会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2010年4月号掲載)
事業を維持し発展させていく上で、「後継者選び」は企業経営の要諦となる。任天堂の後継者として、外様から社長に抜擢された岩田聡氏は数々のヒット商品を生み出し、任天堂の快進撃を支えてきた。現・相談役の山内溥氏の最大の功績は、岩田氏を見出したことと言えるだろう。では、山内氏はどのような基準で「後継者選び」をしたのだろうか。第4回は「後継者選び」をテーマに、任天堂の創業と守成に迫る。
京都発の世界企業
2007年の夏に時価総額でソニーを抜いた任天堂が同年9月25日(日本時間)、キヤノンをもしのぎ、日本で2番目に時価総額が高い会社となった。その額は8兆3900万円。第1位のトヨタ自動車を抜こうとする、この京都企業に投資家たちの目は釘付けになった。
不況に喘ぐ他社を尻目に快進撃が続いていた同社も、2010年3月期の通期見通しは売上高1兆5000億円(前期比18・4%減)、営業利益3700億円(同33・4%減)、最終利益2300億円(同17・6%減)を見込む。とはいえ、岩田聡氏が社長に就任した初年度(03年3月期)に比べれば、売上高は約3倍、営業利益も約3.7倍と大幅に伸びた。この最大の要因は、04年発売の携帯型ゲーム機「ニンテンドーDS」、06年発売の据え置き型ゲーム機「Wii(ウィー)」のヒットである。08年1月からの1年間はWiiを1017万台、ニンテンドーDSを995万台販売し、年間販売記録最高を達成。09年3月、Wiiは世界累計で5000万台、DSは1億台を突破した。
05年11月、マイクロソフトがXbox360を発売し次世代ゲーム機戦争が勃発。ソニーのPS3が天下を取ると見られていたが、ゲーム機能の競争に走らず、ソフトの面白さを前面に打ち出し、ゲーム以外に市場を拡げていった戦略が奏功した。
日本でも京都に多くのベンチャー企業が誕生したのは、その環境によるところが大きい。老舗がひしめくこの古都では、新参者が出てくると排除しようと徹底的にいじめる。なぜなら、一般的に言って、老舗が扱う商品の市場は小さいので、一件でも新規参入してくればシェアを食われるからだ。したがって、既存の業者間で秩序を保とうとする。ところが、保守的な老舗も自分と関係のない業態であれば、一切、邪魔しようとはしない。こうした地域性が任天堂の底流に流れているのではないだろうか。
任天堂のルーツは、1889年、山内溥(ひろし)氏(現・相談役)の會祖父である山内房次郎氏が「任天堂骨牌」を創業し、花札の製造を始めたことに遡る。1912年には日本ではじめてトランプをつくり、33年に合名会社「山内任天堂」を設立した。房次郎氏が婿養子として迎えた山内積良氏も男児に恵まれず、工芸家の稲葉鹿之丞氏を婿養子にする。その長男として27年11月に誕生したのが溥氏だった。ところが、鹿之丞氏は家を出てしまう。将来、社長になる運命が決まっていた溥氏は、祖父母のもとで何不自由なく育てられた。筋金入りの「お坊っちゃん」である。
こんなエピソードがある。終戦直後、早稲田大学法学部へ進学した。街は焼け跡になり、人々は食うに困っていた頃、東京の高級住宅街に一軒家を買い与えられた。そこで一人楽しい青春時代を送っていたところ、49年、2代目社長の積良氏が突然病床に伏せ、京都へ呼び戻される。
そして、22歳にして社長を継ぐことになった。日本で初めてのプラスチック製トランプやディズニーのキャラクターをあしらった「ディズニートランプ」などで成功する。山内氏のベンチャースピリットもさることながら、クリエイティブな社員にも恵まれ、63年に「任天堂」に社名変更した後も、浮き沈みはあったものの業容を拡大していった。そうした、山内氏最大の功績は、現・社長の岩田聡(さとる)氏を見出したことだろう。
創業者の資質を持つ外様の後継者
山内氏は、後任社長の選任に当たり、世襲、生え抜き役員からの登用以外の道を選んだ。2000年、ベンチャー企業・HAL(ハル)研究所の元社長・岩田氏を経営企画室長としてスカウト、02年に社長に抜擢した。そのとき、岩田氏は42歳だった。
岩田氏はHAL研究所の設立に参加し、社長を務め経営再建に成功した経験を持つ。また、ファミコン用ソフトの開発者として、その世界では有名人であった。山内氏はゲーム・ビジネスを知り尽くし、経営経験もある岩田氏に目をつけていた。その読みは当たった。ゲーム需要が冷え込む中、04年12月、「ニンテンドーDS」を発売し、脳の活性化をテーマにした「脱ゲーム・脱子供」のソフト『脳を鍛える大人のDSトレーニング』が大ヒット。さらに06年には、「Wii」を投入し、同じく大成功した。
山内氏は人に頭を下げる必要がなかったせいか、好き嫌いがはっきりした人であり、それが表情に出る。お気に入りのコピーライターの糸井重里氏と話をしているときは満面の笑みを浮かべていた。逆に生粋の京都人でありながら、「京都の財界人とは付き合わない」、「外で飲むのは嫌いだ」と言う。「花札屋」(かるた)から、トランプ、玩具と商品の幅を広げ、ゲーム・ビジネスというイノベーションを起こした人物だけに「電機メーカーのソニーは、ゲームが分かっていない」が口癖である。そういうだけに、白羽の矢を立てた岩田氏はソフトを熟知した経営者である。
岩田氏は、1959年12月6日に北海道札幌市で生まれ、高校2年生のときに初めてプログラミングを覚える。雑誌に自作プログラムを投稿するなど、その世界では名を轟かせたマイコン青年だった。趣味が高じて、東京工業大学2年生のときからHAL研究所でアルバイトを始める。大学卒業後、同社へ入社しゲームソフト開発に没頭し、入社の翌年、ファミコン向けソフト開発に着手。京都の任天堂本社に足を運び開発メーカーとして立候補したのだった。これが岩田氏と任天堂の出会いである。当時はまだソフト開発能力が乏しかった任天堂にとって、岩田氏の申し出は渡りに舟だった。
その後、数々のヒット作品開発に貢献した。1984年、任天堂はHAL研究所に出資し、岩田氏は入社2年後の24歳で取締役に就任。ところが、92年、和議を申請し、事実上倒産する。銀行から借り入れて新拠点を建設したが、ゲームソフトの売れ行きが振るわず、財務事情が急速に悪化する。そのとき助け船を出したのが山内氏だった。開発資金を供与する条件として、岩田氏を社長にして再建に当たらせることを提示したのだった。残った負債は15億円。うまく再建できなかった場合は、岩田氏が一部を背負うことになる。自分のゲームを実現した城を潰したくないという執念が岩田氏を「過酷なゲーム」へと引き立てた。33歳で社長になるも、まさに火中の栗を拾うようなものだ。室蘭市長として財政再建に尽力した父(岩田弘志氏)の背中を見て育ったのだろうか、苦難に挑む遺伝子を受け継いでいるようだ。
幸いにも、任天堂向けにHAL研究所が開発した『星のカービィ』(92年)や『ニンテンドウオールスター! 大乱闘スマッシュブラザーズ(スマブラ)』(99年)が大ヒットした。岩田氏は「過酷なゲーム」と6年間苦闘した末、99年に「画期的なゲーム」に救われ経営再建を果たした。そして、お礼の挨拶をするため、山内氏のもとへ訪ねたとき、山内氏から任天堂入社の誘いを受けたのだった。しかし、山内氏は岩田氏のソフトに対する天才的資質を見込んだだけでなく、どん底から這い上がってきた再建屋としての手腕も高く評価していた。なぜなら、そのとき任天堂は、ソニーに押され、出直しを強いられていたからだった。
岩田氏は再び「過酷なゲーム」に挑戦してみようと考えた。2000年6月、40歳にして岩田氏は任天堂に入社し、取締役経営企画室室長に就任した。外様ゆえに社内を徹底的にリサーチし02年5月に社長になる。皮肉にも厄年に当たる42 歳のときだった。しかし、岩田氏は世の常を覆すかのように任天堂の厄をお祓いしてしまう。
岩田氏に筆者がはじめてインタビューしたのは、HAL研究所が設立されてから間もない頃である。「親は『東京工業大学まで出て、なぜ、大企業に就職してくれないんだ』と嘆いています」と話していたのを今でも記憶している。この頃、アメリカでは、アップルコンピュータのスティーブ・ジョブズ氏やマイクロソフトのビル・ゲイツ氏が脚光を浴び、日本でも孫正義氏が日本ソフトバンク(現・ソフトバンク)を設立した。コンピュータ革命の創世期であり、高校時代からプログラムを打ち込んでいた岩田氏にとっては、HAL研究所でソフト開発することが楽しくてしようがなかったのだろう。あの時の青年・岩田氏の情熱は今もまったく変わっていない。岩田氏は育てられたのではなく、試行錯誤しながら自ら成長した。つまり創業者の資質を持つ。岩田氏は任天堂の社長としては、現在進行形なので評価を下す段階ではないが、今のところ、山内氏の判断は正しかったと言えよう。
失意泰然、得意冷然
天に任せると書く社名ゆえ、人事を尽くして天命を待つ、という意味と思いきや、山内氏は「そうではない。人事は尽くせないが、努力は際限ない」という。山内氏の座右の銘は「失意泰然、得意冷然」。うまくいかなかったときは平然とし、好調なときは運に感謝して、たんたんと努力せよ、という意味である。浮き沈みの激しいエンターテインメントの世界で長い間、試行錯誤してきた長老ゆえの悟りだろうか。
山内氏の親せきに当たる人から聞いた話である。一族が集まった宴席で山内氏は次のように口にしていたという。単純に言葉を読んではいけないが、実に重い示唆である。
「今はバブルや。いざとなったら、また、花札屋に戻ったらええのや」
時価総額でソニーを抜いた頃、社員も「今は、バブルですから」と言っていた。世間の評価に浮かれていてはいけない、勝って兜の緒を締めて、を胸に刻んでいるようである。
任天堂は製品発表などの商品広報には熱心でも、山内氏や岩田氏はあまりメディアには顔を出さない。いわゆるトップ広報にはあまり興味を示さない会社である。実際、一部の媒体にしか岩田氏はインタビューに応じない。山内氏に至っては我関せずといった感じさえする。京都財界の経営者ともほとんど付き合わない。山内氏は「家で飲んだ方がいいよ。パンツ1枚でも飲めるからね」といっていたが、まさに、プライベートを明かさない芸人のごとく、芸(商品)一つで勝負しようとする「娯楽屋」の意地が見え隠れする。このような姿勢には賛否両論があるが、近年、一芸に秀で、一芸を極めるという企業の基本的活動を忘れている経営者が目につくのも一方の事実である。落語に出てくる若旦那ではないが、店が傾いているのに、世間からちやほやされて嬉しくなり、商売よりも旦那衆の寄り合いに精を出す向きも少なくない。
任天堂は工場を持たない、いわゆるファブレス・メーカーで、生産は外部に委託している。取引先に安心感を与える上でも自己資本の充実が問われる。高株価経営の背景にはそうした理由もある。そのためにも商品そのものが売れなくてはならないと考えている。皮肉にもマスコミにあまり顔を見せない山内氏や岩田氏はカリスマ性があり注目されている経営者だ。やはり、それは、他社にない商品が売れているから目を引くのだろう。これは、癌を患ったにも関わらず、退院後直後から商品発表会に顔を出す創業者でカリスマCEO(最高経営責任者)であるスティーブ・ジョブズ氏と米アップルとの関係に似ている。
アメリカ市場を育成した立役者である娘婿を後継者に据えると思いきや、自ら経験した世襲を断ち切り、商品(ソフト)がわかる人材か否かという点を大きな基準にして岩田氏を社長に選んだ山内氏の卓見は、意外にも忘れがちな後継者選びの「基本のき」といえよう。