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Vol.03【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

なぜ創業ベンチャーインフォテリアへ投資したか

(企業家倶楽部2008年8月号掲載)

ベンチャー投資の魅力

 なぜベンチャー投資が、大企業投資と比べて魅力的なのか。それは、ゼロから成長し市場ポジションを獲得するモデル自体が魅力だからだ。立ち上がりの新規領域は、リスクも大きいかわりに、最初の不確実な段階だからこそ、最先端企業になることが比較的容易だ。領域が小さいうちにいわゆるデファクトスタンダードとなり、急成長の上げ潮に乗る可能性がある。その新規創業ベンチャーも急成長後は、規模の力が働き、新業界をリードする存在として、他社に対して参入障壁が築ける。新規参入者は提携しか選択肢がなく、新リーダーとなったベンチャー企業を、提携がさらに大きなものに成長させてくれる。また、成長率が新興証券市場で評価されることも魅力の一つである。すでに規模の大きな上場企業の一部分と異なり、ゼロから発し、成長モデルが未知であるため、いったん証券市場に上場すると、成長率に対する大きな期待感から高い時価総額を実現しやすい。ベンチャーキャピタリストの投資先が上場して高い株価をつけるということは、投資回収がしやすいことを意味する。

堀場製作所創業者の「ほれやっ!」の真実

 私が日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合(NTVP)を立ち上げる頃の話になるが、個人がキャピタリストとして直接運営する創業支援型の投資事業組合など、誰も出資しないだろうと思われていた中、ある人のご紹介で、新幹線で京都に行くことになった。「堀場雅夫」という名前だけで正直なところ、私はベンチャーの発展に公私共に尽力されている人とも知らずに堀場製作所本社を訪ねた。もちろん親戚でも何でもない。

 これまで日本では、歴史的にVCを会社で組織的に展開してきたが、NTVPでは個人の私がすべてのことを判断して10年という長期にわたり直接関与すること。創業プロジェクトは市場データも何もないので、本質的に組織的審査が不可能だ。それまでの私は比較的にサラリーマンとして成功してきたが、独立後の成功を保証するものはないこと。投資回収を努力することに関しては誓って保証するが、金銭的に投資したものが回収できるかどうかは、最初の段階においてはまず「パー」になったと思っていただき、そうなってもかまわない範囲で、有限責任組合員になって参画して欲しいことを伝えた。「会社組織から独立し超然とした投資の仕方を実践するVCがいなければ、日本から創業ベンチャーが発展して来ないと考えている。その意味で、投資事業組合員も会社でなく個人で組成したいと思います。ですから堀場製作所という会社ではなく、創業者であられる堀場さん個人へ、協力のお願いに参りました」、そんなことを早口で言うと、いきなり堀場氏は気合を入れて「ほれやっ!」、「私の考えるベンチャーキャピタルのイメージに最も近い!」と言われ、かえってこちらが驚いた。

 堀場氏が個人的に応援することは珍しいことらしく、あとで経済産業省の人から、「なぜ堀場さんが村口さんの組合にお金を出したのか、親戚か何かに違いないとみなで話している」と聞いた。

インフォテリア平野社長との出会い

1998年11月日本で初めてNTVP i 1号投資事業有限責任組合の登記を完了し、六本木のタトゥー東京でささやかな組合組成祝賀会を開いた直後、ラスベガスのコムデックスへ出向き、たまたま10年以上付き合いのあった元ローカス取締役、藤森洋志氏とばったり会った。その翌月の12月末、私はその藤森氏からの紹介で、創業したばかりのインフォテリア社長の平野洋一郎氏に浜松町にある貿易センタービル地下のレストランで会った。藤森氏はロータス123の解説本や日経ソフトウェア大賞の審査員で知られたソフトウェア業界の有名人で、私のコンピュータの師匠だった。西海岸のラジオシャック(家電販売店)で発売当初のアップル社マックに触れたのも、発売したてのロータス123forマック・マルチスプレッドシートで、投資先の資本政策を自由自在にシミュレーションできるソフトを開発したのも、すべて彼の影響である。さすがに1990年ごろにファイルメーカーで投資先管理ソフトを開発し、その定義したレコードが3000を超え、ファイルの規模が一ファイルで3メガを超えた時には、藤森氏も絶句して、「これをソフトウェア大賞に応募したら優勝間違いなしだ」と、言ってくれた。彼とはよく飲みに行き、コンピュータ産業のあり方を議論した。その彼が解説本を書いていたローカスからスピンアウトして設立された会社がインフォテリアで、創業初代監査役を務めていたのであった。

XMLの将来性とWeb2.0の到来を確信する

 平野社長から短時間だがXML(eXtensibleMarkup Language 拡張可能マークアップ言語)の話を聞いた。そのとき私はソフトウェアに投資する領域はないと思っていたが、XMLの話には非常にピンとくるものがあった。そもそも私は、1994年ごろパソコン通信を卒業してインターネットに興味を持ち、日本でもまだ少なかった個人のホームページを作っていた。ニフティーのフォーラムの情報が大変役に立った。その時非常に気になったのが、ホームページのHTMLというタグで表現する形式のあまりの単純さだった。つまり、ネットの世界でHTMLがこんな単純な形式に留まる訳がない、という漠然と時代に穴が開いているような感覚があった。

 平野社長からXMLの話を聞いたとき、これがネットの時代を変える技術標準になると思った。HTMLという単なるワープロみたいな世界から、もっと高度なリレーショナルデータベース的なネット空間を立体的に創造するXMLの時代に変わることを予感した。今ではWeb2.0と言われている。この時代の大波の波頭で、インフォテリアがXMLをベースにソフトウェアを書いていくと言う。これは何かを成し遂げる会社だと確信した。

 事業計画もまだ十分固まらないままに、XML事業領域の将来性と平野氏の可能性だけで創業時のインフォテリアにいきなり4倍の株価で投資をし、元ロータスジャパン社長菊池三郎氏といっしょに社外取締役になった。1999年3月のことだ。その記者発表の席には、堀場氏も応援演説に駆けつけてくれた。平野社長を紹介してくれた藤森洋志氏はインフォテリアが大きなファイナンスを成功した2000年9月、39歳の若さで独身のまま癌のために他界。私は葬儀場の彼の棺の前で人目をはばからず号泣した。その後、苦節の末インフォテリアが上場したのは、07年6月まで待たねばならない。

エンジニアによるベンチャー起業時代の幕開け

 1999年3月17日は、恐らく日本のベンチャー史上で重要な記者会見が行われた。会見は大手町のKDDホールで50人近くの記者を集めて行われた。内容は、「昨年9月に設立されたばかりのXMLソフト開発スタートアップ会社のインフォテリアが、日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)i 1号投資事業有限責任組合等の投資を1億円受け入れる」というものだった。その席で、NTVPから運営担当ベンチャーキャピタリストの私とロータスの菊池相談役が一緒に社外取締役に就任したことを発表した。発表者は、当時35才の平野社長、ロータス菊池相談役、NTVP出資者の一人である堀場雅夫氏、私という顔ぶれだった。

 ハイテク系の記者会見らしく、コンピュータ関連雑誌の記者が押し寄せたことはもちろん、当時日本で大変珍しい景色であったのは、証券会社のアナリストなども数人来ていたことだ。まるで人種の違う(いわゆる文系と理系の)日本人が同じ部屋の中に居て、「カラフルな個人資本主義」を提唱している私としては気持ちの良い刺激だった。技術系の専門誌の記者たちにとっては、ベンチャーキャピタリストが注目して投資をしたことの重要性がピンと来ないみたいだったし、証券会社の人にとっては、まだ第一期の決算数字もないXMLという聞いたこともないインターネットの話に、なぜこんなに技術系の記者が集まっているのか理解できないようだった。その場には技術系雑誌記者、日系証券マンだけでなく、米系証券マンやシリコンバレー帰りの弁護士の顔も見えたし、通産省官僚や大学人と称する機関投資家よりの人もいて、まことにカラフルな景色を呈していた。

 何が日本のベンチャー史上重要かと言うと、独立個人のベンチャーキャピタル投資事業組合が、設立間もないハイテク開発型ベンチャー、インフォテリア(インターネットを変えると期待されたXML専業ソフト開発会社で98年9月設立)に当時株価は額面の4倍で投資し、またベンチャーキャピタリストが「投資契約」にもとづいて役員で入り、当時2年程度で株式上場を目指そうという、いわゆる「シリコンバレー型」と言われるモデルをそのまま日本で実行した点だ(実際上場には8年の歳月を要した)。また、優秀な30代のエンジニアによるスピンアウトのプロジェクトである点も注目された。そして何より重要なのは、VCが投資をした領域が「XMLという分野が今まさに立ち上がり鼻の領域で、リスクと可能性が混在している前例のないフロンティアを切り開いて行っているプロジェクト」であることだ。どこかアメリカですでに成功事例の出ている分野の真似や焼き直しをしようとしているのではない、全くオリジナルなプロジェクトであるという点だった。


著者略歴
日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代表  村口和孝 《むらぐち かずたか》
1958年徳島生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。84年日本合同ファイナンス(現ジャフコ)入社。98年独立し、日本初の投資事業有限責任組合を設立。東京を中心にベンチャー企業の創業支援、株式上場支援を行い、ベンチャーカンファレンスを開催。99年よりボランティア活動として、「青少年起業体験プログラム」を慶應義塾大学など全国各地で実施。03年より徳島大学客員教授。07年慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師。現在、日本経済新聞夕刊にて定期的にコラム執筆中。

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