会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。
(企業家倶楽部2013年1・2月号合併掲載)
年末にクリスマスを祝い、年初に初詣でに出掛ける。お寺で葬儀を行い、教会で結婚式を挙げる。それでいて矛盾を感じない。なんとも融通無碍である。良く言えば寛容、悪く言えば無節操。多くの日本人がこうである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など一神教の人達にはとても納得できないことである。
世界史は、宗教は多神教から一神教へ進んだと教える。多神教は遅れた民族宗教であり、一神教は、創始者も経典もあって、より進歩した宗教であるというのである。とすれば、いろいろな宗教と身勝手につきあっている日本人の宗教心は遅れているのだろうか。そもそも日本人には宗教心が欠落しているのだろうか。
だが、そんなことはなさそうである。日本のどこへ行っても、おびただしい数の神社仏閣がある。教会もある。新興宗教もある。日本人は神社の氏子であり、寺の檀家である。それに多くの家が神棚と仏壇を持っている。家の中に神社仏閣を構えているようなものである。
それにお祭りがある。全国至るところでお祭りをやっている。京都などは一年中、なにかのお祭りをやっている。山車、神輿と繰り出すものは違っても、人々はお祭り騒ぎが大好きだ。他所の神輿でも担ぎに行く。これはいったいどういうことだろうか。
八百万の神々たち
日本人の心に大きな影響をもたらしてきた教えは神道、仏教、儒教、キリスト教である。このうち、最も古い伝統を持つのは多神教の神道である。これは縄文、弥生のおよそ2万年の間に、日本人の日常生活の一部ともなった宗教である。民族宗教といっていい。
古代の人々は自然と共に生きていた。日々、自然とりわけ太陽の恵みに感謝して生きてきた。神道の最高の神が天照大神とされる所以である。そして天照大神を中心に、日本という国造りに係わりをもった数々の神がいた。それが八百万の神々である。
自然は恵みと共に災害をもたらすものでもあった。風水害、干害、地震、雷。それに人災でもある疫病、火災、盗難。災害をもたらす神もいたし、それを防いでくれる神もいた。人々はこうした災害から逃れ、福が招来されるように、神々に祈ったのである。
神は至る所にいた。日常生活そのものの中にもいた。人々は神事を年中行事の中に取り入れた。年に一度は神社の大祭を行った。豊作を祈り、収穫を神に捧げた。一生の節目にも神に祈った。赤子の宮参り、七五三、厄除けなどなどである。
時代が下がると、人々は大きな影響力を持った現実の人々をも神に祭るようになった。例えば、菅原道真、豊臣秀吉、徳川家康、乃木希典、東郷平八郎といった人々である。無名の人達も神になった。国のために戦死した人たちは靖国神社に祭られた。
現在、日本にはおよそ8万社の神社があるという。家々の神棚まで加えると、もっと多くの神社があるに違いない。日本人は自然を敬って今日に至っている。
沢山の御仏たち
永い縄文、弥生の時代を過ぎて、大和政権が誕生する。そこへ外来の宗教が入ってきた。仏教である。仏教の導入をめぐって、国内派と国際派の多少の勢力争いはあったが、国が分裂してしまうほどの重大事態には至らなかった。どちらかといえば、すんなりと受け入れた方だろう。
理由は、仏教が先進国の文化をもたらすものだったからである。仏教は当時のアジアにあっては、一種のグローバル・スタンダードであった。 仏教を受け入れることで、インド、中国、朝鮮の文化や技術を導入できた。日本は遣隋使や遣唐使を出して、中国の文物をせっせと輸入した。
仏教にはお釈迦様という創始者がいる。沢山の経典もある。一神教で理論的である。神道は多神教で創始者もなく、てがかりは『古事記』や『日本書紀』の話である、両者は明確に違う。しかし、日本人は神道も仏教も両立させてしまった。神道にはそのようなおおらかさがあった。
仏教は急速に普及した。仏教の「生老病死」の四字の教えは、素直にうなずけるものであったし、先祖を敬うことは日本人本来の宗教心でもあった。仏教は他力本願、自力本願という二つの流れを軸に、沢山の宗派を生み出した。江戸幕府は檀家制度を設けて、菩提寺に行政の一翼を担わせた。その結果、仏教は国のシステムの一部ともなった。
現在、日本の寺は約7万に上るといわれている。社寺を合計すると15万である。日本人は社寺の双方を大事にして自然と先祖を敬ってきた。平安時代には神仏習合が進んだ。明治初期の廃仏毀釈騒ぎを例外として、日本人は社寺と共に生きて来たのである。
儒教でしつけられた
宗教ではないが、日本人の人となりに大きな影響を及ぼしたものに儒教がある。儒教は孔子の教えで、その教典は『論語』である。儒教は古く漢代には中国の国教となっていた。大和政権は仏教と同じく大陸文化の儒教を輸入した。儒教は礼による社会秩序の確立を目指したので、大和政権には格好の参考となった。
儒教が日本で全国的に普及したのは江戸時代である。中国では南宋の時代に朱熹が出て朱子学を興した。江戸幕府はその朱子学を官学として採用した。朱子学は鎌倉以来の武士のありよう、いわゆる武士道を理論づける役割を果たした。武士だけでなく一般庶民も四書五経を読んで、仁義礼智信など儒教の教えを学んだ。
同じ儒教でも朱子学と違って、明の王陽明が興した陽明学も注目された。これは知行合一を唱え、知識を死蔵せず、実行を迫るものだった。門下から大塩平八郎、佐久間象山といった人達が出て、幕末の青年たちに大きな影響を及ぼした。この頃になると、若者たちは儒学にあきたらなくなり洋学を目指すようになった。明治になってキリスト教が解禁され、入信する若者たちが出てきた。
外来文化を歓迎
日本人は自然と先祖を敬う一方、外来文化を歓迎した。仏教、儒教、そしてキリスト教である。いずれも外来文化と結び付いていた。日本人は素直で、敬虔で、かつ好奇心に富んでいたといえるだろう。それが今日までの発展の大きな要因になっている。
もちろん、永い歴史の間には、いくつかの紛争、軋礫があった。一向一揆もあったし、島原の乱もあった。宗門改めもあったし、廃仏毀釈もあった。神道が軍国主義に利用される時代もあった。しかし、日本人は敗戦後も神社への初詣を見合わせるようなことはなかった。
縄文、弥生の永い時代に、多神教が根付いてしまった日本人は、一神教のように異教徒を厳しく排斥するということはなかった。例外は侵略の危機を感じた時のキリスト教に対してだけだった。それも歴史的には一時的なものだった。
西欧はイスラムの世界に十字軍を派遣したり、教理を巡って激しい宗教戦争を繰り広げたりした。法王が皇帝よりも強大だった。今日なお一神教の人達は激しく異教徒を排斥する。
宗教はハイテク時代の今日なお国際紛争の大きな一因となっている。信仰は本来自由であるべきである。信仰の違いを理由に排斥しあうことは止めなければならない。宗教紛争を宇宙にまで持ち込むようなことがあってはならない。日本人の自然、祖先への敬度な崇拝の心を世界も共有すべき時が来ているとはいえないだろうか。
P r o f i l e 吉村久夫(よしむら・ひさお)
1935 年、佐賀県生まれ。1958年、早大一文卒、日本経済新聞社入社。ニューヨーク特派員、日経ビジネス編集長などを経て1998年、日経BP社社長。現在日本経済新聞社参与 。著書に「この目で見た資本自由化」「進化する日本的経営」「本田宗一郎、井深大に学ぶ現場力」「マスコミ生存の条件」など。