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Vol.58【日の丸キャピタリスト風雲録】日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合 代 表 村口和孝

会社名や組織名・役職・内容につきましては、取材当時のものです。

企業家倶楽部アーカイブ

亡き母美歩子に捧ぐVC投資、社会貢献の原点

(企業家倶楽部2017年12月号掲載)

母美歩子死す(10月3日未明)

 2017年10月3日早朝4時頃、父から急な電話があり、母美歩子の死を知った。両親の年数回の楽しみである故郷(徳島県海部郡海陽町大里)滞在中に、入浴中に死んだらしい。私は徳島に急行し、中秋の名月の下、お通夜を行い、故郷で一族と一緒に母の魂を送った。戒名は、抱月院賢要愛證大姉。82歳だった。

 母の人生はドラマチックだった。小中高と成績優秀で大学進学を当然視されていたが、家庭の事情で進学が叶わなかった。小学4年の時、父大澤甚平を南海大地震(1946年12月)直後の津波で亡くしたのだ。高校を卒業して徳島市で書店に就職し、クラシック音楽や世界の名作の薫陶を受けたようだ。その後、小島昌太郎博士(京都大学経済学部長)の自宅に、花嫁修業を兼ねて住み込みのお手伝いをした。高卒のお手伝いにも関わらず、母は英語の読み書きが出来たため、小島博士から秘書みたいに可愛がられたらしい。

 その母が結局嫁いだのが、母の故郷で小さな漁網製造事業に成功し、田舎にあっては当時経済力のあった商売道を重んじる村口竹次郎の次男、幸男(私の父)である。村口の子は家業を継げばよい、学問など商売には意味がない、簿記と事業実践と信用が大切という雰囲気の中で、母は我が子を大学に行かしてくれるかも、という希望の元、田舎の父と結婚した。三人の子供をもうけ、長男として生まれたのが私だった。

母の教育と上京
 私は田舎者のくせに、母美歩子の影響でカラヤンのクラシック音楽を聴き、シェイクスピアなど、世界の名作の断片知識を母から聞かされながら、雄大な自然の豊かさや、小さな野花の瞬間の感動を教えられ、育った。田舎にいてその方面の目を開いたのはもっぱら母である。たまたま小学中学の時、母の勧めで乃一先生という母の同級生の先生から教わった水泳で、県代表になった。小島博士の息子で大学教授になった小島孝氏が母から私の様子を聞き、読ませろと送ってくれたのが、タイムライフ社の「宇宙」、「原始人」という本であり、幅広い関心に世界を開かされた。中学生の私に、近所の母の元恩師原田先生から古典の講義を受ける場を設定したのも、母だった。母は様々な優秀な部分のある人には私を会わせようとしたがり、中学生の時にはとうとう小島昌太郎先生宅で、直接世界の貨幣を見せてもらったりした(当時の私には猫に小判だったが)。母なりの、田舎風英才教育というべきか。

 高三の時に私が家業を継ぐのを期待していた竹次郎が死に、高校で理系が得意だったので、漠然と医学部を目指していた私が、自宅浪人して初めて毎日一冊の読書を始め、世界の名作や司馬遼太郎に触れた。浪人生活は一年で終わらず、二年目には予備校で東京に上京。駿台予備校で歴史の面白さなどに世界を開かされた。慶應義塾大学経済学部に受験日程の偶然から入学した。そう思えば合点がいく、当時謎だったことがある。慶應義塾大学に受かったと四谷駅前の公衆電話で母に報告したとき、母は電話の向こうで「えらかった、えらかった」と言いながら物凄く泣いて、当時の私には不思議だった。母こそ、大学に入学したかったのだ。それを息子に託す選択をした結果の結婚だったのだ。


シェイクスピアと出会う

 私は私で二年も浪人して文系に方向を変えることになり、自己喪失感にさいなまれながら、シェイクスピア研究会に入って演出にのめり込んだ。浪人を経て、田舎から都会へ、理系から文系へ、という時間と場所をワープする振れ幅の大きな私の人生、津波で父を失った母の生々しい体験談があって、シェイクスピアが描くドラマチックな人の劇空間への理解が深まった。

 残念ながら、母は父の養鶏業を手伝っていたので休みがなく、私のシェイクスピア劇を東京に見に来たことはない。経営的な新事業への洞察は父や祖父の家業の影響だが、私の今の精神世界の特に芸術や学問の方面に跳躍があるのは、どう考えても母の撒いてくれた様々な縁の延長線であるように思えてならない。

 シェイクスピア劇演出からは、多くの学びがあった。自分で人生を選択すること(田舎から都会に出る、結婚するなど)と、選択せざるを得ない事象(津波で親が死ぬ、親が離婚するなど)は、起こることである。人間はすべての人生がドラマチックである。没落か、繁栄か?人生は実に不思議だ。人生の中には、失敗や事故や錯誤や、刹那の歓喜や苦痛や、ユーモアや冗談は日常のことで、それらは皆の人生に共通だ。ただその結果が大きく異なるのを、みんな知っている。人間の人生は同じ人でも、失敗や事故を乗り越えて充実した喜劇的人生もあれば、うまく誤魔化せると思った巧妙で浅はかな工作が、結局とんでもない悲劇的人生をもたらす場合もある。人生の違いはどこから、なぜ生まれるのか?シェイクスピア劇が発する人生への根本的な問いかけである。起業家がゼロから起こすベンチャーやスタートアップ経営の栄枯盛衰も、人間の活動である以上、同じはずだ。ひるがえって、自分の人生は、いかにあるべきか?

「ヴェニスの投資家」

 具体的な芝居で見てみよう。「ヴェニスの商人」ほどシェイクスピアの意図と異なった演劇になってしまっている劇はないだろう。結婚を箱選びで選ぶなど、現代においては茶番だと批判され、シャイロックというユダヤ人とキリスト教社会との対立として描かれることが多い。私の読み方は少し違う。The Marchant of Veniceというからには、主筋として、ヴェニスの歴史的なすごい投資家の話が描かれているはずだ、と私は思う。物語から言って、それはシャイロックではなく、明らかにアントーニオである。また、現在のビジネスで「商人」などという単語は日経新聞にも出てこないから、題の翻訳そのものがそもそも茶番風に意訳し過ぎだ。第一幕の幕開けで、アントーニオは船に複数分散投資していると言っているから、現代の翻訳では「投資家」がもっとも分かりやすい。「ヴェニスの商人」ではなく「ヴェニスの投資家」、「証文」も「証書」「契約書」と訳した方がいい。

 話が投資なのならば、一般的に言われる「偏見、復讐、正義、金、愛」(シェイクスピア大図鑑、スタンリー・ウェルズほか著)などがテーマではないはずだ。現役VC投資家の私が、実際現場的にテーマを選ぶと、「投資の王道、未来を選ぶ、契約書面と誓約、世間の無理解と試練、法と愛」とでもするだろう。結局、劇の最初に分散投資していたアントーニオの船は、最後に商品を満載して港に戻ってくる。投資回収大成功ですごい。(にもかかわらず、アルパチーノがシャイロックを演じた映画「ヴェニスの商人」では、船が戻らずに映画が終わる始末だ!明らかにテーマの設定が原作と違ってしまっている。)私の理解では、シャイロックはユダヤ人の中でも「書面契約主義に歪んだユダヤ人」という設定だ。(ユダヤ人が金融世界で、形式主義に陥らず、創造的に活躍していることを現代人はみな知っている。またヴェニス投資家仲間にも歪んだ人は劇中、大勢登場する。)

 また本来投資家は、自分の金か、パートナーシップで投資をするが、返済の確定した借金で投資はしない。その原則を破って、アントーニオは親友を助けるために、事もあろうに形式厳格なシャイロックから金を借りて投資をしたから、ドタバタで裁判に巻き込まれてしまった。もちろん、私のベンチャーキャピタル投資は、これを参考にしてパートナーシップ(投資事業組合)で投資している。またVCの投資尺度も「ヴェニスの投資家」の箱選び(輝くもの必ずしも金ならず)の視点が基本にさせて頂いている。

To be or not to be 経済学

 結局私の人生は、母から聞かされていたシェイクスピアに夢中になり、母がお手伝いをしていた主人が教えていた経済学にたどり着くことになった。深い機縁である。慶應大学生時代、留年までしたシェイクスピア劇では食っていけないことを先輩のアドバイスで知り、劇をやめ、大学二回目の二年生の時に勉強して目覚めたのが経済学である。経済学は、各々のミクロの経済主体の個性的な動機に基づく行動と、複数がその相互作用の結果社会をマクロで作り出す様子を、科学する。シェイクスピア劇には正に善人から悪人、恋愛から家族の愛憎まで極めて多様な、移ろいやすい人間の行動が描かれている。各々の現実の人間学があった上にこそ、経済学は理解されるべきだと思った。芝居の登場人物たちである人が、人生の舞台の上で各々好き勝手に経済活動していて、なぜそこに自然にマクロの経済的秩序のある社会が生まれるのか、または秩序や制度はどうあるべきか、という原始的な問いである。俄然経済学の勉強が面白くなった。

 そこからゼミの先生から聞いたベンチャーキャピタルという、ゼロからフロンティア産業の立ち上げに投資するシリコンバレー生まれの変わった職業に興味を持ったのも、シェイクスピア劇演出の経験からの着想だ。ゼロから半年後に舞台を立ち上げないといけない、というスタートアップの苦労を味わった経験と重なると思ったからだ。スティーブジョブズらの起業家の物語は、現実であってシェイクスピア的だ。同時に、劇をゼロから上演に向かって立ち上げていくプロセスも、アップルコンピュータを創業して立ち上げていくプロセスも本質において同じだ。学生時代に訪問したサンドヒルロードのベンチャーキャピタリストもHuman understanding is importantと指摘してくれた。私の人生は、母に導かれ、シェイクスピアと経済学に教えられ、ベンチャーキャピタリストとなり、フロンティア領域の創業投資に挑戦する人生へと、たどり着いたのだ。 また最近では、小島昌太郎先生から中学生の私が見せられた世界の貨幣への興味の影響か、仮想通貨のベンチャーを創業投資して応援し、ICOのCOMSAが、新聞などから注目されている。結局これも、母親の因縁かも知れない。

母への感謝

 告別式で妹から聞いた話。母が65歳位の頃か、故郷の砂浜の焚火あとを見て読んだそうだ。「何事も うずもれ火(び)なる 我が人生 きらりひかれる 吾子(あこ)はまぶしき」。母美歩子は、父親と仲良く手をつないで毎日散歩をするようになる晩年に気持ちの変化があるまでは、自分の人生に納得できなかったのだろう。(なお母が「スザンナのお人形」、佐野洋子が好きと、お通夜で初めて人から教えられた。)

 私が98年NTVPとして独立して以来、起業体験プログラムや、海部高校(母の出身校)支援プロジェクト、ふるさと納税や東芝メモリ解決案提唱など、これまで社会貢献活動に注力してきたのは、母自身では人生の中で実現が困難だった母の高い目線を、私なりに超えようとした結果である。私の人生の深い動機の元をたどれば、母が小学四年生の時津波で父を亡くし、大学進学をあきらめ、主婦となって果たせなかった母の人生の大きな社会活動への志を、息子である私が母に代わって実現してきたのかも知れない。

 合掌。お母ちゃん、ありがとう!安らかにお眠りください。もっともっと、出来る限りの与えられた人生、頑張って活動し続けるよ。空の上から、楽しみにずっと応援して見ていて下さい。

著者略歴 日本テクノロジーベンチャーパートナーズ投資事業組合
代 表 村口和孝 《むらぐち かずたか》

 1958年徳島生まれ。慶應大学経済学部卒。84年ジャフコ入社。98年独立、日本初の独立個人投資事業有限責任投資事業組合設立。06年ふるさと納税提唱。07年慶應ビジネススクール非常勤講師。社会貢献活動で、青少年起業体験プログラムを、品川女子学院、JPX等で開催。投資先にDeNA、ジャパンケーブルキャスト、テックビューロ等がある。

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