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Vol.10【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

エイケアシステムズ創業物語

(企業家倶楽部2009年10月号掲載)

エイケアの発展と創業10周年
東京青山にエイケアシステムズ(有田通生社長)というネットメール配信代行ASPの会社がある。会員向け携帯メール大量送信に強みがあり、業界に無くてはならないメッセージングアウトソース企業となった。毎月約10億通のメールを配信代行している。2000年のドットコムバブルの頃とは異なり、企業が情報漏洩の危険を冒してまで自前でメール配信システムを持つ時代は去った。同業が続々撤退する途中厳しい時代もあったが、逆にメール配信に辛抱強く注力してきた当社の業績は着実に伸びた。

 ゼロから始めて創業10周年のエイケアは、現在売上げ約30億円、利益4億円、従業員200人という結構な規模にまで発展した。顧客には、楽天やアマゾン、リクルートなど有力企業が名を連ねる。ASP事業は安定しており毎月会社は成長している。創業期から見ると隔世の観があり、その成長がうれしい。私も創業時ボードメンバーの一人だった。

創業準備中の有田社長
振り返れば有田さんとは、98年の暮れに知人からの紹介で最初メルトモになった。彼は、三菱総研の企業内留学生としてテキサス大学オースチン校でベンチャー立ち上げを研究していた。99年、帰国後いろいろ構想中で相談を受けた。その時の映像が、NHK「おはよう日本」の最後の居酒屋シーンで、有田さんの後姿が映っている。ナレーションは言う。

「村口さんが狙っている新しい投資先は3件。その1つは、これから生まれる企業です。独立してインターネット関連のネットベンチャー企業を始めたいというシンクタンクの研究員に創業資金を出そうというのです。自らの判断と責任で投資する新しいVCを目指す村口さん。投資のチャンスは限りないと考えています」

 結局有田さんは会社を辞めて、ベンチャーを創業する事にした。事業領域を健康情報(薬や病院、治療など)をインターネットとビジネスを連携させることに定め、社名をヘルスケアネット(現エイケアシステムズ)にした。私がその事業構想に賛成した背景には、私が過去に投資を担当して成功した第一臨床検査センター(現アインファーマシーズ)や、ジャパンケアサービスが挑んでいる「ヘルスケア」という時代的なテーマがあったからだ。単なるドットコムではなく、インターネットという新しいテクノロジーが、高齢化で成長進化するヘルスケアと有機的に関連する新領域があるはずだと将来を読んだ。
 会社設立は99年12月3日で、私も社外取締役になった。ちょうど10月DeNAがとんでもない初期システムトラブルを乗り越えて、ビッダーズがめでたくカットオーバーし(11月29日)、DeNA一回目の増資が実現したのとほぼ同時期だった。創業の地は大門のインキュベーション「アイゲート」である。

インキュベーション施設「アイゲート」

 NTVPi 1号投資事業組合を創設したのが98年11月だが、その小文字の「i」には、私なりの強烈な思いがこもっている。「インディペンデント・インディビデュアルズ・インキュベーティング・イノベイティブ・ニュー・インダストリーズ・ウィズ・インベストメント・インセンティブ」つまり、「独立的な投資によって、新しい革新的産業を生み育てる誇り高き個人集団」という「i」で始まる単語がずらりと並ぶ意味と決意を込めた。翌年(99年)からNTVPは、この「i」シリーズのファンドで、創業投資となるインフォテリア(平野社長、XMLソフト開発)、DeNA(南場社長、モバゲータウン等運営)への大胆な支援が可能となったのだ。

 後に成功することになる企業も所詮、最初は個人からの活動が出発だ。自分の人生への思い込みもあれば、ホントのところ迷いもある。計算で割り切れない決断をしなければならない局面や人生の執念こそ、後から振り返ると重要だったりする。先日新聞にユニチャームの高原会長が子供の頃に田舎で悪ガキにいじめられて、砂浜に顔を押し付けられ砂を食わされ、「のちには見とれ!」と創業のエネルギーになった記事が出ていた。未だに砂を忘れないように持っているそうだ。

個人の創造的思いを育てる空間

 日本には組織がベンチャーを生み出せるという幻想があるように思われる。例えば、大手商社と大手電機メーカーと有名大学および大銀行と中小企業庁が組織的に打ち合わせをすれば、果たしてベンチャーの二つや三つが、組織連携会議の中から生まれてくるだろうか。

 答えは「NO」だ。実際のベンチャーが産声を上げる創業現場は、起業家である個人の平凡な悩みや家庭の事情を乗り越える地道な個人的背景の上に成り立っている。そこでの作業は、組織的な会議とはほとんど無縁である。組織は個人のアナログな人生の悩みを議論したり、解決したりしてくれない。

 そんな個人の困難克服支援の現場を99年、「アイゲート」というインキュベーションスペースを運営することで、日本にもシリコンバレーに匹敵する環境を小さくても提供しようと思った。当時のインキュベーションは、法人設立の済んだ中小企業向けで、「個人で創業しようと活動している準備中の為の施設」は日本になかった。だから、コンセプト自体が画期的だった。(多くの方に見学に来て頂き、似たような施設は以降増えていった。

浜松町芝公園のガヤガヤ
99年6月10日前述のNHK「おはよう日本」にインフォテリア創業期に投資をした頃の私の活動が紹介された。それを見た芝大門の新川さんという上品なビルのオーナーからNTVP(当時は本郷)に電話があり、本格的インキュベータを提案した。名前は大門が近かったので「ゲート(門)」に例の「i」をつけて「アイゲート」とした。

 当時はブロードバンド環境整備費用が掛かったから、リムネットの紺屋COOに依頼し、回線サービスを無料でお願いした。運営は、ETIC(宮城代表、ベンチャー学生インターンNPO、担当鈴木さん)と協力して、99年11月から運用を開始した。事務局には、同月にボランティアで始めた起業体験プログラムに大学生で参加したマコッチャンが、バイトで応援してくれた。アイゲートでは、参加者と情報交換会などがガヤガヤと行われた。

 なおエイケアは創業後、文京区本郷のNTVP事務所近くに移転し、創業期の電話は、NTVPの社員が取っていた。2000年春、事業立ち上げ資金1億2000万円を投資した。同年3月シリコンバレー視察にDeNA南場社長らとも行った。4月にようやく「Dr.赤ひげ.com」がカットオーバーし、物販など周辺事業の開拓を始めた。

シノックスと合併
 2000年は、新興市場(マザーズ、ヘラクレス)の新規上場による株暴騰とともにスタートして、楽天などが聞いたこともない公募資金(約500億円)を上場によって調達した。いわゆるドットコムバブルである。単純なポータルサイトの運営などには明日はないだろうと、すべて断った。ただ、インターネットの進化に伴うインフラの発展には長期的な可能性を強く感じた。

 リナックスを駆使し、様々なウェブアプリを開発しながらデータセンターを運営しようという「シノックス」に同年春、投資を決めた。メール配信やECサイト構築ツールなど様々なエンジンを持っていた。上場も計画中で、すでにD証券が主幹事で付き、01年上場を目指していた。

 シノックスS社長は大学生上がりで、最初からちょっとやんちゃなニオイがした。株価が結局下がるので効果がないですよ、という私の説明を振り切ってS社長は銀行から多額の借金をして自社株を買い、持株比率が下がらないようにした。7月シリコンバレーに視察に行こうと成田で待ち合わせをしたら、S氏のパスポートの期限が切れ出国できないなどという驚くべきトラブルもあった。

 そうこうしているうち、秋にはバブルが崩壊し、データセンターのサービス価格が暴落。銀行からの借金が重荷になって襲ってきた。先行投資をしていたシノックスの資金繰りが上場準備中に突然詰まって危機に陥ってしまった。役員会の強い依頼で、私が11月にS社長の代わりに代表取締役に就任し、会社をリストラすることとなった。待ったなしで、数日缶詰で作業した。VCが社長に就任するのはよっぽどのことである。役員には途中で投げ出さないようにと一人ひとり誓約書をもらった。毎日大手町KDDIビルに通い、4カ月かけて会社のサイズを1/3にした。メインバンクM銀行五反田支社にも何度も行った。周囲から、「村口さんは顔色が悪い」と言われた。誰だってリストラなどしたくない。リストラするにも構想力と交渉力、忍耐力が必要だ。今のエイケアと違って当時はサービスの品質も悪く、サーバーの管理も不十分でトラブルだらけだった。サービス品質の向上にも努力した。

 01年3月末、リストラ終了宣言をしてN新社長にバトンタッチした。その頃、ドットコムバブルが崩壊し、楽天の株価も大暴落。業界全体が整理統合の時期を迎えていた。その中引き継いだN社長は経営の戦意を失い、愚痴っぽくなっていった。そのN新社長と、有田社長が意気投合して02年1月、ヘルスケアネットとアフェクトコミュニケーションズ(シノックスのリストラ後の社名)が合併し、現エイケアシステムズ(新社名)が発足したのである。

エイケア成長へもがき
 01年秋、エイケアは御茶ノ水順天堂大学の裏に本社を移転した。そこから05年春青山一丁目に移転する3年半は、いろんな意味で発展の揺籃期と言って良いだろう。ビジネス的には、結果的にアフェクトと合併してよかった。結局Nさんは辞めたが、現在ナンバーツーとなった岩間さんが残った。02年Mail PublisherをASPとして確立し、サーバー群をデータセンターに出して整備した。03年1月有田社長、DeNA南場社長、Ubit大沼社長らと北京、天津に視察旅行に行った。03年に1億6000万円の増資が実現し、Mail Publisher Mobile版をリリースした。

 一方、健康関係のベンチャーを買収したが、結局うまく行かなかった。また合併後の社内を新たな体制でまとめようとしてかえって混乱し退職者も出した。この時期が、有田さんが本格的な経営者として成長した3年半だったと言えるかも知れない。ベンチャーが創業から商品やサービスを立ち上げていくとき、万に一つも最初から完璧な商品などない。一見技術は良くとも、出荷した商品に不具合のみならず、そもそも商品の仕様やコンセプトが顧客のニーズに適合していないことがままある。そこで重要なことは、ベータ版を出荷した後、必ず「商品サービスの修正作業を最初から計画」しておくことである。その時初期の顧客との協力が商品完成化のポイントである。エイケアは、有田社長の下、格段に商品サービスの品質が上がり、辛抱強く事業を育てていった。

ビートルズのハンブルグ巡業時代

 1962年頃ブレイク前のビートルズが、メンバーがまだ20歳の頃ハンブルグに何度も巡業し、朝から晩までスタークラブというバーで楽しくも厳しい演奏を続け、音楽を確立していった話は有名だ。エイケアも様々な困難を乗り越える過程で素晴らしい会社になっていった。創業ベンチャーが一人前になるには、顧客と目と鼻の先で向き合い、罵声を浴びながらも、前向きに顧客からの信用を勝ち得ていく過程が必要だ。その基本は古今東西変わらない。投資先にはいつか、地方都市リバプールのビートルズのように世界に出て活躍してほしいと思う。

著者略歴 日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代表  村口和孝 《むらぐち かずたか》
 1958年徳島生まれ。 慶應義塾大学経済学部卒。84年日本合同ファイナンス(現ジャフコ)入社。98年独立し、日本初の投資事業有限責任組合を設立。東京を中心にベンチャー企業の創業支援、株式上場支援を行い、ベンチャーカンファレンスを開催。99年よりボランティア活動として、「青少年起業体験プログラム」を慶應義塾大学など全国各地で実施。03年より徳島大学客員教授。07年慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師。

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