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Vol.01【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

人生は創業ベンチャー経営そのものだ

(企業家倶楽部2008年4月号掲載)

眠れぬ夜を過ごす最業病

 1998年に14年間勤めた証券系VCを辞め、 独立系VCの日本テクノロジーベンチャーパート ナーズ(以下、NTVP)を設立してから10年が経 とうとしている。合計するとVC業界に四半世紀居ることになるが、既に数千人のベンチャー経営者と面談してきた。創業期のベンチャー投資の経験は数知れない独立前では調剤薬局チューンの アインファーマシーズ(旧第臨床検査センター)、北日本の介護サービス大手のジャパンケアサービ ズなどがある。 独立後ではXMLソフト開発のイ ンフォテリア(07年6月マザーズ上場)、モバゲー タウンの運営などで08年3月期連結経常利益が 126億円を見込むDeNA(05年2月マザーズ上場、07年12月東証一部)、携帯メール配信ASPのエイケアシステムズなどの創業投資支援を経験してきた。最近では創業投資で成功実績のあるべ ンチャーキャピタリストと言われるようになった。
 しかし、創業ベンチャーの世界では、毎日どこ かの投資先で実にさまざまなトラブルがに起こって日常茶飯事に起こっている。これがベンチャー経営のダイ ナミズムでもあるが、投資したVCとしてはおちおち安眠できない状態が続く。これは職業病だろう。業績が良い投資先にすら解決しなければなら ないことが山積している。今日もまた携帯電話が鳴る。毎日大量に届くスパムメールをくぐり抜け るように、投資先の経営の相談や、新規投資の依頼がメールで送られて来る。常に溢れる情報の中 で、VCは様々な事を思い、考え、相談し、対処し、そして毎日起こったことに教えられ、鍛えられる。NTVPを設立し10年になる。ゆっくり振り返ることも必要だろう。

誰かが始めなければ

 私は神仏を前にした時、お願い事をしないことにしている。代わりにこれまでの報告と、今後の地域への貢献活動を宣言する。その時に神仏を前にして素直に浮かんでくる自分の「心的な社会における活動イメージ」を大切にしている。すべての人生の活動はその人の社会イメージとそこで活動する自己イメージの投影が原点になっているからだ。良い結果も悪い結果も、善行も悪行も、社会に対する個人の心の投影だ。だから、心が良い活動イメージを持っていなければ、自然と変な方向に向かい、悪い結果をもたらす。
 人が心的イメージを育むのに最も良いのは、 実際に自分自身が体験してみること。次に、自分に近い周りに体験者が生まれることだ。
 シリコンバレーでインターネットベンチャーが次々と誕生していた97年、地球の裏側の日本では、失われた10年などと自虐的な自己イメージを持つビジネスマンが多い中、11月都市銀行の拓銀が破綻。店頭市場は最安値を更新してベンチャーの環境は真っ暗だった。景気が悪い上に日本には創業ベンチャーを投資応援する仕組みが貧困で、誰も創業したり大胆に創業投資する人はいなかった。いわんや大成功を収めた社会的実例などまったく欠いていた。だからこそ、身の回りの事例、いわゆるロールモデルが歴史的に必要だった。日本人にもベンチャーの成功が可能であることを、誰かが身をもって実証することが必要だった。
 そこでは14年のサラリーマン生活を辞め、 ベンチャーキャピタリスト事務所を実現しようとした。成績がよく、出世コースに乗っていたので、当時会社を辞める経済的理由などまったくなかった。理由があるとしたら、私費によるイスラエル旅行を経て、日本にも独立創業を本格的に支援できるVC事務所開始の歴史的必要性を痛感し、「誰か」が始めなければならないと強く確信したからだった。日本の中で創業ベンチャーを思い切り応援するVC事務所を始め、実際にベンチャー創業投資を実現し、VCとして何としても大成功して見せなければならないと誓った。
 日本で一箇所でもいい、創業ベンチャー支援が本格的に出来て、成功するVC事務所が活躍すれば、日本人の心の景色、つまり自己イメージが変わり、ゆくゆく歴史が変わるかもしれない。

行間を読む読書カ

 そもそも私がどうやってVCにたどりついたか。慶應義塾の経済学部に入学してシェイクスピア研究会に入部し、苦難の末に「テンペスト」という芝居を演出した。6カ月に渡る素人役者集団を六本木の劇場の舞台に上げるまでの苦難を乗り越える作業は、朝早くから毎日深夜に及び、青年時代の得がたい体験となった。 半年間死ぬ思いで頑張ると、小さな分野では日本一になれることも感覚的によく分かった。
 しかし、芝居では食っていけないと知り芝居の道を諦めて、2カ月ほど広尾の都立中央図書館にこも
り、経済学の教科書を3-4冊徹底的に読み込んだ。82年ごろの東西冷戦構造の真っ只中だったが、芝居の演出で行間を読む読書力を身につけていた私は、世界の経済史の中で、数十年以内に共産主義体制が崩壊することを強く直感した。経済社会は激変し、資本市場主義的創造ベンチャーが大量に世の中で活躍し、時代を牽引しなければならない世の中になると思った。ちょうどその頃、 ゼミの教授から聞いた創業ベンチャーに投資支援するベンチャーキャピタルという聞き慣れない職業こそ、私の天職とすべき一生の仕事である、と勝手に確信した。

シリコンバレーへ飛び込み訪問

 大学3年時にジャフコで市場調査のバイトを しているという情報を聞きつけ、友人と応募した。その作業の結果を届ける機会をとらまえて、ジャフコの社長室長に計画経済崩壊とVCの社会的役割について自説を展開したところ、全く相手にされなかったので、ベンチャーキャピタルという仕事は創業ベンチャーを育てるではないのではないかと不安になった。
 ちょうどそのころシリコンバレーに関する翻訳本の中に、「シリコンバレーのサンドヒルロード3000番地にベンチャーキャピタリスト事務所が集合している」という記述を見つけ、とにかく行ってみようと思い立った。慌てて自動車教習所に行き速攻で免許を取得し、生協で名刺を印刷し、格安航空チケットを手に入れて成田に向かった。
 到着したサンフランシスコ空港はたまたま凄い嵐の日で、ハーツレンタカーで借りた自動車のワイパーが水しぶきを忙しく飛ばした。フリモントの友人宅をベースに、毎日サンドヒルロードへ行った。当時はネットも携帯もないので、事前のアポイントメントもなく、すべて飛び込み訪問だった。そこでたまたま会えたベンチャーキャビタリストから、いくつかの示唆を得た。私の受験英語ではありがたいアドバイスのほとんどは聞き取れ ず、VCに重要なこととして「Human Understanding」と「Early Bird」だけが耳にはっきり残った。私はとっさに「I had directed Shakespeare Drama at Keio University!」と言ったら、そのVCは「That's it!」と応じてくれて、何となく自分の中でぴったりたと強く感じた。考えてみれば、芝居一本立ち上げるのも、ベンチャーを1社立ち上げるのも本質は同じである。ちなみに 「Early Bird」は、状況の早耳たれ、という意味であることを帰国して知った。

サラリーマンVC時代

 就職したVCで組織的に案件が通りやすいのは、社歴があってすでに数億円の利益の出ている優良未上場企業であり、全くの実績の無い創業ペ ンチャー企業ではなかった。 当時組織が求めているのは、優良中堅企業の投資上場支援案件だった。私もそういう仕事に注力した時期もある。当時の実績の中には、7年半の北海道勤務時代に投資した、帯広の有料食品スーパー「福原」や建設機械レンタルの「共成レンテム」、札幌のハウスメーカーの「松本健工」「土屋ホーム」などもあった。その支援経験の中で、私自身、数年がかりの上場準備支援、監査法人や証券会社の調整、税理士を入れての相続対策など、30歳前後でその方面の常識と提案能力、処理能力を身につけたのは事実だ。
 中堅企業投資のサラリーマン時代の中で、組織に埋もれてしまうことを恐れ、年に2回の夏休みと冬休み休暇を利用して、毎年欠かさずシリコンバレーはじめ海外視察に出かけ、日本での投資活動の肥やしにした。私費視察旅行で行ったところは、シリコンバレー、ニューヨーク、ロンドン、パリ、シンガポール、クアラルンプール、ジャカルタ、バンコク、台北、香港、深圳、マニラ、北京、上海、イスラエルである。格安チケットが普及してきて財政的には助かった。
 北海道で投資したのは、優良未上場中堅企業ばかりではなかった。また事業規模の小さい創業期投資に近い案件も積極的に採り上げようとした。87年、私が28歳のときに初回VC投資の第一臨床検センター(現アインファーマシーズ)と92年に初回VC投資のジャパンケアサービスがそれだ。いずれも当時のVC業界としては、投資時点のビジネスサイズの小ささといい、社長の年齢の若さといい群を抜いていた。
 今でこそアインファーマシーズは連結で800億円を超して、同業の合併関連で新聞紙を賑わす優良企業だが、当時の第一臨床検査センターの売上は僅か4億円程度で、大谷社長は36歳の青年実業家だった。大谷社長は夕方になると私に電話をかけてきて、「村ちゃん、コーヒー飲みに来ないか。話したいことがあるんだ」と誘い、札幌駅南口の喫茶店に行き、将来の会社経営を語った。私は大谷社長の、人を大切にし、真面目で実行力のある人柄が大好きだ。
「今規模は小さくても、積み上げていけば大谷社長は上場会社の社長となって成功すると確信している」と、私はいつも励ました。慎重な大谷社長は、困ったことや考えたことを私の前で話し、考えをまとめる相手が必要だったのかもしれない。誰も当時の第一臨床が上場するとは想像もつかない状況の中で、私と大谷社長はともに必ず上場することを強く確信してイメージを共有していた。さまざまな困難を克服して第一臨床検査センター92年(大谷社長41歳)は店頭上場した。

◆次回は、ファンドについて

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