

 須田は2000年に慶應義塾大学院理工学研究科計算機科学専攻修士課程修了、大手広告代理店の博報堂に入社した。このまま博報堂に留まれば、社長は難しくとも、取締役にはなれたであろう。出世コースは約束されていた。

2人で博報堂を辞め、独立する

 ところが、02年12月25日の夜、人々がジングルベルを唄っているとき、同僚の田中禎人(前エニグモ共同最高経営責任者、13年4月に退社し米国に在住)と独立を話し合った。田中がアメリカの友人から聞いたエニグモの原案を話し合ったのだ。

「アメリカで流行っているニュービジネスがあるんだって。どんなビジネスだい」と須田が聞く。田中が答える。「アメリカなら3万円で買えるサーフボードが日本では10万円だ。アメリカ在住の人に購入を頼んで送ってもらえばずっと安く買える。このようなニーズを満たすサイトを作れば、新しい市場を開拓できる」

 早速、2人で独立しようということになった。03年は暇を見て、2人で独立作戦を練った。

「社名はどうする。謎(エニグマ)という言葉をもじってエニグモというのはどうだろう」

「資本金はどうする」

「6000万円あれば足りるだろう」

「友達から出してもらおうか」

「そうしよう」

 こうして、2人の独立が決まった。

子供時代からニュービジネス始める

「謎の会社、世界を変える。エニグモの挑戦」という須田と田中の共著がある。2人はどんな子供時代だったのだろうか。まず、須田から。

「小学校の頃、ペットのレンタル業をやったことがある。…とあえて仰々しく書いてみたが、本当はすごいくだらない内容だ。

 小学校3~4年生くらいの頃、ノラ犬やノラ猫を餌付けして、近所の子どもに1日100円で、貸してあげていたのだ。別にお金を取るつもりはなかったのだが、みんな欲しがるので、制限をつける意味で、1人100円にしたのだと思う。数時間経つと、犬も猫も勝手に戻ってくるので、翌日また貸してあげる。こちらの負担は最初の餌付けだけ。そんなビジネスモデルだ。毎日300円くらい手に入ったので、駄菓子屋で豪遊していた。

 今思えばかわいいものだ。ちなみに、一週間くらいでいろいろな意味で破綻した。子どもの興味は移ろいやすい。ノラ犬もどっかに行ってしまった。金使いも粗くなっていた(300円だが……)。超スモールビジネスだが、人生で初のビジネスとして、よい体験と思い出になった。

 と、このように子どもの頃から、心の中にあるいろいろなアイディアを形にして、世に送りだすことが好きだった。一言でいうと、企画好きなのだと思う。それで広告業界にとても興味があり、小学生のときの日記に『大きくなったら電通かハクホウドウに入りたい』と書いているような子どもだった。高校時代はテレビ局のプランナーコンテストに応募したところ優秀作に選ばれ、プロデューサーに高校生で入選したのは初めてと驚かれた」

 須田には小さい頃からビジネスの才能があった。

 田中はどんな子供時代を過ごしたのか。

「最近よく、『いつから起業しようと思ってたんですか』と聞かれる。正直いって覚えていない。だが、物心がついたときには『いずれは起業する』と決めていた。自分にとっては、起業することが、ごく自然な流れだった。

 中学二年の途中までシカゴで育った。もともと父親が歯科材料の研究者で、研究の成果を商品化し、歯科医や歯科技工所に卸す会社を経営していた。その関係で、一家そろってアメリカに住んでいた。父の仕事を継ぐことを将来の前提に考えたことはなかったが、父親が経営者だったことは、『将来は起業する』と幼い頃から当然のように考えていたことに、潜在的に影響していると思う。 
 13歳の夏に、日本に戻り、公立の中学校に編入した。アメリカの学校と違い、教師が生徒に対して生活の指導をすることが妙に窮屈に感じた。『なぜ学校が生活にまで口を出すんだろう』と不思議だった。そんな中でも自由にしている、あまり真面目ではない同級生たちと仲よくなっていった。カルチャーショックは多少あったが、友だちができたことで日本社会にも溶け込め、すぐに 『日本も面白いな』と思うようになった。

 中学時代に仲がよかったまわりの友人は、ほとんど高校に行かなかったが、自分は帰国子女が多く通う、東京学芸大学附属高校大泉校舎に入学した。入学後は、学校の友だちより、中学時代の友人と遊ぶことが多かった。

 学校では有名大学に進学することを当たり前と考えている同級生と机を並べ、放課後はパンチパーマをかけているような連中と過ごした。学校から帰ると、親友が刺されて集中治療室に入院していたこともあった。今思うと、いろいろな価値観があって当たり前という考えを強くした時期だったかもしれない」

 2人は翌々年04年2月にエニグモを設立した。「すぐ、IPO(新規上場)して、100億円の売上は堅い」と2人は胸算用した。

いきなり、落とし穴にはまる

 しかし、いきなり落とし穴が待っていた。なんと、システム開発を依頼していた会社の担当者からサイトオープン1週間前になって「オープン出来ません」と連絡があったのだ。

 寝耳に水とはこのことか。あってはならないことが起こってしまったのだ。挙句の果てには、そのシステム会社の社長が夜逃げしてしまった。「友人から出してもらった貴重な金と時間を無駄にしてしまった」と須田は歯ぎしりする。

 IT企業にはよくあることだ。ゲーム大手のDeNAも創業時、サイトオープンが出来ず、暗礁に乗り上げたことがある。大体、システム開発会社は中小企業が多く、技術が未熟な場合がある。

 IT企業でも社長や取締役陣が文科系だと、サイト開発を他社に頼む。そうすると、DeNAやエニグモのように落とし穴に落ちる。

 幸い、エニグモは大手企業と契約を交わしていたため、カネは後で取り返した上、知人から福井にある大きなシステム開発会社を紹介された。そして、05年2月、サイトオープンにこぎつけた。「焦った。もし、サイトオープン前に同じようなコンセプトのサイトがオープンしたら、どうしようと思った」と須田は述懐する。

 やっとサイトオープンにこぎつけたものの、最初の客は社員の親戚であった。初めて赤の他人が買ったのは、あさり貝だった。締めてまともな売上は6000円の香水で「こんなはずではなかった」と2人はホゾを噛んだ。この結果、わずか500円弱のカネしか手元に残らなかった。

 IPOどころではなかった。このままでは早晩、倒産する。2人は頭を抱えた。転機が訪れたのは06年8月のことだ。アメリカのファッションブランド、アバクロンビー&フィッチ(アバクロ)が売れ始めていることを知った。須田は思い切って「海外ファッション製品と女性に特化すれば、売れるかも知れない」と思った。闇夜の中で一条の光を見たような感じだった。

 バイマ事業はサービス開始から3年半で単月黒字化するところまで育ってきた。エニグモは「海外ファッション」と「女性」に集中して、金脈を掘り当てたのだ。

リーマンショックで万事休す

 しかし、株式上場するには、倍の収益が必要だった。そこで、営業人員を増やしていった。徐々に固定費が上がり、損益分岐点を超えた。そこへ、08年9月、リーマンショックが起きた。万事休すである。

 リーマンショックでどれだけ多くの企業が倒産したことか。社歴の浅い多くの企業が倒産した。エニグモも例外ではなかった。あと半年で資金ショートが現実のものとなった。

 須田たち経営陣はリストラを決断し、大阪支社の閉鎖と広告事業からの撤退を決めた。さらに人員合理化にも着手した。一人ひとりに会って、事情を説明し、退職してもらった。

 「経営者として、一番辛い決断だった」と須田は語る。株式上場を目指すあまり、社内の雰囲気も窮屈なものになっていた。エニグモらしい「やんちゃ」がなくなっていた。一度、上場を忘れ、働き甲斐のある最高の会社にしようと誓った。社風優先の組織に戻った。


やんちゃであれ

 エニグモには「エニグモ7」という経営理念がある。社風を大事にする企業といえるだろう。エニグモ7を紹介すると、第1に挙げているのは「やんちゃであれ!」。第2は「仕事に美学を!」。第3が「本質を掴め!」。以下「オープンに!」「リアルを追え!」「結果にこだわれ!」「限界をやぶれ!」と続く。

 いかにもベンチャー企業らしい。若さがあふれている。この「エニグモ7」は須田が作ったという。この中で「やんちゃであれ!」を真っ先に持ってきたのが須田らしい。ベンチャーはまず、常識を破らなければならない。

 思えば、エニグモはこれまで様々な事業モデルを世に送り出してきた。面白そうならまず、挑戦する。須田は言う。「まずは飛び込んでみて、スモールスタートしてみる。センスさえ良ければ、食べていけるような社会を創りたい。世界中に旗を立てよう!」

 2012年、上場直前にサハラマラソンにエントリーしたこともある。砂漠でのマラソンは過酷である。ほとんどの人は「止めたら」とアドバイスした。しかし、須田はサハラマラソンに敢然と挑戦した。

 須田は出場する以上は徹底的に準備する。ズシリと重い荷物を背負って、練習する。中途半端なことはしない。「やんちゃな」うらには用意周到な準備をしているのである。

 7つのカルチャーを合わせると、「良いヤツ」になるかもしれない。社員同士、時にはぶつかりあうこともある。しかしそれは、真剣な議論が白熱するあまり生じるもの。そうした情熱は「良いヤツ」の条件の1つである。

 また、一緒に仕事をしたいと思えることも「良いヤツ」の条件だ。「ビジネスは感情を出さずに行なうものだという意識が一般的だが、感情のパワーこそ大事」と須田は考える。

バイマ事業に特化1年半でV字回復

 広告事業からも撤退し、バイマ事業に経営資源を集中させた結果、わずか1年半で業績はV字回復した。2012年7月24 日、念願の株式上場を果たした。

 5年後の目標を流通額170億円から1000億円に引き上げたのもこの頃である。その内訳は主力のバイマで800億円、スマートフォン向けファッション写真共有機能にバイマのショッピング機能を追加したアプリ、ステューリオで約200億円を見込む。バイマの認知度は現在15%~20%程度だが、将来70%から80%に上げ、新規会員を増やす。

 海外向けにも力を入れている。2013年7月に英語版バイマ「アベニューケイ」をサービス開始したのに続き、同年12月には、韓国版バイマ「バイマコリア」も開設した。

 さらに、海外の書籍を世界中の翻訳者が母国語に翻訳し、電子書籍として購入できる「バイマブックス」もサービス開始した。個人の翻訳者が自分の好きな書籍を翻訳し、世界に紹介する。その書籍が売れれば、翻訳手数料が振り込まれることになっている。

 2015年度上期は売り上げ11億9800万円、経常損失4500万円と赤字だった。「来期以降のために、2015年は先行投資の年にしたい」と須田は言う。メディアの買収なども考えているという。来期のV字回復に期待しよう。

 須田は鼻柱の強い経営者だ。若い頃の孫正義に似ている。ポスト孫正義としては、三木谷浩史、藤田晋、前澤友作らがいる。須田もまだ小粒だが、気性的には名を連ねるかもしれない。今後の成長が楽しみな企業家である。

一覧を見る