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Vol.41【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

地方自立創生と起業ベンチャー政策若いキャピタリストの活動

(企業家倶楽部2015年1・2月合併号掲載)

黎明期の日本のVC活動

 私が慶應義塾大学の学生時代にシリコンバレーでキャピタリストたちに会って将来を確信し、1984年に大学卒業してから、一人前になって独立する前に私は1998年までの14年間、サラリーマンとして証券系ベンチャーキャピタル会社(日本合同ファイナンス、現在ジャフコ)に勤務した。とはいうものの、私が入社したころのジャフコはまだ、シリコンバレーのLPSを日本式の民法上の形に変えて、最初の投資事業組合を恐る恐る設立したばかりで、リース会社に毛の生えたような存在だった。社内には証券マンと銀行員が新しいベンチャーキャピタルという新事業の意味を探っていて、経験もなく、ノウハウも何も未確立だった。

 そんな状態で新卒採用をしたものだから、当時、投資経験者も、仕事を教えてくれる人もいない。入社後配属が「営業部」で、とにかく首都圏の「上場予備軍の中小企業に飛び込み営業等で新規開拓をし、増資と上場を勧め、未上場株を取得して来い」、という非常に乱暴なミッションだった。ハンズオンなどという表現もなく、まだVCとは何か研究中だったのだ。それどころか、銀行に借金せずに、会社というものが、株式の額面に時価を付けて、増資で資金調達が出来ることすら、未上場の企業家たちは知らなかった。世間では大手銀行が圧倒的な力を持っていて、「エクイティファイナンス(直接金融)とは何か」、という問いそのものが新鮮だった時代だった。

 未上場株式の株価算定メニューや、上場準備提案などもあり、全国各地でセミナーやコンサルティングなども行っていた。当時の日本のVCは、エクイティファイナンスと、新興市場(店頭市場)への上場を、日本の中小企業に普及するために、親会社の証券や銀行グループの時代の先導役として活動した。(後に1998年私が独立した時に、「これまでの日本のVCは本物のVCではなかった」と初めてお会いした堀場雅夫氏から聞かされた話は、実際その通りで、スタートアップ投資なんて考えすらしていなかった。)

月曜朝の開発会議

 入社当時のジャフコには月曜の朝、「開発会議」と言う営業会議があり、そこで営業開発した中小企業から決算書などの基本資料を貰って上司と同伴外交をした後、どんな会社か、発表することを競っていた。私は新入社員で当時12週連続発表という記録を作った。

 まず「日本合同ファイナンス」と言う名前では、サラ金と間違われてなかなかアポイントが入れられない。「時価発行増資をして上場しませんか」と言っても、そうそう中小企業で、上場を目指している会社などない。だから日経新聞、日経産業新聞を元に、帝国データや東商信用録から、ピンとくる会社を選び出して、毎日アポイントの電話を30から60件ほどかけまくって、ようやく週に5件経営者のアポイントが取れるかどうか、という状態だった。日に50件以上電話をかけ続けると耳たぶが痛くなってくるし、最初にかけた電話で何を話したか覚えていられないから、あとになって分毎の電話記録簿を付けた。企業のナンバーツーなどにアポイントが取れて喜んでいると、肝心の経営者アポをブロックされてしまって全く会いたい社長に会えないという袋小路にハマってしまうことも時々あった。しかも、経営者に会ったからといって、よほど信用されないと簡単に決算書など出してくれるものではない。インターネットも携帯電話もない状態の新規外交は過酷で、正に朝から晩まで必死で東京の街を駆けずり回って、経営者と面談した。外交の途中で公衆電話を使って電話外交しながら電車を乗り継いで面談活動に奔走した。

 訪問した会社の社長と話をするためには、事業内容を理解しないといけないし、話についていけなければ二度と会って貰えない。当時のジャフコには、誰もVC経験者がおらず、グーグルもないから、図書館に行ったり、様々な業界を勉強しながら、週末には会社に行って貰った決算書を財務分析し、開発報告書にレポートをまとめ、何とか月曜日の会議に間に合わせる毎日を延々と送った。

 どんな社長なのか、どんな会社なのか、どんな商品・事業なのか、どうやって商品を提供できるようにするのか、どんな業界なのか、どんな事業機会なのか、どんな顧客なのか、市場規模はどれくらいあってどうやって成長するのか、どんな財務内容なのか、どんな組織なのか、上場できるのか、どんな投資が出来るのか、といったことを矢継ぎ早に聞かれる会議で、最初は新人で何も説明できなかったが、だんだんと要領が身についてきた。

20代は、大量に仕事を体験せよ

 最初の一年で、おそらく300人くらいの社長と面談し、経営の話を聞いただろう。考えたり本を読むのも大切だが、ノウハウが確立していないVCという未知の領域では、大量に体験をして先にノウハウを確立する事こそが唯一の生き残る道だと思った。短い人は20分くらいで長い場合は一回の訪問で5時間くらい話し込んだことも複数ある。村口が外交に行ったまま戻ってこないと問題になったことが何回もある。私のことを不効率だという人もいたが、私は起業家と話しをするのが楽しいし、何より勉強になったので、人の5倍働いた。

 それを在職中に14年間続けたので、5000人以上の経営者と面談したと思われる。業種や会社規模は様々で多様である。農業、水処理事業、CATV事業、不動産事業、ソフトウェア産業、スーパー小売業、建設会社、問屋、物流業、専門商社、各種製造業、金融サービス業、半導体製造装置、プリント配線板開発業、PC販売、水産加工業、ゲームセンター、FA機器開発システムハウス、広告業、人材採用、教育、行政サービス、医療サービス、ネールサロン、演劇、飲食業、通信業、パソコン通信、プロバイダなど、誰でも会える経営者には会って話をした。会っていない業種がないくらい街を歩いた。それが現在の私の経験のベースになっていることは間違いない。

 一つの最終商品が小売店舗に並ぶにも、店舗の内装業者、物流業者、倉庫業者、問屋、加工会社、部品メーカー、材料素材メーカー、システム会社、本社の人材・経理サービス業など、様々な業種が連携していることも経験的に勉強できた。経済学でいう所の産業連関関係である。逆に言うと、一人の経営者の活動の周辺には様々な企業と、それを運営する経営者が関連しているということも分かった。つまり、一人の企業家の周りには、10人の企業家がいるということであり、一人と信頼関係が出来ると、数珠つなぎで経営者人脈が出来る事を意味していた。経済社会の中では、悪い関係も連鎖しているが、良い関係も連鎖しがちだ。

 とにかく様々な業種の経営者と大量に会った。その連関関係が、各会社の取引を通じて、業績の連関関係に結びついているし、業績は社会の中で、仕入れや販売を通じて連動していることがよく分かった。20代は思い切り多種大量に経営者に会い、その社会の経済構造に体験的に触れておくことは、とても貴重である。「20代は、仕事を大量に体験したもの勝ちだ」と思う。
 
生まれて初めての上場案件

 2年ほど東京で会社訪問に明け暮れる投資開発活動をして、東上野にあった「日本データー機器」(NDK、1984年投資、1988年店頭上場)という案件などに投資した。この会社は、私がキャピタリストとなって初めて上場した20代の初期上場成功案件である。業種はごく普通のOA機器商社で、システムハウスとして、産業機器を製造していたが、先進性が際立っているわけでもない。ただ経営者の「成功への情熱」が強かった。

 当時、ハンズオンという言葉がなかったが、サラリーマンで開拓営業がミッションであったにもかかわらず、私は毎日のように投資したばかりのNDKを訪問し、朝のラジオ体操朝礼にも参加し、挨拶させて頂き、会社の問題点や課題を探しては解決すべく、活発に応援した。社内講習会の講師もした。売上は25億円、経常利益2億円強で、1988年店頭市場に上場を達成し、人生最初のキャピタルゲインに貢献した。若い頃の成功は、何よりも大きな自信になる。

地方自立創生のカギ

 1986年2月北海道に転勤したが、前任者から「北海道から上場企業は10年も出ていない。こんな所から上場企業は出ないから、1年半くらいでスキーとゴルフを覚えて、東京に帰れ」と言われた。私は時間がもったいなかったので、地方経済を研究した。

 「地方経済が自立して成立するためには、

1.地方から元気な起業家が出現し、

2.資本の豊かな本州から時価発行増資で経験豊かな資本を導入し、

3.地方で商品やビジネスモデルを試行錯誤し、

4.そのモデルで都市の、大市場へ進出し、

5.成長しながら上場し、さらに発展、

6.結果的に、出身の地方経済に貢献する」

 というストーリーが重要だと思い立った。それを北海道中の経営者を説得して回った。

 札幌で出会った第一臨床検査センターの大谷喜一代表(当時36歳)と出合い、日本データー機器(NDK)の成功物語を何度も話した。大谷社長は、NDKの成功を参考にして、複数の重大危機を乗り越え、当初三洋証券主幹事の予定を野村に替え、上場した。

 他にも、ナガワ、松本建工、共成レンテム、福原、ジャパンケアサービスなど、次々と投資と上場を成功させ、特に上場会社のなかった帯広から2社新規上場会社を出したことはまさに地方創生で、歴史的だった。結局、7年半も北海道にいることになった。北海道経済にいくらかは貢献できたと確信する。いずれも私の30代前半の成功事例となった。第一臨床は、上場後多角化に失敗し、リストラを実行。社名をアインファーマシーズに改め、業態を調剤薬局へ。現在、売上2000億円の業界日本一の上場会社に発展している。

東京転勤から独立VC

 若い頃のNDKを経て、北海道7年半でアインファーマシーズやジャパンケアサービスのVC投資成功体験を経て、1994年東京転勤後、いくつかの仕事をした。それがブロッコリーや、PALTEK、日本コンセプトなどの30代後半の投資支援案件そして、更なる上場成功事例へと結びついた。

 1998年イスラエル旅行をきっかけに、私は独立し、堀場雅夫氏等の協力を得て、創業投資を目的とする個人型のNTVPi-1号投資事業有限責任組合を設立した。金融機関の新規事業として始まった日本のVC事業が、ようやく独立ハンズオン型VCとして、シリコンバレーのそもそもの原型と同じ形態でスタートアップ投資が可能となったのである。創業投資に最適化された投資組合によって、インフォテリアやDeNA、エイケアシステムズ、ウォーターダイレクト、ジャパンケーブルキャストなどへの投資が可能になって、新しい日本の独立VC成功の歴史がスタートした。DeNAが上場した時、私は既に40代半ばに差し掛かっていた。私のVC投資成功モデルは、北海道という地方経済の自立的創生への処方箋を書くところからアイデアがまとまって来たことは、間違いない。

著者略歴

日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合 代 表 村口和孝 《むらぐち かずたか》 

 1958年徳島生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。84年現ジャフコ入社。98年独立し、日本初の投資事業有限責任組合を設立。07年慶應義塾大学大学院経営管理研究科非常勤講師。社会貢献活動で青少年起業体験プログラムを品川女子学院等で実施。

 投資先にはDeNAの他、ウォーターダイレクト社が13年3月15日東証マザーズに上場。 

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